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日本リーダーパワー史(735) 明治維新150年『明治極秘史』① 『日露戦争の勝因は!―空前絶後の名将・川上操六参謀総長 のインテリェンスー田中義一(後の首相)をロシアに 派遣,徹底調査を命じ、田中は名前を変えてダンスを習い、隊付となって上流貴族と親友となって秘密情報を入手、ロシア革命のレーニンにも接触した。①

   

日本リーダーパワー史(735)

明治維新から150年、『明治極秘史』①

―日露戦争の勝因は!―空前絶後の名将・川上操六参謀総長

のインテリェンスー田中義一(後の首相)をロシアに

派遣,徹底調査を命じた、田中は名前を変えて

ダンスを習い、隊付となって上流貴族と

親友となって秘密情報を入手して

ロシア革命の主人公・レーニンにも接触①

 

川上操六参謀総長の指示で、田中義一はロシアに渡る前、明治29年10月27日付きで参謀本部第二部員に転じた。

参謀本部に転ずると共にドイツ語の学習を始めた。当時の優秀将校の出世コースであるドイツ留学を希望しため。ところが翌30年、川上参謀総長直々にロシア行の内命を受けた。これは田中義一大尉自身の生涯を運命づけただけでなく、日本の運命にも歴史的な影響を与えた人事であった。

田中はロシアの国策である極東侵略の遠大な野望を徹底的に研究して、極東平和のためにロシアのあくなき侵略を抑えようと取り組んだ。日露戦争、在郷軍人会の創立、二箇師団増設問題、青年団の創立、シべリア出兵、対満洲、対中国政策などすべてルーツはこのロシア派遣にその端を発している。

日清戦後の参謀本部は、満州、朝鮮でのロシアの暴状、国是ともいうべき侵略に対応するため、先ずロシアの実情を調査し軍事能力をチェックすることが喫緊不可欠となってきた。

ではこの重大な任務を与えてロシアに派遣すべき将校は一体誰にするか、川上にとっても大きな悩みであった。

ところがある日、参謀本部第二局長田村恰与造大佐が部員の田中大尉をよんで、『どうだ、ドイツを止めて、一つロシアに行かんか。』とやぶから棒の勧誘があった。

田中大尉は即座に『私じゃ荷が勝ち過ぎます。』 といって辞退したので、田村大佐は『なぜか』と反問すると大尉は『ロシアとは早晩戦争せにゃなりません、従って派遣される奴は十分その任に耐える者を御選びになるべきで、私よりまだ右翼がたくさんおりますよ』と答えた。

田村大佐もそれ以上は勧めなかった。というのは、当時、栄達を望む青年将校の目標はドイツ留学であり、ドイツ留学は、参謀将校から将官になる第一ステップでもあった。

田中大尉もドイツ留学の順番の来るのを待っていたのである。ロシア行は重大な任務であるにせよ、出世街道の最短コースではないから、田村大佐もそれ以上、勧められなかった。しかし、この任務は陸軍大学校の序列が右翼であるというだけで、誰にでも出来るという仕事ではない。田中をおいて他に適当な候補者なしとする田村大佐は一切を参謀総長川上操六に申し出た。

川上総長もかねてその人選には苦慮していたので、「これは最適な人選だ」と膝を打って賛成した。

が、辞退されると困るので強引に引受けさせようと考えて日清戦争中、田中を最も信頼していた当時西部都督の山地元治将軍に片棒をかつがせた。ある日、田中大尉は川上総長の私宅に招かれた。訪問すると、座に山地将軍もいた。総長は『大庭二郎、山梨半造がすでにドイツに行っているから、君も行きたいだろうが、ロシア行は君より他に適任者がない、決心してロシアに行ってくれ、参謀本部はすでにそう決めた。』

とロシア派遣の内意を半ば命令的に伝え、同席の山地将軍も口を極めて勧めたので、かねて多少は覚悟していた田中もこの先輩の言に深く感激して、即座にロシア行を決心したのであった。

後年、田中義一は当時の事情を次のように語っている。

「私の友人等は、皆ドイツに留学を命ぜられ、私もまたその一人であったが、ある日、参謀総長の川上大将に招かれ、『ドイツに差達する者は何人でもいるが、ロシアに行く者がいない。しかも、おそかれ早かれロシアとは戦争せねばならぬ間柄であることは君も既に承知の通りだ。従って対ロ作戦計画は一日も早く確立して置かねはならぬ。

そのためにロシアの実情を知ることは、実に焦眉の急務である。だが、これは誰にでも彼にでも出来る仕事ではない、そこで君を選抜した訳だ。ドイツに行きたい気持はわかるが、この際、一つ奮発してロシアに行って、その国情、軍隊の実際を、詳細に調査研究して、作戦計画の立案をしてもらいたいのだ。』

と一大尉に過ぎぬ田中に腹の底から打ち明けてロシア行を勧めた。同席の山地将軍もドイツ留学などと比較にならぬ重大任務を引受けるのは、軍人の光栄ではないかといって激励した。

田中は『果たして自分に出来るかどうか、責任は重大だし、ドイツに留学すれば、軍人としては一応順調に進んで行けるのに・・』と一時、逡巡したが、両将軍のていねいな勧めに感激してロシア行を承諾した。

ただし『仕事が仕事だから、一般の留学生同様の拘束を受けるのでは困るので、経費その他特殊の取扱いをしていただきたい』と要望して承諾を得た。

ロシア行の内命を受けた田中大尉は、それからロシア語の習得に全力を挙げて出発の準備を整え命令の発表を待った。

ところが、イギリス、ドイツ、フランス、ロシアらの相つぐ清国侵略、ロシアの露骨なまでの満州、朝鮮侵略は戦争がいつ突発しても予断を許さぬ状況となったので、ロシア行は延び延びになっていたが、翌31年5月18日付「御用有之露国二被差達」との辞令を受けた。

田中大尉の出発にむけて川上総長が贈った写真には、墨あとあざかに「謹而呈 田中兄 川上操六拝」とサインがしてあった。

のちに評論家・横山健堂(明治の代表的な人物評論家)は「参謀総長と大尉とでは、非常に身分が違っていて、階級差別の極めて厳格だった当時の陸軍で、-こんなていちょうな字句はちょっと想像出来ぬ。」と感嘆しているが、川上総長の人格と期待の程が現われている。以上は「田中義一伝」(上)原書房 1958年刊」

 

明治31年8月にペテルスブルグに赴任、ダンスを習いギリシャ正教に入信して情報収集

欧洲各地を歴訪して、田中大尉がロシアの都に到着したのは、明治31年8月6日である。

時の我が公使は、林董(次で小村寿太郎、珍田捨巳)で、公使館付武官は、伊東主一少佐で、伊東少佐病死の後は村田淳大佐であった。なお藤室松次郎少佐(後の陸軍少将)、広瀬武夫大尉(後の海軍中佐広瀬武夫)らの先輩から指導を受けると共に、藤室少佐の紹介で先ずロシア語の研究を始めた。

 

大尉の任務とする研究は、ロシア陸軍の実情、その作戦、動員、編制、教育、兵器材料等、直接軍隊に関する事が主ではあり、、当時世界第一の強大を誇るロシアの国情、その社会組織を通じて軍隊と国民との関係、ロシアの裏表一切を調査研究するにあった。直接的に陸軍を研究するためには、ロシア陸軍の部隊付になろうと希望したが、日本武官の隊付勤務は前例がないという理由で、容易に実現しなかった。 もし強いて事を急げばあらぬ疑惑を招いて、鉄のカーテンをいよいよ堅くさせるばかりなので、しばらく機会を待つことにし、それまではロシアとロシア人を徹底的に研究しようと決心した。

社交場に出入して、ロシア名『ギイチ・ノブスケウィッチ、タナカ』を名乗る

 

そこで社交場に出入して上流階級と親しく交際をするにも、下層階級に飛び込んで行くにも、生活様式をロシア人同様にして、彼等の風俗習慣に同化することが先決問題であると考えた田中は、先ず自分の姓名をロシア式に変更し、名と姓との間に父称を入れて『ギイチ・ノブスケウィッチ、タナカ』と名乗り、名刺もこの通りに作った。このロシア人になりきろうとする態度は、人情の機微に触れて、生れつきの人の善さと相まって、いたる所でたちまち旧知のような深い交際と人脈を築くことができた。

藤室少将は次の如く語っている。

「当時私は少佐で、田中さんは大尉であったが、ロシアに来られたのは、私よりも半年ばかり後であった。先ず最初の二年間は、語学の研究で田中大尉も他の者と同じように、婦人の教師について勉強した。婦人を教師に選ぶのは、発音が正しいからである。その女教師と初対面の時『信仰は何宗教か』と、尋ねられたので私は『仏教だ』と答えたが、

田中大尉は『無宗教』と云ったので、教師は非常にビックリしたようであった。 それほど宗教の盛んな国であったからロシア人と親しくするためには無宗教と答えた田中大尉も、間もなく教会に行くようになったばかりでなく、ロシア人との社交上必要なので、ダンスの稽古もやったが、流石の田中大尉も、ダンスは物にならなかったようだ。

田中大尉は人情の機微を心得ていて、思い切ったことをされたもので、これもその一つだが、ロシア人に限らずヨーロッパ人は一般に、日本の柿を非常に珍重するので、大尉は日本から柿をとり寄せて、彼等を喜ばせたこともあるし、又焼とうふを取寄せたこともある。 焼とうふをブリキカンに入れて、氷をつめた大変な荷造りであった。公使館で一同舌鼓を打って賞味した。この柿にせよ、焼豆腐にせよ、要するにロシア要路の人物に接近して親密になる手段ではあった。

ロシア研究が進んで真剣味を加えて来ると、その活躍も相当なものである時のごときは重要書類と図画とを入手され、これを公使館の奥で厳重に包装して、ドイツとの国境まで持って行って参謀本部に密送したこともある。それはロシア軍の戦時集中計画を書いた貴重な資料であったから、日露戦争に役立ったことは、いうまでもない」。

 

ダンスとギリシャ正教の入信について田中自身は後年、回想する。

 

「ロシアの貴族と交際するためにはダンスを知らねばならぬので、当時海軍から留学していた広瀬(武夫)と一緒に、ロシアの帝室付ダンサーであった女優を師匠として稽古をした。初めの間は大きな鏡の前で両手を腰に当てて腰の振り方を稽古するのであるが、広瀬の腰付がうまくゆかないので、竹の鞭で叩いて矯正されるけれども、柔道で鍛えた広瀬の腰は女優の鞭くらいロシアでは容易に直るはずはなく、さすがの広瀬も大いに困り、気の毒に堪えなかったこともあった。」

 

田中自身は自分のダンスの腰つきにはこの中ではふれていない。ただ国のために、その後、軍神となった広瀬中佐と総理大臣になった田中とが、女優上りのダンサーに鞭で叩かれながらダンスを習っている光景はマンガチックな『鹿鳴館のダンスパーティー』とならぶ『若き海外留学のトップリーダーのタマゴ』たちの必死の異文化体験、コミュニケーションの努力が示されている。この西欧異文化受け入れ、同化の情熱が『明治躍進の奇跡』(トインビーの言葉)の原動力となったのである。その意味では微苦笑を誘う一種の歴史シンボル的な情景が目に浮かぶ。

 

田中のロシア人に成り切る努力はギリシヤ正教への入信であった。帝政時代のロシアは十六世紀頃からギリシヤ正教を国教とし、しばしば起った君主独裁の政治的危機も、民族精神を統一する国教によって救われた。

16世紀以降の1三世紀にわたる絶間ない外国との戦争はそのほとんどが異教徒を征服する宗教戦争で、民族的結束はより強固となった。

そのユダヤ人に対する圧制、あるいはポーラソドの亡国と、その再建を巡る執拗な独立騒ぎも、異教徒であるというのが主たる理由である。

上流と下流とを問わず、兵隊も娼婦も国教の熱烈なる信者で、一週二回の説教と祈祷とを怠る者がなかった

田中大尉も、語学教師が「無宗教」に驚いたのに自覚し、先ずロシア人と信仰とを研究して、正教に入信せねば人間扱いを受け得られないことを知ったので、直ちに入信の手続をとり、敬慶なる信者として下宿の老人と共に祈祷に参列した。この入信がロシア人の信用を一挙に獲得した。

 

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