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片野勧レポート④『太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災』『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』 艦砲射撃・釜石と津波<中>

   

                                  片野勧レポート

 

太平洋戦争<戦災>311>震災

『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』

艦砲射撃・釜石と津波<中>


                      片野 勧(フリージャーナリスト)

 

船での地震観測は初めて

 

「ガツン」

平成23年(2011)3月11日午後2時46分。東京大学名誉教授の瀬川爾朗さん(76)は東京海洋大学の実習船に乗って、東京湾を南北に往復していた。ところが、船を勝どき埠頭に接岸しようとした矢先、何かに勢い良くぶつかる音がした。その時、突然、船長が飛び出してきて叫んだ。

「大地震だ」

一瞬、乗組員全員が呆然と立ちすくんだ。それから5秒ほどして、今度は岸壁にある鉄筋のビルやアンテナが猛烈に揺れた。

瀬川さんの専門は固体地球物理学、海洋測地学。水中での船による地震観測は20代のころ、東京大学でやっていた研究だった。米国などでも同様の試みがなされていたが、うまくいかない。しかし、昔から帆船に乗った海賊たちが、しばしば船内で地震を体験していることを耳にしていた。

「私にとって船で地震を観測することは、3・11が生まれて初めてだったのです。正直、心の片隅で嬉しいと叫びたい思いでした」

瀬川さんの父は僧職にありながら、東京大学で中国哲学を教えていた。ところが、大正12年の関東大震災のために東京を離れ、実家のある盛岡に住み、やがて釜石のお寺の住職になる。子どもは12人。戦時の国策は「産めよ、増やせよ」。瀬川さんは5番目で高校まで釜石にいた。

瀬川さんが釜石を離れたのは、昭和30年(18歳の時)、東大入学のために上京した時だから、大震災の時はすでに57年の歳月が過ぎていた。父母は現在、世になく、実家の寺を継いだ長兄も2年前、84歳で亡くなった。

今回の大震災で同級生数人が亡くなった。瀬川さんは3・11から約1カ月後、バスで釜石に帰ったが、昔遊んだ海岸は一変していた。ただ印象に残ったのは、先代の住職・瀬川晴朗氏が心血を注いで築き上げた標高50メートルの白衣の釜石大観音が毅然としていたことだった。

 

街は焦土と化した

 

瀬川さんは少年時代(9歳の時)、大震災に匹敵する修羅場を経験していた。終戦直前の昭和20年7月14日と8月9日の2回、釜石は米英軍の艦砲射撃を受け、街は焦土と化した。瀬川さんも艦載機の機銃掃射に遭ったが、寺の山に逃げて危うく助かった。

戦災と震災――。2つを並べると、理由は異なるけれども結果は同じように見える。前者は人間の心の予測できない現象であり、後者は天然の予測できない現象だ。言い換えれば、人間の心と自然の天は結局、同じではないかと瀬川さんは思う。

 

瀬川さんの海底研究は地殻変動や地震予知にも通じる。なぜ、地震予知ができないのか。

「生き物の生と死が予知できないことと同じだと思えばよいのではないのか」

最近、日本地震学会会長は「東日本大震災の予報は大きく間違えた」と陳謝した。地震時の気象庁の発表はマグニチュード8・8としたが、その後、大分時間が経過してからマグニチュード9・0といい出した。この時、すでに物事は終わっていたのである。また、それに伴う予測の数十倍の規模の揺れと地殻変動に対しても何らの示唆を与えなかった。地震予知の敗北といっていいだろう。

 

地震はいつ来るかわからない。「その時」に備えて、瀬川さんは釜石市民にこう呼びかけている。

「いままで住んでいたところより15メートル以上高いところへ住居を建てて住もう。海事作業の場と住居を完全に分離しよう」

瀬川さんは在京岩手県人連合会会長を務めているが、昨年6月5日の「第37回岩手県人の集い」で義援金として500万円を達増拓也県知事に渡した。

 

語り継ぐ戦争の記憶

 

米人ジャーナリストのチャールズ・ミーは釜石艦砲射撃についてこう綴っている。

「昨日は釜石の日本製鉄を艦砲射撃し、破壊した。艦載機は本州、北海道上空を飛びまわり、日本機25機を破壊、62機に損害を与えた。1機以外は全部、地上にいるところを攻撃した」(『ポツダム会談』徳間書店)

「ドシン、ドシン」。歌人・斎藤茂吉は郷里の山形に疎開していたが、釜石の艦砲射撃の音を聞いている。茂吉はその時の様子をこう歌っている。

 

海上にありて打ちたる砲の音蔵王をこえてひびきてきたる

つづけざまに窓にひびきて陸中の釜石を射つ艦砲射撃(加藤淑子『斎藤茂吉の一五年戦争』みすず書房)

 

この67年前の艦砲射撃によって受けた心の傷は今も心の片隅に残っている人は少なくない。元釜石市職員の山崎太美男さん(74)もその一人。彼は当時、国民学校1年生で8歳。艦砲射撃から逃げまどった記憶が残っている。

父は29歳の時、沖縄で戦死した。長男の山崎さんは葬式の喪主を務めた。

「その晩、流れ星を見ながら泣きました。戦争って、憎いな、と子どもながらに思いました」

山崎さんは今回の津波でかろうじて助かった。妻と叔母の二人を車に乗せて歯科医院へ。治療中、「ドカーン」。今まで経験したことのない揺れに、「大きな津波が来るぞ」と直感。すぐ、歯科医院を飛び出したが、まもなく車の渋滞に巻き込まれ、身動きできない。

 

津波が来たら、どうしよう?

と思った瞬間、前の車がちょっと動いたので、車列から抜け出して助かった。しかし、両石の自宅は全壊した。戦争を経験した人たちも多く犠牲になった。

2度目の艦砲射撃のあった8月9日。釜石市は毎年、「戦没者追悼式」を行っているが、戦没者遺族連合会の鈴木賢一会長も津波に呑まれた。2011年の追悼式では会長代行の山崎さんが遺族を代表して「追悼の言葉」を述べた。参列者は150人ほど。例年の半分だった。

 

「戦争を知らない若い世代に、戦争の記憶を風化させることがないよう、戦争の悲惨さと平和の尊さを語り伝えていきたい」

さらに続ける。

「前代未聞の大津波が一瞬にして町を破壊し、1千数百名の尊い命が奪われました。この中には戦没者遺族も何人か含まれています」

山崎さんは「戦災と震災」を後世に伝えていきたいと願う。

 

防災教育で児童・生徒無事

 

地震がきたら必ず津波がくる。そのためには高い方へ逃げる。これは釜石で暮らす人たちの常識だ。大人も子供も、そのことはよく知っている。

私は大津波に村ごと呑み込まれた鵜住居地区を見て回った。ここでもまた言葉を失った。小・中学校が津波で完全に破壊され、周辺は瓦礫の山となっていた。爪痕を見て、津波の恐ろしさを改めて思い知らされた。

しかし、地震時、小・中学校にいた児童・生徒たちはどうしていたのか。「高い方へ逃げるのは常識」という教訓は児童・生徒たちにも活かされていた。

鵜住居小学校(361人)と釜石東中学校(222人)の児童・生徒のほぼ全員が無事に逃げ延びたのである。いわゆる「釜石の奇跡」といわれる避難はどのようにして行われたのか。

大槌湾から約800メートルの鵜住居小学校では地震直後、校舎3階に避難。しかし、隣接する釜石東中学校の生徒たちは校庭に駆け出した。「津波だ! 逃げるぞ!」。これを見た小学校の児童たちは日ごろの同中学校との合同訓練を思い出し、中学生の後を追って約800メートル後方にあるグループホームに避難した。

しかし、建物の脇の崖が崩れていることに気づく。危険を感じて児童・生徒はさらに約500メートル先の高台にある介護福祉施設へ。その約30秒後、グループホームは津波に呑まれた。こうして児童・生徒たちは全員、生き延びたのである。

 

海と共存、「逃げる」を文化に

 

釜石市教委は平成17年(2005)から群馬大学大学院災害社会工学研究室の片田敏孝教授らとともに防災教育に取り組んできた。登下校時の避難計画も立てた。津波の脅威を学ぶための授業も増やし、年間5~10数時間をあてた。そして「避難3原則」をたたき込んだ。

原則その1「想定にとらわれるな!」

原則その2「最善を尽くせ!」

原則その3「率先避難者たれ!」

今回の大津波で児童・生徒が無事だったのは、校舎3階から校庭に駆け出して高台に向かったこと。中学生が率先して避難者となり、小学生を導いたこと。「釜石の奇跡」を生んだのは、防災教育が徹底されていたからだろう。

片田教授は述べている。

「地域や自然に誇りを持ちながらも、いざという時には率先して逃げる。このことを海と共存して生きる者の作法として文化にまで高めてほしい」(『復興釜石新聞』2012・7・27付)

 

異様な臭い

 

戦災と震災で問題になるのが衛生面である。釜石市内を車で走っていると、がれきが撤去されずに放置されている光景を目にする。同時に、生ごみの腐ったような臭いが風に乗って流れてくる。思わず息を止めるほどの強い臭気だ。

釜石漁港に向かった。近くを自転車で散策している男性がいた。この近くには親せきが住んでおり、亡くなった人も多いという。

「この辺りは気温が高くなると、(はえ)がすごい。臭いもすごい。海から上がったヘドロもすごい」

“すごい、すごい”と連発するほど、臭いには困っているのだ。

『日本の空襲―1 北海道・東北編』(三省堂)によると、戦時中もひどかったらしい。足掛け20年の新聞記者生活をやめて釜石市役所に入った男がいる。3・10東京大空襲に遭い、住居を失って釜石に帰ってきた男だ。彼の名は沢口金一郎という。

釜石に来て2カ月そこそこに、あの轟然たる砲声に見舞われた。彼の担当は釜石市役所の厚生課で、犠牲者の死骸を処理する役目だった。しかし、暑い盛りのこと。死体からはウジがウヨウヨわく始末。彼は、かつて職務柄、種々雑多な変死人に接したり、また従軍記者時代、戦死者の屍を乗り越えて将兵と行動を共にし、火葬も手伝った経験があったので、死体処理は務まったのだろう。しかし、ウジにはほどほど手をやいたという。

作家の野間宏に、中国やフィリピンを転戦したときの歌がある。「夜は蚊ぜめの地獄昼は蠅ぜめの地獄地獄地獄地獄」(詩集『星座の痛み』河出書房)と。津波で冷蔵施設から流れ出た魚などを発生源に大量の蚊や蠅が東北の被災者を悩ませている。

 

これは瓦礫処理が遅々として進んでいないためだ。それは菅(直人)内閣の緊急事態における指導力の低さと復興政策の場当たり性にある。緊急の時は情報を一点に集約すべきなのに、菅総理は○○会議なるものを20ほど作った。初動対応の失敗だ。

 

村山(富市)内閣の「阪神・淡路大震災」の時でさえ震災から1カ月後には「阪神・淡路復興委員会」を発足させ、官房長官経験者や国土庁元次官ら強力メンバーを入れた。しかし、菅内閣の「復興構想会議」のメンバーは政治学者や哲学者、作家などで実務経験者はほとんどいない。また震災担当大臣を決めたと思ったら、すぐに辞任に追い込まれた。実際に動き出したのは4カ月後である。甚だしい対応のスピード不足。

東日本大震災から1年以上経っているのに、いまだ瓦礫は仮置き場に運ばれているに過ぎない。これ以上、蚊や蠅で苦しめてはいけない。

 

                       (つづく)

 - IT・マスコミ論

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