前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(650) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(43)『三国干渉』に日清戦争の立役者・川上大本営上席参謀はどう対応したか①『余の眼晴(がんせい)が黒いうちは、臥薪嘗胆10年じゃ』と

   

 

日本リーダーパワー史(650)

日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(43)  

国難『三国干渉』に日清戦争の立役者・川上操六

大本営上席参謀はどう対応したのか①

『余の眼晴が黒いうちは、臥薪嘗胆10年じゃ』と決然と言い放った

前坂俊之(ジャーナリスト)

三国干渉での川上操六の対応―

日清戦争の立役者・第一の殊動者は何といっても大本営上席参謀として用兵の枢機に参与した川上中将である。

野戦の指揮官、前線の軍司令官は、山県有朋(第一軍司令官)、大山嚴(満州軍総司令官)、野津道貫(第五師団長)、山地元治(第一師団長)、桂太郎(第二軍司令官)と先輩、同輩の一騎当千の第一線で指揮していた。

こうした猛将、勇将、闘将らの全体を束ねて、機略縦横、帷幄のうちで作戦を練りあげ、果敢に指揮し、勝ちを千里の外に獲得した謀略知将の統帥の采配ではモルトケ流の川上の右にでる者はなかった。まさに、空前絶後の名将と呼ばれたゆえんである。

日清戦争を総括してみると、初めの政府の方針は、朝鮮における日清両国の均勢をはかり平和的を解決を計るであった。しかし、川上は征韓論以来、30年にわたるわが国の混乱の元凶であった朝鮮問題を一挙に解決するためには、ここで、清国の傲慢を一挙にたたき、そのメンツをたたきつぶすしかないと決戦に打って出た。モルトケ戦略をそのまま適用、実行して、両雄の陸奥宗光外相とタッグを組んで、強引に開戦に持ち込んだ。

川上は普仏戦争をまねて、北京攻略をも視野に入れていた。

また、川上上席参謀は、陸海軍も一体的に指揮(ワンボイス).川上は当初より海上権の掌握が勝敗のカギを握るとみており、豊島海戦が終わるや否や、大本営は聯合艦隊に対し、敵艦を撃破すべしとの命令を下した。

ワンボイスの川上の一声である。9歳先輩の郷友の樺山 資紀(かばやま すけのり)中将は軍令部長は重責を帯びていたが、ー身を挺して「西京丸」に搭乗して、慎重な連合艦隊司令長官・伊東祐亨中将にハッパをかけた。この結果、黄海海戦はわが海軍の勝利に帰した。同じ薩摩閥の川上と先輩樺山の意気はピッタリとあっていた。

もう1つ指摘できるのは先輩,大将連に囲まれて川上中将の統率することの難しさである。大本営の川上中将と出征した大将連とのコミュニケーションギャップ、その調整、その緩和に手間取ったことは事実だが、これを見事に統制して20万の精兵を意の如く、遺算なく動かしてほぼ完勝の結果を残したのは大本営主席参謀として川上のインテリジェンス、マネージメントの勝利といえる。

当時、川上の大陸の指揮下には、陸軍の宿老としては山県第一軍司令官、大山第二軍司令官あり、その先輩たちと同輩としては野津第五師団長、山地第一師団長、桂第三師団長と大物がズラリを並んでいた。

参謀次長として大本営の作戦計画に参与している間は、「前線の判断優先」の行動をある程度認めざるを得ないが、この先輩・同輩たちに明治天皇裁可の統帥、指揮命令を下すのが川上上席参謀の任務であり、責任である。

この間の軋轢、製肘、板挟みの苦労が絶えなかったが、川上は万難を廃し、筋を通し統帥権を立てに山県を解任するなど、縦横無尽に統帥して戦果を挙げて最後の勝利を勝ち取ったのは、ひとえに川上のリーダーパワーの賜物だった。

『三国干渉』下る。

川上は、軍部の代表として、遼東半島割譲の最強硬論者だった。軍兵士の多教の犠牲をはらい、鮮血を注いで占領した土地を割譲するなどもってのほかで、政治上、国防上からも当然の要求であると考えていた。

日清戦争はアジア問題を解決するための序幕であって、次に来るべきのは、対ロ戦争であるとの認識を持っていた。その点で、遼東半島の割譲はわが国の大陸政策の欠くべからざる必須条件であるとの認識では山県も変わりなかった。

ただ軍部内に異論はあり、谷干城などは遼東半島、台湾割譲にも反対を態度をとっていた。

川上の予想に反し、講和会議成立直後に三岡干渉問題が起り、その恫喝、脅しで、遼東半島を放棄せざるを得なくなった。まさに青天の霹靂、痛恨事である。川上の心中察するにあまりある事態であった。

明治28年5月18日、小松宮彰仁親王征清大総督が旅順を出発して、凱旋の途につき川上は他の幕僚とともに随行し、21日、神戸に帰国、30日、東京に帰着した。

川上が30日、凱旋して新橋駅に到着するや、川上家の使者として曽木幸輔が出迎へて凱旋の祝辞を述べた。川上はただ『嗚呼(ああ)』と嘆声を一言もらしたのみであった。

翌日、曾木は川上にあって理由を質したところ、川上は自ら眼をさしていった。

「予の眼晴(がんせい)は黒いか」

曽木がうなずくと『余の眼晴が黒いうちは、臥薪嘗胆10年じゃ』と決然と言い放った、という。

川上が興した戦争と言われた日清戦争の大勝もつかの間、ハゲタカのような強国同士の「遼東半島」の強奪に、ビスマルク、モルトケの『大国はいざ自国の国益を守るためには。平気で国際法を踏みにじる行動に出る』との忠告をかみしめていた。

  • 川上は憤然として、遺恨10年を胸に『臥薪嘗胆(がしんしょうたん)』(将来の成功を期して苦労に耐えること。薪の上に寝て苦いきもをなめる意から。▽「臥」はふし寝る意。「薪」はたきぎ。「嘗」はなめること。「胆」は苦いきも。もとは敗戦の恥をすすぎ仇あだを討とうと、労苦を自身に課して苦労を重ねること)するが、その無念さがにじみ出ている。

日清戦争は川上だけでなく、日本にとっての初めての対外戦争であり『戦争とは外交であり。外交とは戦争である』というモルトの極意をまだ十分、会得していなかったのである。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『オンライン爆笑動画/内田百閒のユーモア講座『一億総活躍社会』『超高齢/少子化日本』の国策スローガンを嗤う 「美食は外道なり」「贅沢はステキだ」「国策を嗤いとばし、自己流の美学を貫いた」超俗の作家・内田百閒(81歳)

  2015/11/15  知的巨人たち …

no image
速報(263)『米国を真似て財政破綻したがる日本』(田中 宇)●『製造業:安い中国の終焉』(英エコノミスト誌』

速報(263)『日本のメルトダウン』   ◎『米国を真似て財政破綻した …

no image
日本リーダーパワー史(555)「日露戦争での戦略情報の開祖」福島安正中佐⑤『清国は共に手を取り合ってやって行ける国ではない』と結論

 日本リーダーパワー史(555) 「日露戦争での情報戦略の開祖」福島安正中佐⑤ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(174)記事再録/★『三浦雄一郎氏(85)のエベレスト登頂法②』『老人への固定観念を自ら打ち破る』★『両足に10キロの重りを付け、これに25キロのリュックを常に背負うトレーニング開始』★『「可能性の遺伝子」のスイッチを決して切らない』●『運動をはじめるのに「遅すぎる年齢」はない』

    2018/12/04 /知的巨人の百歳学( …

no image
『F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(157)』 『イスラエルに魅せられて再訪(2016/1)」レポート(5)『死海(Dead Sea)、30 年ぶりの浮遊体験』ー平均1年、1mのペースで湖面が低下している。

『F国際ビジネスマンのワールド・カメラ・ウオッチ(157)』  『イスラエルに魅 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(188)記事再録/近代のルネッサンス的巨人・日中友好の創始者・岸田吟香は『230年ぶりに上海に住んだ最初の日本人』★『ヘボンと協力して日本最初の和英辞典を出版、毎日新聞主筆、目薬屋、汽船、石油採掘、盲人福祉など10以上のベンチャービジネスを興した巨人』

 2013/01/29  日本天才奇人伝④記事再 …

no image
日本メルダウン脱出法(675)「都構想」住民投票否決! 大阪維新はなぜ失敗したのか」◎「米国への移民、典型は中国人学生と20代インド人」など7本

日本メルダウン脱出法(675) 「都構想」住民投票否決!大阪維新はなぜ失敗したの …

no image
記事再録/『中国/内モンゴルのゴビ沙漠の不毛の砂漠を300万本のポプラの木を植えてと緑の農地によみがえらせた奇跡の男・遠山正瑛(97歳)★『中国で、生前銅像が建てられたのは毛沢東と遠山の2人だけで、その台座には「90歳の高齢ながらたゆまず努力し、志を変えなかった」』

    2009/05/06 &nbsp …

no image
『100年前の日本の人権状況』>●『「ニューヨーク・タイムズ」が報道した大逆事件』

  『100年前の日本の人権状況』> ●『「ニューヨーク・タイムズ」が …

no image
『オープン講座/金子堅太郎の人物評』★『山口愛川著「 波蘭立志-大臣」(内外出版協会 1928 年)より。

『山口愛川著「 波蘭立志-大臣」(内外出版協会 1928 年)より。金子堅 太郎 …