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日本リーダーパワー史(308)『日本大使公用車襲撃事件を考える』 『戦わずして勝つ』剣道奥義・塚原卜伝の無手勝流の4戦法

   

 日本リーダーパワー史(308)

日本大使公用車襲撃事件を考える
 
   『戦わずして勝つ』剣道奥義・塚原卜伝の無手勝流
   『「大声で強いぞ」「やるか」と何かとケンカ腰の相手には無手勝流で臨む
   仙崖和尚の『隣地・土地争い仲裁法―バカ者,それでも人間か』
   政治家、外交官は「言動にあくまで慎重を期し、口は固く、常在戦場の心がけを持て」(牧野伸顕)
 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
 
 
① 丹羽中国大使の公用車襲撃、日本国旗強奪事件は昭和戦前の日中関係ならば戦争に発展するほどの大事件である。外国の大使館や大使、公使を襲い、国旗を奪うことはその国に宣戦布告するのと同じであり、外交上極めて重大な主権侵害、犯罪であり、先進国ではもちろん、紛争国以外ではありえない外交失態である。
② 日本に対する重大な主権侵害、犯罪事件であるという認識が国、外務省、メディアにあるのかというと、相変わらずの危機感がない「平和ボケから脳死状態」が気になる。
③ このように中国の異常な排外熱、ナショナリズムの高揚は経済的には大国になったにしても、民主度ではいかに後進国か、反中だった100年前の日本と同じである。
④ 犯行グループとそれを英雄行為として支持するネットの愛国無罪の書き込みが多いところを見ると、中国民衆が戦前と余り変わっていない『暴民』そのままであり、『日中対立』は簡単に収まりそうにない。
⑤ 今回の日本国旗強奪事件の発生した瞬間に、すぐ思い出したのは、1958年(昭和33)に長崎市で起きた右翼団体による中華人民共和国国旗の毀損事件「長崎国旗事件」である。
長崎市のデパートでの日中友好協会長崎支部主催の「中国切手展覧会」会場の五星紅旗(中国の国旗)を右翼青年(28)が引きずり下ろした事件。
中国側は当時の岸信介首相(安倍元首相の曾祖父)を厳しく批判し、一方的に「日本貿易を中止」の声明を発表し、対中鉄鋼輸出の契約も破棄し、その後、約2年半に渡って貿易停止に陥った。あきらかに中国側の過剰反応であった。
 
 
⑥ 今回はこうした歴史的な類似事件でのケースを考えながら、政府、外務省、政治家に外交交渉の態度について、日本古来からの武道の達人の戦法、インテリジェンス、参考までに「お笑い、なるほど日本流のケンカ術」の仙崖のジョークを一発かませ
 
 
 
『奥儀は思慮にあり』ー塚原卜伝

塚原卜伝(1489一1572)はいうまでもなく天文・永禄の項(1500年代)の剣の達人。
卜伝流の開祖で、名を高幹といい、上泉伊勢守秀綱に神陰流の奥儀を学び、一家を成し、一時、足利義輝に仕えたが、後に下総(千葉)香取で多くの門弟に剣を教えていた。
 
 
『「大声で強いぞ」「やるか」と何かとケンカ腰の
相手には無手勝流で臨め』ー塚原卜伝
 
の塚原卜伝が諸国を行脚して大津の阪本から船に乗り、琵琶湖を渡る時のこと、船の中に年の頃、三十七、八、容貌魁偉で身の丈の図抜けた武士がのっており、盛んに剣術の自慢話をしている。
 「わしは多年の修行によって、いかなる天下の名人といえども恐るに足らぬだけの腕前となった」と、大言壮語。同船の人々もいかにも強そうなその姿に、恐れ入ったという風情で何もいう者がない。武士はますます得意顔で、船内を見回して、卜伝を見つけると「おん身も武芸修行者のようだが、どうだ少しは出来るかな」
 と、ケンカを売ってきた。ト伝はしらん顔で
「それがしも武芸を始め、修行は怠らぬが、御身ほどは参らぬ、ただ多年の修行によって、わずかに得るところは、勝つことを好まずして、負けぬ工夫をいたすことが肝要と思うばかりでござる」
 と、いうと、かの武士はカラカラと大笑いして
「何、負けぬ工夫じゃと、小癪な!その剣法、流名は何と申すか」
 と、あくまで倣慢無礼な態度で挑発するが、卜伝は軽く受け流し「されば無手勝流と申す」と、答えた。
「ナニ、無手勝流とな。それでは腰の両刀は何のためでござるか」「これは以心伝心の二刀、よく我慢の鋒をさえぎり、悪念の芽を断ったためのもの」
「しからば無手にて人に勝つことが出来ると申すのか」
 「申すまでもござらぬ。我が心性の利剣は、すなわち禅家のいわゆる“活人剣”でござるが、これに対するもの、悪人なれば直ちに殺剣となりて、物の見事に息の根を止めて御覧に入れる」
「イヤ、いったな、その大言壮語、さらばいざ一勝負つかまつろう。船頭!、早く船を向う岸に着けい」
 「イヤ、さほどお急ぎになるならば、あの唐崎の離れ島にて勝負といこう。往来の妨げにもならず、好都合でござろう」
 「おお、いいとも」
 と、船頭に命じて船を離れ島に着けさせると、その前に武士は、ビラリと島に飛び上って大刀を真向に振りかざし
 「さア、来いッ」
 と、勢い込んで身構えている。

卜伝は静かに両刀を船頭に渡し預けたのち、棒を取ってさて、崖に飛び上るのかと思いきや、グイと一突きその棒を突っ張って、船を島からさっと、離れるとともに「船頭、早く船を漕げッ」

  と、沖の方に漕ぎ出てしまった。謀られたりと知った武士は、地団太踏んでんで怒り、息せき切って「卑怯なり、返せ戻せ!」「卑怯者!許さん」と、大声で絶叫すること久し。
卜伝は扇を開いて静かに仰ぎながらにこりともせず
「これが我が無手勝流でござる」
 これぞ殺人剣ではなく禅機を体得するものでなくては決して出来ぬ活人剣である。
 
 
無用の剣・戦わずして勝つ
 
 塚原卜伝が禅機を体得していたことは、所謂無手勝流によっても十分に知られるが、晩年其の秘技を伝えるため、卜伝は三人の息子の心法を試みようとして、小さな木をもってこさせ入口の障子戸の上に置き、もし人が触れればたちまち落ちるように仕掛けて、まず長男を呼び入れた。
 
 長男は入ろうとしたが、木がその上にあるのを見付け、これを取って側に置いてから静かに庭に入り、その木を元のようにした。
 さて次に二男を呼ぶと、二男は入ろうとして、忽ち木が落ちて来るのに気づいたので、両手でこれを受けると、又元のようにして置いた。
 最後に三男を呼ぶと、三男はツカツカと入って来るなり、木が落ちて来るのに驚き、剣を抜いてこれを斬って捨てた。木は真つ二つになって落ちた。一瞬の間だった。卜伝はこれを見て
「お前は木枠を見て驚くようでは何とする。さがれ。お前は必らず家名を落すようなことになろう」と、言ってその技の至らなさを戒めた。そして長男彦四郎が木のあるのを知っても少しも心を動かさず、静かにこれを取り去ってから部屋に入った動作に「お前こそ、その器に真に堪え得るもの」とてその秘技を伝え、二男には
「汝、さらに努めよ」といった。大巧は拙の如く、技巧を学んで技巧を離れることこそ肝心なのである。
 
 
 あるとき、高弟の1人が、道のかたわらにつないである馬の後ろを通ろうとすると、ふいに馬がはねて、かれを蹴ろうとした。高弟は、ヒラリと体をかわしてニッコリ笑った。それをみていた人々は、さすが卜伝の高弟であると賞讃した。ところが卜伝はそれを聞いて、嘆いた。
「さてさて不覚の者よ。そのようなことでは、まだまだ一の太刀を授けるわけにはいかぬ」
 
 人々は、卜伝の真意を理解できなかった。そこで、ひとつ、卜伝先生こそ試してみようとして、ある日、くせの悪い馬を卜伝の通る道につないでおいた。
 ところが、卜伝は、馬の後ろを静かに迂回して通り、この計画は失敗に終わった。後に卜伝にわけをたずねてみると、こう語った。
「馬がはねた時、-飛びのく早業は、なるほど感心のようである。しかし馬は、いつはねるともわからぬものである。その心得を忘れて、うかつに後ろを通ったことは、武芸者としてあるまじきことである。武芸はただ先を忘れず、機を抜かぬをよしとする。それが剣の奥儀である」
 
 
 
②仙崖和尚の『隣地・土地争い仲裁法―バカ者、
それでも人間か』
 
 仙崖和尚は臨済宗の禅僧、筑前の国(福岡県)博多、聖福寺に住持たること三十余年に及び、高徳の名僧として、その名声は九州一円に聞えていた。絵を善くしく、その絵は善の極致の一種の風韻があった。天保八年(1837)入寂。八十七歳で亡くなる瞬間に『死にとうない』「死にとうない」と言ったのは有名。
 ある時、聖福等の近所の者が二人、土地のことから争いを起こして決着がつかず、仙崖和尚に仲裁を頼んできた、
和尚はお寺の書院に二人を待たせておいた。二人は火鉢を中にして一言もいわず、和尚の来るのを待ったが、ひと時(二時間)たっても和尚は見えない。しかし、二人は黙って座っている間に、自分の主張を反省する時間を得たので、土地を争って和尚にまで迷惑をかけるという気持ちを起こした。
 そこへ洗崖和尚は出て来ると、いきなり大声で「馬鹿者ども。おまえ達はそれでも人間か」とどなりつけた。二人はビックリ仰天「ははっ」と手を突いて、頭を上げることができなかった。そこで和尚は今度は言葉和らかに人の道を説いて聞かせ、わずかの土地のことで争いを起こすのは、鳥や獣(けもの)にも劣るものだということを、懇々と話してやった。
 
 二人は全く前非を悔い、どちらからともなく、自分の至らなかったことをわび、和尚にお礼を述べて帰ったが、そのことが近所に伝わると、そのようなことで争って和尚様の耳に入るのは恥ずかしいことだと、その後争論を起こす者がなくなった。
 
 またある夜のこと。二人の強盗が寺に押し入ったが、仙崖和尚は一人坐禅を組んでいた。強盗が日本刀を突きつけて「あるだけの財宝を出せ。いうことを聞かねば、生かすも殺すもこちらの思いのままだぞ」とおどした。
その時仙崖は、全く動ぜず静かに眼を開いて二人を見たが、そばにあったロウソクに火を入れて、それを賊に渡すと「あそこのタンスに、金も衣類も入っている。気に入った物があったら持って行け。
しかし取ったらそれを役に立てよ。お前方が役
に立つことに使ってくれたら、金も衣類も本望だろう」といい終わると、また依然として坐禅を続けた。
 二人の強盗は「和尚様、役に立つとはどんなことでしょうか」と聞くので、和尚は「役に立つとは、自分だけでなく、人様のお役に立つことだ。お前達は腹も空いていることであろうから、食たいものは食べてもよい。

ただし酒は飲むなよ。酒を飲むと気が荒くなって、また悪いことをする。家の坊やに何か買って行ってやれ。まだ余ったら、それを元手に何か仕事をせよ。他人様に迷惑をかけるな。それが役に立つということだ」とかんで含めるように話した。二人は何もとらず、お礼を述べて帰って行ったという。

 
仙崖和尚の沈着な態度、人の道を踏み違えようとする者への思いやり、まことに高僧の名に恥じぬ沈着、従容である。ただ静かに諭すだけでなく、強い所は強く、弱い所は弱く教えるのだ。
 
   政治家、外交官は「言動にあくまで慎重を期し、口は
固く、常在戦場の心がけを持て」(牧野伸顕)
 
 
牧野伸顕は(18611949)政治家・外交家・伯爵。大久保利通の次男として、鹿児島に生まれた。吉田茂の義父。明治4年(1871)岩倉具視の一行に従って渡米して、同国に学んだ。西園寺内閣の第一次文部大臣・第二次農商務大臣となり、ついで宮内大臣・内大臣となった。パリの講和会議に全権となった。昭和24年1月死亡、88歳。
 
 明治三十八年(二九〇五)五月二十八日、ウィーンでベルギー公使の午餐会に招かれた。

「ロンドン・タイムス」のスティード記者の外はみな着席、「スティードももう見えるでしょう」などと話しているところへ、スティードが荒々しく入って来て遅刻を謝罪して、「実はビッグニュースが入って、仕事が手放せなかったのです。それは日本がロシアのバルチック艦隊を日本海で全滅した大ニュースです」といった。

これを聞いた一同は大感激して『素晴らしい』と叫びながら、一斉に牧野の方を見た。ベルギー公使から「今お聞きでしょうが、お手許に公報はありましたか」と尋ねられたので、「ありました。先刻入電しました」と答えると、公使は近寄って来て自分の肩をゆすり、「何という男だ」といった。

なぜこのような大ニュースニュースをわれわれに披露しなかったのだ、非難するような仕草である。他の人も同様の感想で、代わるがわるやって来ては「おめでとう」と言った。牧野は戦争中は、得意の時も、失意の時も一切表面に現わさないことを信条にしており、この日に限って特に沈黙を守ったわけではなかった。実際は胸中に包みきれぬほどの快心を覚えながら午餐に来たのであった。(牧野伸顕 『回顧録』)

 
このエピソードは明治の外交官がいかに口が堅かったかをしめすエピソードだが、日露戦争前に山本権兵衛海相は「開戦するなどという情報はオクビにも出さず、沈着冷静で、平時の表情といささかも変わる所がなかった。強硬論などをのべた参謀、部下を叱り飛ばした、という。
今の、政府、自民党、政治家連中のテレビコメンテイタ―以下の口軽、軽薄政治家がいかに多いか。いまは戦時下であり、常在戦場の心がけがなくてはならない。

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