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73回目の終戦/敗戦の日に「新聞の戦争責任を考える③」再録増補版『太平洋戦争下の新聞メディア―60年目の検証③』★『記者は国家登録制に、国体観念を養うために練成実施』★『戦う新聞人、新聞は弾丸であり、新聞社は兵器工場へ』★『朝日社報の村山社長の訓示『新聞を武器に米英撃滅まで戦い抜け』(1943/1/10 )』

      2018/08/17

「新聞の戦争責任を考える③」再録増補版『太平洋戦争下の新聞メディア―60年目の検証③』

                       前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

350紙以上の新聞社 社説で一斉にトランプ氏非難
https://mainichi.jp/articles/20180817/k00/00m/030/169000c
トランプ米大統領の「国民の敵」発言に反撃 350超の新聞社が一斉社説 メディアの信用度低下も加速
https://www.sankei.com/world/news/180817/wor1808170024-n1.html

 

大本営発表の『嘘八百』!

検閲の総本山・内務省警保局検閲課は1942(昭和十七)年五月当時で、八十五人の検閲官が新聞、出版、映画などのメディアに監視の目を光らせていた。

一九四三 (昭和18)年度中の新聞の事前検閲は新聞のページの減少にもかかわらずかえって増加し、ゲラ刷り又は原稿によるもの約九万件(一日平均二百五十件)で、そのうち不許可処分となりたるもの一万二千件、電話によるもの五万件(一日平均百五十件) の合計十四万件に達した。(12)

このような徹底した検閲の一方で、新聞紙面の大部分を派手に飾ったのが大本営発表である。これは途中からウソと誇大発表の代名詞ともなった。

当時、新聞、軍報道部関係者は大本営発表のことを朝刊、夕刊と呼んでいた。 「今日は夕刊は出ますか」「いや、明日の朝刊は三本だよ」といった調子で陸、海軍報道部員と記者たちは会話した。 「黒潮会」は海軍省の記者クラブで、戦時中は新聞記者の花形のクラブであった。当時の記者の証言する大本営発表の内幕は次の通りであった。

「われわれの仕事は、極端にいえば、ただ報道部の大本営発表を機械的に右から左へ国民に知らせるだけのものなのだ。報道部長が発表文を読み上げ、それを筆記して社へ速報し、さらに平出大佐のレクチェアを聞き、それを参考に解説記事を書く。

そこにはいささかの批判も許されない。発表文に矛盾があっても、追及することはでない」 (13)

報道部は「この発表は第1面トップで扱ってもらいたい」 「これは1面四段の扱い。見出しはこれにしてもらいたい」 と注文をつけ、新聞側はそのまま従わざるを得ない。軍報道部の将校ににらまれたら、記者は働けないばかりか、その新聞社まで不利益を蒙った。

連日の戦意を高揚する記事は「そこの将校の意思を紙面に大きく忠実に代筆することが肝心であった。『記者たちは原子爆弾の如きは白い物を着ていれば、少しも恐るに足らず』というような陸軍将校の言葉を心の中で嘲笑しながら、紙面に特筆するといった具合となった」(14)のである。

  • 「言論の統制」から「言論の構成」へ質的に転換

情報局のメディア統制は太平洋戦争初期の「言論の統制」から次なる「言論の構 成」へ質的に転換していった。情報局や陸海軍報道部が編集権に全面的に介入し、指導したのである。

従来の禁止、示達といった一方的、強制的を言論統制から、情報局が「懇談」「依頼」「説明」「内面指導」とさまざまな形で新聞社に働きかけて、両者が協働、一体化してよりソフトに、より高度な方法での言論指導にあたるのが「言論の構成」(15)である。

“内面指導”とは情報局、陸海軍報道部などが新聞社幹部といろいろな問題について懇談し新聞社側の能度を決定させ、これを取り締まりの基準とするもの。 具体的な方法としては、当時の代表的な新聞-東京朝日、東京日日、読売、都、報知、中外、国民、そして同盟通信の入社に対して、定期、随意に編集局長会議、政治、経済、社会部長会議を開催し、情勢や政策を説明し記事取材の内面指導を行っていた。

このは “内面指導”法的な措置ではないが、これに反した場合は発禁や注意を受けたため、報道の手足を別の形でしばった。 情報局、陸海軍、官庁まで指導記事を書かせようと、指導、注文、懇談事項という形で陰に陽にしばってきた。 「単なる禁止的統制の場合は書かなければそれですむのである。言論の構成段階では新聞側は心にもないことを書かねばならない。当局側の明示あるいは示唆にしたがってペンを走らせる段階に移っていった」 (16)

軍は発表ニュースの書き方を評論調に指導し「『何々すべし、すべからず』といった指導記事を書くように要求した。 「社説などは今日無用の長物だ。記事を全部指導記事にすることが、読者を啓発する最善の方法だ」、と力説した陸軍の将校さえ現はれた。いわゆるトップ記事なるものが必ず指導記事であり、中佐や少佐の意見を代筆することになった」 (17)

6.戦う新聞人、新聞社は兵器工場へ―朝日新聞・村山社長の『新聞報国』

太平洋戦争下の新聞記者は〝戦う新聞人″と義務づけられ、新聞は思想戦を貫徹するための〝紙の爆弾″と位置づけられた。

新聞社は“新聞は兵器なり″として、ク紙の爆弾″を製造する〝軍需工場”であり、戦争遂行、勝利のための一大プロパガンダ工場と化したのである。 朝日新聞社の社員向けの 『朝日社報』をみると、毎号、トップに勇ましく叱咤激励する村山長挙社長の訓示が並び、〝常在戦場″と化した新聞社内の雰囲気が伝わってくる。

『新聞を武器として米英撃滅まで戦い抜け』 (昭和18年1月10日付) では、「国民の士気を昂揚し、米英に対する敵愾心を益々輿起せしめて大東亜戦争を勝ち抜くべく指導することは、本年におけるわれわれ新聞人に課せられた最も大なる使命の一つだと信じるのであります」

このための新聞製作づくりの方針を「(論説と編集が)、多少の角度(違う) ができることは敵を乗ぜしめ、場合によって国論が二つになる。はっきり政府と同列の線に入って行くことが最も必要であります。

戦争に勝つまでの間は、ただ政府の行わんとするところをいち早く国民に知らしめ、政府のいわんとするところを国民に伝え、国民をあくまで完勝に率いてゆくのでなければ勝つことはできない、すべてを犠牲にして、ただ勝つための新聞を作ってゆく時代になったと考えるのであります」(以上、『朝日社報』18年12月27日付)。

「どうか必勝態勢の成った、勝つための朝日新聞を掲げて、敵米英を徹底的にせん滅すべく御努力御奮発を願います」(昭和19年1月号)昭和一九年三月号では、必勝の信念に燃え、〝新聞報国″に邁進せよと檄を飛ばし、太平洋戦争に入ってからの朝日新聞の役割を次のように総括している。

「艱難何ぞ恐れん、新聞報国に玉砕の決意・夕刊休止に関する村山社長の訓示」 の見出しで、「大東亜戦争勃発するや、本社は直ちに 『国内是戦場』 『挙社応召』の決意を固め、村山社長、上野会長、各重役をはじめ全従業員決起して 『新聞も兵器なり』との信念を堅持して、報道報国のために挺身、朝日新聞の国家に対する使命完遂に全力を傾倒しつつあり、新聞の決戦体制を整えるために率先して機構の大革新を断行した。

紙面は活気旺盛、真に思想戦の武器としての威力を遺憾なく発揮している」 創刊五十七周年の記念日には「正に決死奉公の秋、国民精神振起に努力せよ」との見出しで、「国民の神経を太くし、更に協力一致、どこまでもねばりねばらしめて、この戦争を勝ち抜く決意を、ますます強からしめるものは新聞の力をおいて他にないのであります」(同年七月号)。

「敵が本土に上陸するというような事態になり、本土が戦場と化するという事態や、いかなる場合でも、新聞としてはあくまで戦争一本でゆく、戦い抜くのだという態度をはっきり申し上げておきます。われわれはただただ国民の戦意を昂揚し、戦争を戦い 抜くということが報道陣の使命であると考えます」(昭和二〇年六月号)これが戦時下の新聞報道の実態であった。

7.記者は国家登録制に、国体観念を養うために練成を実施

一方、多数の記者が従軍記者として前線、戦地に派遣される中で、国内、銃後の記者たちには戦う新聞人、皇国新聞人たる自覚を養うため新聞統制機関「日本新聞会」は練成を実施した。

同会は記者規程を制定、記者の条件として、「国家観念を明徴にし、記者の国家的使命を明確に把接し、かつ常に品位を保持し公正廉直の着たること」が要求され、この条件に合わない場合は記者として登録されず、名簿からはずされた。これはその後、記者登録制(一九四五年一月実施)へと発展していった。

記者の国体観念を一層明徴にするために、同新聞会は記者や新聞関係者に神道の“禊″を錬成として行った。 錬成の目的は一体何であったか。

従来の営利的な新聞理念を脱却して、「全新聞の従業者が皇国新聞人たる自覚を体験を通して把握し、皇国新聞道を確立して決戦新聞を作製し、国家戦力の増強に資する」ことを目標にしたもので、「禊、神拝等による修練方法」が採用された。

『朝日社報』(昭和一七年十一月号)によると、同社の印刷局長らが参加して日本精神道場で行われたが、練成、楔のスケジュールは「五時三十分、起床、洗面、六時、祓禊潜水、六時三十分、胡麻監湯、七時、国旗掲揚、入時、朝の拝神、九時、朝食 (玄米粥一椀)、十時、清掃、十二時、昼の拝神(講話)、十四時、産土神社の参拝、十六時、惟神道講話、十七時、禊祓潜水、十人時、国旗降下、十人時三十分夕食(玄米一椀)、二十時、座談会、二十一時、夕拝神、二十二時、就寝」といったもので あった。

復古的な精神主義、日本主義、ファナティックなアナクロイズムが時代を覆い、新聞記者もその毒気からも抜け出ることができなかった。(18)

外交評論家・清沢洌はさめた意識で当時の新聞とその報道ぶりを日記(『暗黒日記』) に書きつけているが、「武器の近代化の必要に面している時、言論界は依然、神がかり的である。

どこに行っても戦争の前途に対して心配している」(一九四四年一 月六日付) 「近頃の新聞とラジオは、ますます精神的になっている。全然、見透しを謬った連中が、とくい顔にのさばっている」 (同年二月十八日付) など時代の狂気を冷静客観的に観察している。

8.では記者の内心の意識はどうだったのか!

このように戦争への道をたどり、敗戦へと転落していく過程で、新聞記者はどのように考え、行動したのだろうか。記者たちの本音はどこにあったのだろうか。

太平洋戦争に至るまでの記者のおかれた状況について、山根真治郎はこう証言する。

「記者は5・15事件や2・26事件など軍の暴力に戦慄してペンを投げた。右翼によるひんぴんたる個人襲撃があり、特高と憲兵による無法極まる作業妨害が記者の頭から思惟を取り上げ、記者の口を封印してしまった」。

「陸海軍省詰の記者はその異動すら社では行えなかった。一人の記者を動かすにも陸軍報道部長は必ず社へドナり込んだ。情報局、陸海軍は記事の扱い方から見出しの大小まで指導し、『勝手にしろ』というのが心ある記者の捨てゼリフとなった」(19)

太平洋戦争開戦から初期にかけての記者の意識は「前途は怪しいが、乗り出した船だ。目的地の方向に漕ぎ続け、その力漕による精力発散を自らたのしむ、といったものであった。 いわんや船のなかにピストルを持った監視人(軍のこと) がいて、怠け者や不平分子を射殺する態勢であったから、新聞も一般国民も、とにかく全力で漕がざるを得ない実情であった。」と伊藤正徳は回想する。(20)

太平洋戦争の中期になると、新聞人も大本営発表のウソを見抜き、勝利を信じなくなった。「しかし、勝てないが、ドローン・ゲームは絶望ではない。軍事的形勢の上に何がしかの潜在力が残っていることを示し、それを外交的に利用する外はない。その ためには虚勢を張って、戦を続ける決意を如実にみせる必要がある。だから国民の戦意を昂揚-というような無理を維持させて、飽くまで頑張らせるのだ」(21)

さらに、サイパン陥落、レイテ島を失いフィリピンの戦闘が開始され、B29 からの本土爆撃が進行する戦争末期には新聞人も絶望した。

「しかし、強気の記者はどの新聞社にもあって、軍の勢をかりて勝利の信念を疾呼し、紙面は依然として必勝的に染められていた。『行くところまで行く』といふ多少自棄的な継戦論も支配していた。軍の鉄の統制下では、これ以外の編集は不可能でもあっ た」(22)と伊藤は弁明する。

新聞は軍のプロパガンダ組織にがっちりと組み込まれており、軍部と新聞は一心同体であった。編集面ばかりではなく、軍部との良好関係を築くことは営業面、資材面でも絶対必要であった。両者は運命共同体であり、それは戦争下のあらゆる産業にみられた現象であった。

「軍人の中には宴席を好むものが多い。『一緒に飲む』という交歓が悪習をなし正視するに堪えぬものがあった。何分にもオールマイチーの軍部であり、資材難の折柄、万事につけて軍の諒解を得ておくことが営業的に必要であった結果、社をあげてこれ に奉公するような新聞が現われた。

それ程ではなくとも、多かれ少なかれ、この傾向を否定する社は存在しなかったといっても過言ではなかろう」(23)

昭和二〇年八月十五日、戦争は終結した。

朝刊で各紙は敗戦を大々的に報道した。ポツダム宣言受諾までの経過が報道され、国民は初めて戦争の真相、大本営発表の虚偽と、新聞がウソを書き続けてきたことを知らされた。その日午後。朝日新聞編集局内では村山長挙社長が出席し、今後の編集方針についての部長会議が開かれた。席上、細川隆元編集局長はこう述べた。

「今まで一億一心とか、一億団結とか、玉砕とか、米英撃減とかいう最大級の言葉を使って文章を書き綴って、読者に訴えて来たのに、今後はガラリと態度を変えなければならない。これは致し方ないことだが、まあだんだんに変えていくことにしようじや ないか。あんまり先走ったことはよそう。」(24)

村山社長も「それがよかろうな」と認めた。長谷部忠政治部長は「この際、新聞は百八十度転換した態度をとるべきだという議論も出ているが、そう一ペんに現金な態度の転換は良心が許さぬし、また読者にも相済まぬような気持ちがするから、あまり不 自然な敗戦迎合の態度はやめたい」(25)と述べ、暫進主義の報道方針が確認された。ところが社内では、幹部の戦争責任追及の急進論が台頭して、ここに朝日未曾有の大騒動が持ち上った。

朝日新社報・村山社長の訓示『新聞を武器に米英撃滅まで戦い抜け』(1943、1,10)

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 - IT・マスコミ論, 戦争報道, 現代史研究

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