片野勧の衝撃レポート⑧『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』―サハリン引き揚げと福島原発<上>―
片野勧の衝撃レポート
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑧
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』
―サハリン引き揚げと福島原発<上>―
片野 勧(フリージャーナリスト)
「ふるさとを2回、追われた」
「私はふるさとを2回、追われました」
2012年8月20日。JR常磐線・泉駅近くのいわき市の泉玉露仮設住宅に住む佐藤紫町(現ポロナイスク)という地で旅館を営む両親の下に生まれた。華子さん(84)はそう語った。1度目は1945年8月、ソ連軍の侵攻を受けたとき。17歳だった。彼女は樺太(現ロシア・サハリン)の敷香
サハリンは北海道の北に宗谷海峡をはさんで北緯約45度から55度に横たわる島。日露戦争の勝利の結果、1905年以降は北緯50度以南が日本領、以北がロシア領とされた。
領有以後、殖産興業の国策に沿って漁業、林業、石炭採掘、パルプ工業などを中心に経済開発が進められ、世界不況のあおりを食った貧農の次男坊、三男坊たちが新天地で一旗揚げようとの夢を抱いて宗谷海峡を渡って行った。なかでも多かったのが、北海道や東北の貧農の人たちだった。
とくに1930年以降、炭鉱の開発が急速に進められ、炭鉱労働者を中心にした人口は増加の一途をたどった。1945年の終戦時、サハリンには約45万人いたといわれる。当時、サハリンは漁業や炭鉱など資源に恵まれていたことから軍事上、重要な地域とみなされ、各地に陸軍部隊が駐屯していた。
「ポツダム宣言」受諾を拒否
1945年7月17日。アメリカのトルーマン、イギリスのチャーチル、中国の蒋介石の3国首脳がベルリンの西南にあるポツダムで会談。米軍は日本本土上陸で100万の戦死者を出す怖れのあることを予測。26日、連名で「ポツダム宣言」を発表し、日本に降伏を迫った。しかし、鈴木貫太郎首相は米国の謀略と考え、拒否。30日に佐藤尚武大使はソ連に条件付き和平斡旋を依頼したが、回答がなかった。
8月6日、広島に原爆投下の事実を知るや、ソ連は9日、日本に宣戦布告し、極東ソ連軍の大兵力がソ満(当時の満州国、中国東北部)国境線を破って攻め入り、関東軍を急追した。
ソ連軍の侵攻によって推定5千人から6千人の人たちが亡くなった。それも兵士たちよりも民間人の死者が多かった。
すでに、5月の段階で米英ソの3国間で日ソ中立条約破棄の秘密協定が締結され、ソ連の日本に対する宣戦布告は時間の問題とされていた。しかし、その事実を樺太の八十八師団は一切、知らされていなかった。
ソ連の出方を見誤った日本
ソ連通の外相として知られた広田弘毅元首相(戦犯として巣鴨刑場で刑死)は処刑の寸前、花山教誨師にこう語っていた。
「日本がこの戦争でソ連の出方を見誤らなかったら、今日の日本の不幸はなかっただろう」(吉武輝子『置き去り―サハリン残留日本女性たちの六十年』海竜社)
歴史に「もし」は禁句だが、ソ連の出方を見誤ったから、広島、長崎の原爆投下も、サハリンの悲劇も生まれたといっていい。そして国際情勢に疎かった日本政府は関東軍総司令部に次のような指示を下した。
「関東軍総司令部は主作戦を対ソ作戦に指向し、来攻する敵を撃破して朝鮮を防衛すべし」(同)
日本政府は満州死守の国策をあっさりと放棄し、「朝鮮防衛」を前面に打ち出したのである。政府がガバナンス能力を失ったとき、いったい何が起こるのか。それは、このソ連の宣戦布告という手痛い失敗の歴史を見れば、明らかだろう。
2012年9月。日本の尖閣諸島国有化をきっかけに、中国の各都市で反日の大規模デモが展開された。また尖閣諸島の周辺に中国の海洋監視船や中国航空機が接近したり、日中間交流行事が中止されたりしている。
野田政権のある幹部は、「よもや、中国がこれほどエスカレートするとは思ってもいなかった」と能天気な“外交音痴”的発言をしていた。しかも、81年前の満州事変の発端となった柳条湖事件(9月18日)直前の9月11日に国有化を決めれば、中国指導部の神経を逆なですることは火を見るより明らかだったのに。これはまさに、ソ連が日本に宣戦布告してきた当時の国際情勢を見誤った日本とそっくりではないか。
また中国を過小評価し、対立を煽っている一部勢力の主張も同根だろう。外交は主張の応酬だけではない。解決の糸口を見いだす対話が不可欠だ。激しい言葉の応酬は、双方の一部の国民から喝采を浴びるかもしれないが、真の平和解決にはつながらない。
外交交渉が破綻した時に戦争が起こる――。これが歴史の教訓である。日本は戦前と同じ過ちを繰り返してはならない。
さらに2012年8月、韓国の李明博大統領が竹島へ強行上陸するという「屈辱」を見せつけられると、過去の戦争が終わっていないことをまざまざと思い知らされた。またロシアとの間でも領土をめぐって関係が悪化する傾向も見られる。これは、日本が負の遺産を精算できずに、いまだに戦争責任が問われている表れなのだろう。
8・15以降もソ連軍の侵攻は続く
再び、佐藤さんの証言。敗戦が告げられた8月15日以降もソ連軍の侵攻は続いていた。
「もう生きた心地がしませんでした」
と佐藤さんは当時を振り返りながら、話を続けた。
「私は女学校を卒業したばかりで、ラジオで天皇の“玉音放送”を聞きました。しかし、敗戦になってもソ連軍は侵攻してきて、陸軍部隊との間で激しい戦いが行われ、敷香町も戦禍に巻き込まれました。我が家のガラス戸は激しく揺れました。真っ赤な光が見えたり、大きな音がしたりしました」
8月17日。敷香町にも緊急疎開命令が出され、住民は日本軍のトラックによって輸送された。その後、ソ連軍機20機による空襲も続き、2500戸の市街は全焼した。
上敷香は横綱大鵬の生まれ故郷である。当時、5歳だった大鵬は空襲によって猛火に包まれた故郷の無惨な姿を記憶しているという。この樺太の戦いで敷香住民の死者は厚生省資料によると、約70人だった。
引き揚げ3船の遭難事件
戦禍を逃れるために佐藤さん一家は、命からがら引き揚げ船で北海道の稚内港に帰還した。しかし、当初、乗るはずだった船が撃沈されたと知らされたのは、稚内港に着いてからのことだった。国籍不明の外国船に撃沈され、多くの友人が命を落とした。これを引き揚げ3船の遭難事件という。
8月22日。北海道・留萌沖の海上で樺太から引き揚げる女性らを乗せた日本の引き揚げ船3隻(小笠原丸、第二新興丸、泰東丸)が潜水艦による攻撃を受け、小笠原丸と泰東丸が沈没して1700人以上が犠牲になった事件だ。
サハリンの大泊港は引き揚げ者であふれていた。佐藤さんの母は船長に頼み込んだ。
「雨が降るので風邪をひいてしまいます。うちには体の弱い人がいるので、早い順の船に乗せてください」
佐藤さん一家は予定より早い船で稚内港に向かった。狭い船内。人が入りきれなくなるからと荷物は捨てた。人間の生と死は紙一重。もし、母の一言がなければ、轟沈された船に乗り込んでいたかもしれない。あるいは爆撃で命を落としていたかもしれない。
「だれかに助けられて日本へ帰ってこれたのですが、私以上に苦しんで、亡くなっていかれた人のことを思うと、気が引けてお話できませんの……」
もし、佐藤さんは後続の船に乗っていたら、今の自分はいない。そう考えると、この引き揚げ3船の遭難事件は自分の人生にとって重大な事件だったと佐藤さんは言う。しかし、引き揚げの傷あとは癒えるものではない。さらに記憶をたどって、当時のことを話してくれた。
「敷香町は多感な時を過ごした場所です。内地に引き揚げて10年ぐらいは恋しくて帰りたくてしようがなかったです」
引き揚げ船で北海道の稚内港に帰還した佐藤さんは、戦後、1年ほど北海道で暮らした。母の実家が福島にある縁で、その後、福島に来て警察官の夫・武雄さん(89)と結婚した。昭和25年(1950)、23歳の時だった。
警察官の異動人事で転々としたが、最後は富岡町に居を構えた。昭和35年(1960)だっ
た。佐藤さんは家事をこなしながら、日本舞踊や生け花を富岡町の自宅で教えた。双葉郡に福島第1原発ができたころ、米国のGE(ゼネラル・エレクトリック)社から多くの技師が家族と来ていた。顔ぶれも多国籍だった。
た。佐藤さんは家事をこなしながら、日本舞踊や生け花を富岡町の自宅で教えた。双葉郡に福島第1原発ができたころ、米国のGE(ゼネラル・エレクトリック)社から多くの技師が家族と来ていた。顔ぶれも多国籍だった。
佐藤さんは技師の妻たちに生け花を教えに出向き、喜ばれた。
「着物でおけいこに行くと、『オー、ビュティホー』なんて喜ばれてね。英語はジェスチァー。それでもちゃんと通じたのよ」
このように富岡町での佐藤さんの日々は充実していた。
冒頭、佐藤さんは2度、ふるさとを追われたと書いた。1度目は1945年8月、ソ連軍の侵攻を受けたとき。そして2度目は3・11「東日本大震災」。地震と津波による東京電力福島第1原発事故で、佐藤さんは各地を転々とした。
富岡町の施設から始まり、その後は川内村、三春町、郡山市へ。そして長男夫婦のいる新潟県柏崎市から現在のいわき市へ。体育館に避難する人と、引き揚げ時に疲れて港に座り込む人の姿とが重なって見えた。
つづく
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