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★5日本リーダーパワー史(783)『明治政治史の謎を解く』★『秋山定輔の国難突破の政治力ー秋山が仕掛けた日露戦争の引き金となった前代未聞の奉答文事件の真相を語る」★『第十九回の帝国議会はわずか半日足らずで解散になり、河野広中議長も職を解かれた』

   

★5日本リーダーパワー史(783)

『明治政治史の謎を解く』★

『秋山定輔が仕掛けた日露戦争の引き金

となった前代未聞の奉答文事件の真相」②

 前坂 俊之(ジャーナリスト)

奉答文事件

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%89%E7%AD%94%E6%96%87%E4%BA%8B%E4%BB%B6

秋山定輔

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E5%B1%B1%E5%AE%9A%E8%BC%94

河野広中

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B2%B3%E9%87%8E%E5%BA%83%E4%B8%AD

 

『秋山定輔は語る』(松村梢風との共著、講談社、1938年)「秋山定輔伝第2巻」②。

麻布の宅へ帰り、直ぐに床についたが、私は家族に『自分は今から寝るが八時過ぎまでは寝かして置け、朝の七時になったら必ず林田書記官長のところへ電話をし、今朝八時頃には是非お目にかかりたいのでお待ち願いますといっておけ』と命じて置いた。

その時分の林田亀太郎書記官長と私とは、特別。親しいものがあった。我々は度々、紅葉館だの赤坂あたり飲んで、国事を談じたり憤慨したりもしたものだ。そんな親密な関係で、必ずどんな場合でも三十分や一時間待って貫もらえることを知っていた。

翌朝、私は八時頃と約束しておきながら、林田君を訪ねたのは九時近くになった。1時間遅らせたのは、彼に登院の時間を遅らせて各派交渉会を開くことが出釆ないようにするためだ。

応接間へ行くと、林田君は金ピカの礼服を着用して、今まさに出掛けんとする様子でしびれを切らして待っていた。

『君、今日はそう急がんでもいいじゃないか、開院式だけだらう』『うん、その前にちょっと交渉会があるんで』と別に詳しい事はいわはない。

『交渉会って、一体何の交渉会かね』

『奉答文の事で一寸開くんだが・・』

『そんなものは毎年のことだから謄写版にすったような事だらう』と私は時間を引きのばした。

陛下の臨幸が十時である。だからその前に交渉会を開くとすれば、書記官長は遅くても九時頃までには登院していなければならぬ、書記官長がいなくて交渉会も何も開けない。私はなるべく時間を潰すやうな話ばかりをして、当院するのを妨害した。

やっと、私達はつれ立って衆議院へ行った。その時は既に陛下御出御に間のない時刻だった。果してその朝は各派交渉会はなしとなった。

実は、何を隠そう奉答文の中で弾劾上奏をすることができること、それは違法でないという知識とヒントを私に与えてくれたのは誰あらう衆議院の書記官長、議院法の権威である林田亀太郎君だった。

それは余程前のこと、或席で林田君が酒をのみながら、議院法学者らしい顔をして、政府に対する不信任や弾劾上奏の方法について、いろいろな方法を列挙した時、奉答文の中で弾劾上奏をすることも違法でないということを私に教えたのである。

いそいで議場へ出た。まもなく陛下の出御がある。

例によって開院式の詔勅を下され、これに対して議長が奉答文を議場に諮る場面となった。

河野広中議長のそのときの態度は、真の名優の舞台にも比較すべきものであった。むしろ崇高な気を以て満された演技であった。1点の曇りもなく、何一つ求むる気も打算もない、ただ、自己の確信を行っているところの勇者の気魂、壮重、崇厳、それらが結晶して1脈の神気横溢する感じさえあった。

結果は、予想外の大成功だった。先づ奉答文を読み始めていよいよ弾劾的文句に入り「今ヤ国運ノ興隆、千載一遇の・・」といふ箇所になれば1段と声を高めよう、前もってみんなで打ち合わせをしていたが、全く筋書きが外れた。

私は弾劾の文句にかかると同時に先づ一人で大きく拍手を送るという役目を持っていた。同時に私は河野君の身辺を注意するという大責任を持っていた。そのために、私は通り道の一番端に陣取ってゐた。

私は瞬きもせず息をこらして河野議長の方を見つめていた。

「今ヤ国運ノ興隆・・」と河野君がいい掛けた時、さアここだと私は思いながら、成るべく緩くり、大きく一拍手してやらうと機をねらっていると、何という不思議なことであらうか、それはまるで神の声とも天の声とも知れず遠くの方からポンポン、パチパチと手が三つほど鳴った。

拍手はそれ以外の思いも寄らぬところから、次々に聞えて来た。

「おや、おや」と思うもなく、拍手はどんどん広がり。遂には満場割れるやうな大拍手となった。

私はポカンとしてしまった。その時の気持、嬉しさを通り越した有難さ、涙が出る程だった。

満場の拍手が済むのを待って河野議長は「皆様御異議は御座りませぬか」と念を押された。これは実に河野君ならではやりえぬ芸であると私は思う。そのの態度の立派なこと用意の周密なることは正に堂にたるものといわなければならぬ。「皆様御異議は御座りませぬか」とハッキリいったのであった。

すべてが神業である。自分等の小細工はすべて無用に終った。予期以上、ほとんど不思議な位の大成功である。

 

自分は最早この議場に用はない。私は直ぐ議場を出て足早に玄関へ出た。

自分の姿が議事堂の玄関に現われるや、自分の車夫が玄関に待っており、行く先は霊南坂を上って右側の御邸、当時の伊藤博文枢密院議長官舎である。玄関番は顔見知りの者の案内を乞わずいきなり2階へ上り大広間をいきなり開けた。

貴族院の四五人の連中とストーブを囲んで雑談をしていた伊藤公は葉巻をくわえながらいきなり戸を開けた私の姿を見た。いつもと異った燕尾服、それを不思議さうに見て「おお」と云うから、私は中へ入らず公爵に右手を挙けて「ちょいと、こちらへ」といった。公爵は起って部屋の外へ足を運び「ああ今日は開院式だな」と云った。

その前の部屋に公と入り、腰を掛けると同時に、「今、衆議院が満場一致で弾劾上奏案を通過しました」と私はだしぬけにいった。

伊藤公はまだ解せぬ面持で

「そりゃどういうことだ」

「奉答文の中に政府弾劾の意味を含ませこれを議長が読んで、満場異議なく可決したのです」

伊藤公は「フーム」と云って、しばらく考えていた。初めて老公の口から出た言葉は意外であった。

「大隈がやったのか」

この一言をみると、伊藤公の頭にはいつも大隈伯の事が潜在していたことがわかる。

で私は「いえ」と云った。すると、

「犬養か」と老公は云った。

「いえ」と自分はこたえ、「いえ、私らも神業で御座んすよ」と云って笑った。

これで伊藤公は、発頭人が私自身であることをハッキリと知った。それで、公爵の顔色はすっかり変り、いかにも落ちついた愉快らしい顔色になった。さうして

「政府の奴ア弱るなあ」と云った。

「少しは弱ってもらわんと困ります」と私は答へた。

其処へ、慌ただしく給仕がやって来て、

「ただいま、長谷場(純孝)、大岡(育三)、松田(正久)のお三方が直ぐにお伺いします、御面会を願い度いと申されます」と云った。

給仕が去った後で伊藤公は

「政友会もビックリしたろう」

こういうところに矢張。伊藤公の性格が発露していると。伊藤公自身は政友会の総裁である。政友会の全部が自分であるという関係である。それにも係はらず少しも囚われていない。

真正国家の柱石を以て任ずる人にはこの心得、この度量がなくてわならんと私は考える。1党の首領となればその党派のために尽すのはこれ当然である。1度宰相の印綬を帯びれば、国家の大責任の前にはわが党派も他の党派もないわけである。

「ぢやもう私は用は御座いませんからお暇を致します、只申し上げて置きますが、見殺しにして下すつちや困りますよ」と私は力強く云って老公の眼を見詰めた。

「分った」

対談はそれ切りであった。時間にすれば五分か十分に過ぎなかった。

私は直ぐ、衆議院へ帰って来た。議場へ入って来て見ると、議場はまだ騒然たる有様で、今の奉答文は弾劾的の意味を含んでいたということが全部の議員に徹底したかしないかで、大騒ぎとなっていた。

「一体どういう文句だらう」「いや誰がやらせたんだらう」「どこの党議だらう」喧々諤々として果てしがない。政友会の者は国民党の党議だらうと聞く。すると国民党の人はいや知らぬという。多くの人のこの奉答文に対する意見はさまざまで、あるものは不法行為、違法であるといい、当然再議に付さなければならんと云う人もあった。しかし私は最早、この奉答文は決して再議に付さられる恐れはないと確信していた。

 

もう政友会の幹部がいかに駄々をこねたところで大丈夫である。これを無効にして再議に付するなどということはその人達の力で出来ることではない。そのほうは安心だが、気に懸るのは国民党(其の時は確か憲政本党)の犬養、大石両君の意中であった。

私は犬養、大石両君が議員の食堂の奥でしきりと何か話していたのを見つけ同じテーブルの、犬養君の直ぐ前のところにへ、三人鼎座の形で私は腰を掛けた。今日の出来事に対して誠の真相を即座に知ることの出来る人は、犬養君ばかりなのである。

すると、しばらく経ってから犬養君は例のいきいきした眼を私に向けながら、

「今日はウマクやられてしまった」といった。

果して、一夜置いてその翌日、解散の詔勅が降った。このような経緯の下に、第十九回の帝国議会はわずか半日足らずで解散になり、河野議長も職を解かれた。

これがため、議会は半日で解散してしまった。私をはじめ関係した人々は時の政府の圧迫に反抗して、国論を喚起するためには真にそれより外に手段はないと考えてやったことではあったが、四百に近い議員はあらゆる無理算段と奮闘の結果かち得た地位を一朝にして棒に振ってしまった。

それもたった半日で解散である。悲憤の余り涙を流して泣いた何人の人を私は見た。

やった事は完全に成功したと思ふと同時に個人の私情としては実に相すまない、同僚の議員諸君に対してはいい訳の言葉も方法もない。

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