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百歳学入門(32)『世界ベストの画家・葛飾北斎(90)の不老長寿物語』ー『創造人間は長寿になる』

      2015/01/01

百歳学入門(32)
『世界ベストの画家・葛飾北斎(90)の不老長寿物語』
 
『創造人間は長寿になる』→『生きることは日々新たなり、また新たなり』
→『創造に熱中する人間は、常に明日を向いて、年など振りかえらない。
いつのまにか気がつけば百歳となる』
 
     前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
米雑誌「ライフ」は1999年の特集企画で「過去1000年で最も偉大な功績をあげた世界の100人」の1人に、日本人では唯一、浮世絵師の葛飾北斎を選んだ。
 
90年の生涯に、版画、肉筆画、挿絵、漫画など森羅万象3万点以上描いた北斎は西洋絵画を超えた表現技法を創造し、ゴッホらフランス印象派の画家たちに多大な影響を与えた。
 
今、世界を席巻する「ジャパンアニメ」「ジャパンクール」の元祖でもある。
 
北斎は1760(宝暦10)年9月、江戸本所割下水で石工の子に生まれた。本所はもともと葛飾郡に属しており、のちに葛飾の名のった。「われ幼少よりものの刑状を写すクセあり」で、5,6歳のころから絵心があり、19歳で浮世絵界の大物・勝川春草に弟子入り、役者絵などを学んだ。
 
貧窮の生活を続けながら画業にまい進。39歳で北斎を名乗り、浮世絵から大和絵など幅広いジャンルを手がけ、滝沢馬琴とコンビを組んだ挿絵で売れっ子となった。その後も常に新しいジャンルへの研鑽、技巧の研究に余念はなかった。
 
美人画で有名な喜多川歌麿は北斎より若かったが、54歳で亡くなった。一方、北斎は齢五十をこえてますます円熟期に入り、「北斎漫画」(絵手本)を完成した。これは人間、歴史、風俗、風景から動物、植物、生物など森羅万象3191点にのぼるスケッチ集で、いわば『イラスト大百科事典』とでもいうべきもので、北斎の本質をつかむ的確なデッサン力が示されている。
 
ヨーロッパに輸出された『日本陶器』の梱包材として、浮世絵がたくさん入っていたが、1856年にフランスの石版家ブラクモンがパリでこの1冊を目にして大きな衝撃を受けた。「ホクサイスケッチ」として、ヨーロッパ中に一躍広がり、北斎の名を世界的にした。特に、フランス印象派には大きな影響を与えた。
 
北斎は絶えず発展、進歩を目指して精進を続け、晩年にますます本領を発揮した。1831(天保2)年、72歳になった北斎は『富嶽三十六景』の連作の第1作を発表した。遠近法、デフォルメ、ダイナミックな構図の集大成で、その驚異の動体視力で迫力ある波頭を描ききって、「あか富士」を加えた「冨嶽百景」(続編を含めて46点)を76歳で完成した。これは歌川広重の「東海道五十三次」と好一対をなす浮世絵の傑作であった。
 
この時の前書きに「70歳前に書いたもので取るに足らない。73歳でやっと、禽獣虫魚の骨格、草木を書けるようになった。80歳にしてますます進み、九十才にして奥義を極め、一百才にして正に神妙ならんか。百有十才にしては一点一格にして、生るが如くならん。願くは長寿の君子、予が言の妄ならざるを見たまふべし」と長寿へのあくなき執念を語り、「画狂老人卍」とサインしている。
 
北斎の創造力の秘密は、その破天荒な奇行ぶりとその結果としての長寿である。生涯93回も引っ越し、1日に2度越したこともあった。画業に適さない場所はさっさと引っ越した。
 
<上記の点に関して、私も年齢を計算すれば68歳となったので北斎の晩年の心境は少しは理解できる。若い人は年をとると、すべての点で衰えてくると思いがちだが、それは誤解である。体力、精力、知力、記憶力、食欲などは40代、50代とくらべるは確かに衰えてはくるが、それも個人差があり、自分の体験、知見に関して言えば、知力、研究心、好奇心、創造への情熱はますます執念のように強くなる。北斎の心境はよくわかる。>
 
 
また、北斎についての有名なエピソードも画号、ペンネームを30回以上、変えたと言う点である。若い順からあげれば、春朗・群馬亭・宗理・百琳宗理・俵屋宗理・北斎宗理・北斎・可候・不染居北斎・辰政・画狂人・錦袋舎・画狂老人・九々蜃・戴斗・雷震・鏡裏庵梅年・天狗堂熱鉄・為一・前北斎為一・不染居為一・月癖老人・卍・百姓八右衛門・三浦崖八着衛門・土持仁三郎・藤原為一など、学者によってはなお多くの画号を指摘するものもある。
 
これをもって、奇人・北斎を強調する人もあるが、馬鹿である。名前などどうでもよいのである。唯1点、自分の満足する絵がかければよい。創造力があふれ出てきて、書いても、書いても書きたらない創造人間にとって、作品の出来こそすべてであって名前などどうでもよくなるのだ。
それと、名前をかえて絶えず一から出直し、新人としてチャレンジしていく、『日日あらたなり』の精神、また、同じ発想で90回以上も引越ししたのも、気持ちをきりかえて、新しい場所で再出発していく、描くのに最適な環境をもとめて、変わり続けたのであろう。大家となって豪邸に安住して、号何百万をふんだくるバカげたサギ絵描きとは全く違うのである。
まさしく、創造家であり、ベンチャー画家であり、浮世絵とか、日本画という狭い枠ではなく、あたらしい芸術、表現方法を創造しようと年など考えず(本人は年取ったなどとはあまり考えたこともなかったであろう)、創作に没頭したのである。この気持ちは痛いほどわかる。
 
 名前などどうでもよく良い作品を作ることに最後までこだわり、改号の度ごとに新たな画風を切り開いた。北斎の偉大さは常に安住せず、努力、研鑽を続けて一歩一歩高みを目ざして、前人未到の境地にたどりつき世界の絵画史上に残る『冨嶽百景』を完成したことだ。
 
生涯現役を貫き90歳もの長寿を達成できたのは、生活も貧乏も世俗もすべてなげうって創造の神となった「画狂人・北斎」の執念、画業三昧そのものであった。超高齢社会のわれわれの生きた手本であり、北斎生誕250年に当たる今年(2010年)、その「クレアティヴィティ」(創造性)が再び注目されている。

以下は飯島虚心『葛飾北斎伝』や、内藤正人氏(慶応大学部文学部教授)によると、
 11代将軍徳川家斉公は、かねてより北斎の画の妙技を耳にしていたが、あるとき鷹狩りの途中で浅草の伝法院に絵師谷文晃とともに呼んて、画を描かせた。
 まず文晃が描いたのち、北斎の番となった。北斎は物怖じせず、花鳥山水を難なく描いて周囲を驚かせた。それが終ると、今度は横に長く継ぎ足した唐紙をとり出して広げ、まずそのうえに刷毛であい色を引いた。つぎに、持ってきたカゴから何のニワトリをおり出して、その足に朱肉をつけ、紙のうえに放ち、ニワトリは赤い足跡を紙上に点々とつけた。おどろく、将軍に対して「これは龍田川の風景でございます」と説明した。一同その奇抜な趣向にびっくり仰天した。
 
 北斎は滝沢馬琴の食客だった。あるとき北斎の母親の年忌にあたり、馬琴はその窮状を察して若干の金を紙に包んで北斎に与えた。さてその日の夜のこと、北斎が外出から帰り、談笑の後で、鼻をかんだ紙をみて、「これは今朝与えた香典包みではないか、せっかく与えた金を供養に供せず、他事に使うとは親不孝者め」と激怒した。
これを聞いた北斎は笑いながら、「お察しのとおり供養の金は食べ物に代りわが腹におさまったが、そもそも仏前に精進料理を供え、また僧侶に読経させるなどは単に世俗の虚礼にすぎない。それよりも自分の体を養って百歳の寿命を保つほうが父母にとっては孝行になる」と答えた。馬琴はただ黙然と聞いていたという。
 
 天保十年ごろ、達磨横町に転居したころの事、北斎の家は火災に見舞われた。75歳前の時点で、彼の転居はこれまで56回に及んでいたが、それまで一度も火災にあったことがなかった。これがはじめての火災で、乏しい衣類や諸道具をすべて失い、同居の娘・阿栄とともに乞食同然の状態なった。
絵を描いてほしいという人があったが、筆以外の文房具は一切ない。北斎は徳利を割ってその底に水を入れ筆洗とし、その他の破片は絵具皿として用いて、絵を描いた。ひどい貧乏状態だったが、北斎の顔には落ち込んだ悲観はみられなかった、という。
 
八十七齢の北斎は創造への意欲は劣えず、眼鏡をかけずに曲書きをし、背も曲がらず版下を描いており、雨のなかを足駄を履き、両国辺から日本橋まで往復しても平気なほど達者であったという。
 
1849年(嘉永二)、九十齢となった北斎は浅草の借長屋に住んでいたが、病気に伏せた。死期を悟った北斎は、大きく息をして「天、我をして十年の命を長うせしめば」と言い、また「天、我をして五年の命を保たしめば、真正の画工となるを得べし」とつぶやいて、90歳で亡くなった。
 

 

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