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人気記事再録『「新聞と戦争」の日本史』<満州事変(1931年)から太平洋戦争敗戦(1945)までの戦時期の新聞>

      2017/11/01

2009/02/10  「戦争と新聞」を検証する

 講演録


1995年2月15日
前坂 俊之
静岡県立大学国際関係学部教授


1・関東大震災で新聞勢力地図が変わる・大阪勢が全国制覇へ


1995年1月17日早朝に起きた阪神大震災は5000 人を超える死者をだす大惨事となったが、いまから72 年前の関東大震災では、東京の各新聞社は壊滅した。

今回は地元の神戸新聞が甚大な被害を受けたが、72年前は現在の毎日新聞の前身である「東京日日新聞」はじめ、国民新聞、報知新聞など歴史ある東京の新聞社は壊滅的打撃を受けた。そこで、大阪本社の前身である「大阪毎日」と「大阪朝日」の2つの大新聞社が東京に進出して東京勢を圧倒して、『朝毎時代』を築くこととなった。


きょう私が問題提起すのは「新聞と戦争」のテーマだが、現在のマスコミ状況と戦前では全く違う。現在はテレビの比重が大きいが、戦前はいうまでもなくプリントメディアである新聞が中心で、中でも朝日と毎日だけが全国紙として圧倒的影響力を持っていた。


読売は現在1000万部を超える発行部数だが、戦前は東京だけの新聞で、発行部数は少なかった。
朝日は「東京朝日」、「大阪朝日」とし、毎日は「東京日日」、「大阪毎日」と東京、大阪で別々の題字で発行していたが、朝日、毎日が全国紙として存在していた。


読売は大正末には4、5 万部の新聞社でつぶれかかっていたが、正力松太郎

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%AD%A3%E5%8A%9B%E6%9D%BE%E5%A4%AA%E9%83%8E

が買収して、その後、急速に増えていく。1938(昭和13)年には100 万部を突破する。東京だけの新聞であったわけだが、当時としては朝毎を抜いて棄京では第1 位の部数となっていた。


そして現在、1000 万部の新聞になっている。ことしはちょうど「昭和50 年」だから、この70年間で4、5 万部から1000万部へ、となんと250 倍に増えたことになる。
戦前のマスコミは新聞とラジオしかないが、ラジオは満州事変(1931年)で初めて臨時ニュースを流した。では新聞は戦争に突入していく過程で、どのような報道をしてきたのかを検証していきたい。


2・毎日・東亜調査会と読売・憲法調査会のアナロジー
1994
年11月、読売新聞は憲法改正試案を発表したが、その時、私は1929(昭和4)年6 月に毎日行った「東亜調査会」の設立と歴史的アナロジーを感じた。
歴史には、何度かの大きな節目がある。マスコミの歴史にも同じようなことがいえる。昨年はその意味からも、大きなターニングポイントとなったといえる。


「東亜調査会」は東亜の共栄の世論喚起と国策樹立を目的として設立されたもので、顧問には林権助、井上準之助、近衛文麿、斎藤実、宇垣一成など、時の政府の要人らがズラリと入り、1931(昭和6)年に設立された。


満州事変が日中戦争につながり、太平洋戦争へと発展する、いわゆる15 年戦争の、そのターニングポイントであった。満州事変に国民を導いていったスローガンは、「満蒙は日本の生命線」というものであった。


これを最初に国策として樹立しようとして、一大キャンペーンを張ったのが調査会であった。さらに当時の本山彦一社長は、1929(昭和4)年に国民新聞社長であった徳富蘇峰https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%B3%E5%AF%8C%E8%98%87%E5%B3%B0

を社賓として迎える。


徳富は戦前のファシズムを代表する言論人であったが、その徳富に現在の主筆の役割を与え、毎日、夕刊1 面のコラムを書かせる。
戦前の毎日新聞は、15年戦争の突破口になる「満州は日本の生命線」の国策を先導し、一大キャンペーンを行うなど、日本の軍部が行った満州事変、中国侵略を起こす上で、「満蒙生命線論」を社説で30数回掲載している。


事変後も「国策」に沿った紙面展開を行っており、軍拡支持、右翼的、親軍的な姿勢で報道してきた。
これに対し、朝日はどうだったか。

社説は大阪朝日と東京朝日でそれぞれ別なものが書かれていたが、特に「大阪朝日」の方が反軍的であった。
「大阪朝日」の高原操編集局長は、満州事変に一歩々々近づいていく段階で、軍部、政府を厳しく批判、牽制する論説を展開していた。
特に、満州事変が起きた前日の昭和6 年9月17日の社説では、関東軍が暴走した場合、「日本は滅亡の道を歩むであろう」と、その後を全く予見したような先見的な社説を書いている。


満州事変は関東軍の謀略によって引き起こされた。事変が起きるまでは、朝日は軍部に批判的であった。毎日は軍部寄りで、「満州は日本の生命線」、満州は日露戦争で日本の権益によって獲得したものだ、という強硬路線で軍部を支持していた。逆に、朝日は批判的な立場であった。


したがって、当時の朝日と毎日との関係は、現在の朝日、読売の関係とウリ二つであった。しかし、事変勃発後、朝日は百八十度変わってしまう。


3・言論抵抗は満州事変まで
では、なぜ満州事変にこだわるのか。「戦争と新聞」を考えるとき、戦争が始まってからでは遅い。もう、新聞は抵抗できない。抵抗が可能なのは、戦争が姶まるまでの時期。戦争にエスカレートして押し流されるまでにどれだけ、新聞がブレーキ、歯止めをかけられるかである。
15 年戦争をトータルで見たとき、5 年ごとに次の3 段階にわけることが出来る。

 

15 年戦争と新聞の3 段階 <戦い、屈服、協力の3 段階>


「ジャーナリズムの戦いは5・15 事件(1932 年、昭和7 年)で90%終わり、2・26 事件(1936 年=昭和11 年)で99%終わった」といわれる。
(1)第1 期(1931 年、昭和6 年~1936 年=昭和11 年)満州事変から2・26 事件まで去=戦争へ発展する小さな芽のうちに、これをつぶしておかないと、大きく発展した段階では遅い。


この点では15 年戦争の発火点となった満州事変で「新聞が一斉に放列を敷いて抵抗していたならば、あるいは歴史は変わっていたのではないか」というのは朝日の戦争中の責任者・緒方竹虎の戦後の回想だが、

この弟1 期では戦争へと大きく発展する過程で、毎日、朝日などの大新聞は軍部と二人三脚で協力し、ほんの一部の新聞、「福岡日日新聞」(現、西日本新聞)などが抵抗した。 しかし、全体的にはなだれをうって挙国一致の協力をしていった。


(2)第2 期(1937 年=昭和12 年~1941 年=昭和16 年)日中戦争から太平洋戦争の勃発まで=新聞は統制時代に入り、ペン部隊、内閣情報局に組み込まれる。言論の自由は100%息の根を止められた。


(3)第3 期(1941 年=昭和16 年~1945 年=昭和20 年)太平洋戦争から敗戦まで=「新聞は死んだ日々」。26 種類もの言論統制の法規によって新聞はがんじがらめにされ、大本営発表に終始し、二重三重の検閲によって、新聞はウソを書きつづけた。(今でいうフェイクニュース)
———————————————————————
第1 期にあたるこの時期に新聞の抵抗は90%程度終わっており、第2 期は99%言論の息の根を止められ新聞は言論の統制から企業として統制される。


新聞が抵抗出来たのは第1 期の時期である。軍部と一体となった右翼に攻撃された中で、真正面から抵抗した新聞は、「大阪朝日」、「福岡日日新聞」 (現在の西日本新聞)ぐらいであった。「大阪朝日」も満州事変が起こるまでは高原操編集局長らを中心にして抵抗していたものが、なぜ百八十度変わってしまったのか。


4・経過、「朝日百年史」に記述


その裏には何があったのか。朝日新聞70年史では「木に竹をついだ」ように転換したと、なぞめいた表現をしているが、一昨年、出版された[朝日新聞百年史]では詳細にその経過が書かれている。


「満州は日本の領土ではない。中国の領土の一部だ」という社説を書いていた大阪朝日に、満州事変が勃発した翌日、9 月19 日、笹川良一(当時、右翼の国粋大衆党総裁)が訪れる。24 日には右翼の総本山「黒竜会」の代表・内田良平が同様に訪問している。内田らによる大阪朝日への攻撃と脅迫が陸軍幹部と一体となって行われ、その暴力、脅迫、テロを恐れて朝日は屈伏していく。


同月25日には村山良平社長が病をおして、重役会に出席して満州事変についての社論の決定を行う。10 片1 日に社説「満州国緩衝論」が出る。それまでの「満州は中国の一部」から百八十度転換、軍部の認める満州独立論に切り換えた。
社内、特に編集局内で激しい批判が出た。しかし、12 日には「国家重大時に日本国民として軍部を支持し国論を統一することは当然のこと。満州事変については絶対批判を許さず」という厳しい重役決定が行われ、翌日の編集局内での説明で高原局長は、「軍部に協力するのか」との質問に対して「船乗りには<潮待ち>という言葉がある。遺憾ながら、われわれもしばらくの間、潮待ちする」と答えた。

これによって、満州事変に反対する朝日が転換。急先鋒の毎日は、本山彦一社長が満州事変は「正当防衛」という声明をアメリカの25の新聞に発表するなど一貫して軍部と一体となって強硬路線を突っ走った。


さらに11月4 日には新聞界が一致して「満州事変は自衛権の行使である」との声明を各国に送った。これによって日本の新聞社全体がひとつの方向になっていく。「満州独立論」が決定的な流れになった。


5・軍人会の激しい抗議と新聞不買運動も大きく影響した。


このような歴史の重要な節目で、新聞は流れにブレーキをかけるのでなく、アクセルを踏んで戦争への方向にプッシュしてしまった。


ここにいたるまでの間、昭和初めごろから新聞の報道スタイルがかわってきた点も見逃せない。明治、大正の政論新聞からニュース報道中心の新聞に変わっていく。
特に戦争報道の場合、戦況の拡大をどんどん「客観的」に報道していくことによって、さらに戦況をエスカレートさせていく。既成事実を次々に追認していき、ついには抜きさしならぬ状況に陥ってしまった。


関東軍、軍部の暴走に対し政府は「不拡大」の方針を毎回出すのだが、軍部は無視し続ける。軍部は既成事実を積み重ね、それを新聞が客観報道で大々的に報道する。


いつのまにか報道が軍部の行動を追認する結果となっていった気づいた時には中国全土に戦火が広がっていた。客観報道という名の悪しき<現実追認主義>である。
同時に、新聞間の激しい競争も背景の一つにあった。朝日、毎日の報道の路線の違いー反軍部の報道をしていた朝日に対して、例えば在郷軍人会などが不買運動を組織するなどして攻撃した。


また毎日はそこに付け込んで読者拡張をはかり、部数が落ち込んだ。朝日の経営者は危機感を募らせて、それが朝日の転換の原因の一つともなった。


6・二・二六事件で息の根止まる
関東軍の謀略で起こされた満州事変を新聞は当初、中国側から仕掛けられたものと報道した。確かに、戦後の東京裁判で初めて満州事変は日本側によって引き起こさ
れたという真相が明らかにされた。新聞社(記者)は当時、事変の真相は知らなかったといわれるが、実際は、把握していたという証言がいくつかある。


たとえば、毎日の陸軍省担当の記者の回想録などでも1 週間後に陸軍幹部から関東軍が仕掛けたという情報を得ていたというし、現地に取材に行った毎日記者も真相を知って、バカバカしいので帰国した、とも書いている。もちろん政府首脳も知っていた。


ただ、どちらが先に攻撃したかという問題以前に、国民の意識の中に排外熱が高まり、『反中国』「中国を撃て」というムードが強くなっていた。これ自体は新聞が作り上げてきたものだが、それによって国民全体が戦争へと流されていった。


7・「国際連盟脱退」を強力に後押しした毎日


翌年の昭和7 年に日本は国際連盟を脱退する。この脱退時にも大きなキャンペーンをはったのも毎日だった。「東京日日新聞70 年史」(昭和18 年刊)では「国論統一に東京日日新聞がいかに貢献したか」を得々と書いている。


「国際連盟脱退」と言っているが、「脱退」ではなく、真相は追放だ。「42 対1」、日本だけの反対で、それ外はすべて「満州事変は日本の侵略」との結論を下した。国際連盟が調査中に日本は満州国を独立さていく。毎日新聞はそれを強力後押しするという報道を繰り返した。


続いて2・26 事件が起きる。陸軍のクーデターだ。青年将校らが朝日新聞を襲撃して、新聞は暴力によって抑えこまれ、萎縮していった。
翌年の1937(昭和12)年7月7 日、日中戦争が勃発。虚構橋事件で日中両軍が衝突する。どんどん戦火は拡大、太平洋戦争へと拡大していく。その中でジャーナリズムの状況はどうなっていったのか。


8・「新聞人の勇気の欠如」この反省忘れるな


満州事変時まではいくつかの新聞は抵抗してきたが、第2 段階に進むと企業としての新聞社への制約が加わる。紙の統制である。
太平洋戦争が始まる時期には1500ほどあった新聞社が「1県1紙運動」による、新聞の統廃合で55 社になってしまう。その結果、経営的には安定するのだが、ジャーナリズム性はなくなってしまった。

 

地方紙は全国紙との激しい競争から勝ち残りたいということで、どんどん統合に賛成していく。太平洋戦争に突入する時期になると、新聞用紙の制限などで規制された。がんじがらめの法規制 新聞がだんだん抵抗できなくなっていく過程には幾重にも言論法規が作られていく。


太平洋戦争開姶時には30ぐらいの言論法規が出来上がり、書こうにも書けない法的規制が出来上がってしまった現実があった。その意味では、ある面では免責されるかもしれないが、「書こうと思えば書けたのに、実際は書かなかった」、メディア自身が自己規制、自己検閲した面も大きい。外圧による言論萎縮、自己規制が一体となっていった。


「本当に検閲・圧力で書けなかったのか、自己検閲、委縮して書かなかったのか」

-これは今日のメディアにも突きつけられた共通する問題である。

「書いたら取材先からやられるのではないか、クラブから追放されるのでは・・」と恐れて自己規制していく傾向は今も引き続き、天皇報道や報道のタブーを生んでいる。


9・記者の自己規制こそ問題


この点で時事新報の編集局長で海軍記者として有名な伊藤正徳は、社説が最も活躍すべき時に「出来なかった」と自らそのふがいなさを反省している。
時事新報は明治、大正にかけては「日本一の時事新報」といわれた。昭和11 年に
は毎日新聞に合併される。伊藤は昭和9 年に「新聞総覧」に、新聞が萎縮して香かなかった反省を3 点あげている。

  • 聞人の勇気の欠和
  • 論に対する抑圧
  • 聞の大衆転化-の3 つである。

現在はいうまでもなく、言論の自由がある。言論の抑圧は法的には全くない。しかし、メディアは国民の知りたいことを本当に書いているのか。昭和天皇の病気報道を見て
も、この言論萎縮はいまだ続いているのではないか。外圧を必要以上に恐れ、過大に自己規制してはいないか。その記者の自己規制こそが問題である。


10・大本営発表は846回、記事扱いまで細かく指示


太平洋戦争に入ったら、言論の自由は全くない。新聞は政府のPR 紙となってしまった。戦果を報じる大本営発表は、太平洋戦争中は合計846 回あった。
海軍の場合、1 日1 回程度だったが、記事の扱いー「この記事は3 段に、あるいは4段に」という具合に大きさの指示があった。アメリカの被告については大きく、日本の場合は小さく、戦果は実際の3、4 倍水増しされて発表されていた。そのほかに、情報局の懇談、内面指導などさまざまな規制があった。


現在の記者クラブでの懇談の原型がこの時から出来上がっていた。社会部長、政治部長との懇談は週1回あり、記事の扱いについて具体的に指示していた。
クラブの記者に対しては、原稿の背き方、大きさまで指導。言論の統制は満州事変ごろまでで、太平洋戦争中、「書いてはいけない」という言論統制でなく「このように書きなさい」という言論統制に進んでしまった。


11・いまもソフトに内面指導


では、現在はどうだろうか。たしかに一人々々の記者に対して記事の扱いまでは「指示」していないが、クラブ制度は極度に進み、発表主義が完成している。ソフトに指導されており、ある面では大本営発表より進んでいるのではないか。
清沢洌は戦時下「暗黒日記」を書き続けたジャーナリストだが、その日記の申で、日本人の特性として

 

「官僚主義、形式主義、あきらめ主義、権威主義、セクショナリズム、精神主義、道徳的勇気の欠如、感情中心主義、島国根性など、日本人の劣勢は戦
後何十年かたって果たして克服されるのだろうか」と疑問を呈している。


最近、毎日新聞社から出版されたウォルフレンの「人間を幸福にしない日本というシステム」という本の中でも、日本人の無責任体制、特に政治、官僚、マスコミが一体化した総責任体制について指摘しているが、清沢が指摘したのと全く同じだ。戦後50 年たつが、日本のシステムは変わったのか。戦前、戦後もー貫してほとんど同じではないかと指摘している。


12・敗戦と新聞・自らの責任を問う姿勢の回避


では、敗戦によって日本の新聞はどうなったのか敗戦後のシンボルとなった「一億総ざんげ」という言葉。東久邇首相が8 月28 日の記者会見で初めて言った言葉で、9月5日の臨時国会冒頭の施政方針演説の中でも同様にふれている。では、新聞はどう報道したのか。


8
月15 日の朝日社説は『一億相哭の時」、毎日は『過去を肝に銘じ前途をみよ』となっている。この段階ですでに、「一億総ざんげ」の原型がでており、新聞がまず露払いをした。そうした中で、戦後民主化と新聞のスタートといわれている朝日の「自らを罰する弁」(8 月23 日)という歴史的な社説が掲載されるが、これは例外的な論説だったといえる。


GHQ
が日本に駐留してくるまでの2 週間の日本の新聞は、なぜ日本は負けたのか、敗戦の責任追及と総ざんげ、原爆投下に対する怒りが渦まいている。


ところが、GHQ による9 月11 日の東条ら逮捕の戦犯追及が本格化すると、今度は総ざんげの方向から一転して戦争責任、戦犯追及になる。戦前は軍部の顔色をみて、
戦後は一転してGHQ の意向に沿うことで、生き延びたわけで、一貫して自らの戦争責任を問うという姿勢が、戦前、戦後を通じて新聞には欠如していた。


13・参加者との討論に入る。なぜドイツでは廃刊に


【参加者】 ドイツなどは第2 次大戦後すべての新聞は廃刊となった。日本はなぜそうならなかったのか、どこに違いがあったのか。
【前坂】 ドイツ、イタリアの戦前の新聞は全部廃刊となった。これは、連合軍が直接統治したことによる。ベルリンが陥落する前に英、仏、米など関係国が集まり協議したが、その中でナチス下にあった新聞はすべて廃止するということを決めている。
新聞の復刊にあたっても、ナチスに関係した者は一切その中には入れない方針とした。イタリアも同様だ。


日本の場合、米国は日本の間接統治、日本の権力的なもの、天皇、官僚とともに新聞も、戦前のまま残しながら利用して統治するという方法をとった。もし、直接統治ということになれば、毎日はじめ戦前の新聞はすべて廃刊ということになったであろう。関係した人間もすべて一掃されただろう。間接統治というあいまいさによって、日本の新聞は生き延びることになった。

 

【参加者】 満州事変の時、取材していた新聞記者は関東軍から仕掛けられたことをほとんど知っていたとのことだが、本社の幹部はどうだったのか。新聞は軍の発表だけで書くという習慣になっていたのか。
【前坂】 これは歴史的事実だが、第1報を聞いたとたんに、元老の西園寺公望らは「これは関東軍がやった」とピンときた、といっているし、外務省なども現地からの電報で真相をつかんでいた。


事変を起こす以前から関東軍が策動しているということも公然の事実だった。新聞社内にも情報派入っていたが、国内の情勢は「中国を撃て」という気分が高まっていた。

政府は関東軍が仕掛けて暴走していることを知っているため、不拡大の方針でブレーキをかけたが、関東軍はそれを無視して軍事行動を拡大していく一方だった。新聞は戦争なので大々的に報道した。一気に戦果は拡大し、中国東北部を占領してしまうことになっていった。「戦争は日本が仕掛けた」という点は吹っ飛んでしまった。


【参加者】当時、日本共産党の機関紙「赤旗」は日本がやったと書いていたのでは。


14・事実知らされない国民


【前坂】 確かに「赤旗」は報道していた。ただし、発行部数は数百部ぐらいではないか。しかも公然と配布できない。影響力は小さく、事実関係を知っていた国民は少数であった。
【参加者】 GHQ のインポーデン新聞課長が「日本の新聞が一斉に放列を敷けば、
軍部にかくもたやすく屈服しなかったのではないか」と質問したことがあったというが、それは誰に対してか。
関東軍が作りだした謀略による既成事実を追認していくことで新聞が戦争に協力する体制に組み込まれていったが、あの時も現在も「客観報道」というのが落とし穴のような感じがするが。


15・戦前に戻れという論調も


【前坂】50 年前のことだが、これは今も同じだ。新聞間の過当競争、足の引っ張り合いが、自らの首を絞め、大変な状況を作りだすことになるということを教訓にしければならない。
現在の新聞の対立も深刻だ。今年の新年の産経は戦前の教育勅語に戻れという主張だ。新聞のナショナリズムが強まっているといえる。客観報道についてだが、何が客観か。発表があったものを報道することが客観報道とはいえない。発表されたことは事実なのかどうか、そのことを検証することが必要なのはいうまでもない。発表されたことを繰り返し報道し続けることで、既成事実を作り上げていってしまう危険性がある。


【参加者】いまの新聞の姿勢はすでに大正の時期に作られたのではないか。「政論新聞」、権力に歯向かう姿勢があったのが明治、大正の新聞だった。それがいつのまにかニュース報道主義になった。その変化が今日まで続いている。

【前坂】ご指摘のとおり、日本の新聞ははじめから「中立」 「不偏不党」、「客観報道主義」を標模していたわけではない。自由民権運動の中で大きく高揚した民衆ジャーナリズムが、時の政府により弾圧を受け、敗退。
言論中心の「政論新聞」からニュースを売る報道中心の、現在の新聞の形に近くなった。商業的な新聞に変身していくに伴い、次第に〝現実主義″的な報道姿勢、方針をとるようになってきた。そのことを加速させたものに、いくつかの事件があった。


それが「白虹事件」である。(注釈・同事件=1918 年に起こった米騒動は全国的に広がった。政府は米騒動に関する一切の報道を禁止(新聞記事差止命令)。新聞側はこれに反発、8 月25 日に関西記者大会が開催された。この大会の模様を大阪朝日新聞(当時、デモクラシー思想を編集方針にも取り入れ、言論界の指導的立場にあった)が報道した中で、中国の古典で兵乱の予兆を指す「白虹日を貫けり」という章句を使用。これが、当時の新聞紙法違反に問われ、発行禁止を迫られる)


米騒動自体を報道したのでなく、それに抗議する記者たちの集まりを報道したのであるが、政府は新聞紙法をタテに弾圧してきた。これを回避する方法として編集局長らの引責辞職と紙面で謝罪、あわせて以後の編集方針に「不偏不党」を取り入れる。他の新聞は大阪朝日を見殺しにした。言論界の屈服であった。
ヨーロッパのように市民革命を日本は経験していないことも大きい。日本のジャーナリズムが本当に鍛えられてきたのか疑問が残る。


【参加者】政府の各種審議会に新聞社の幹部が多数入っているが、このようなことは戦前あったのか。いつからこのような流れが出来たのか。第8 次選挙制度審議会長は読売新聞の会長が務めた。大新聞社の会長や編集幹部が審議会に
入っていることがあまり問題になっていないようだが、不思議でならない。
16・危険な審議会入り


【前坂】戦前にはなかった。情報局には各社幹部が入っていたが、審議会制度はなかった。選挙制度審議会に各社のトップクラスが入っていたのでは小選挙区制の批判は出来ない。ここ数年くらいの動きだ。各社とも審議会に入っていないと情報が取れないというためだろうが、そのことによって批判できないことは大きな問題だ。


【参加者】欧米では?

【前坂】まったくない。それどころか、厳しく禁じている。
参加者】話の中で昭和10 年ごろ朝日は「リベラル、自由主義、反軍的」、毎日は「右翼的、親軍部的」と言われた。では、個々の記者や新聞記者をめざす人はどうだったのか。現在も同じことが言えると思うが、例えば右翼的な考えだから何々新聞に入ろうという傾向になっているのか。


【前坂】戦前の各社の特徴というのは、記者個々の問題ではなく、新聞社の傾向、路線を言ったのだ。当時の記者はせいぜい毎年10人ぐらいの採用だった。記者の傾向までそのようだったということは、現在も含めて違う。


【参加者】 「1 県1 紙」に統合されたということだが、1400 紙もの新聞が約3 分の1近くまで減らされた。当時の地方紙の役割は。


【前坂】優れた県紙や地方紙がたくさんあったが、一県一紙に統合されてしまった。経営的に安定しことによって現在の繁栄があるが、問題は大きい。アメリカは新聞だけで4000 紙ぐらいある。草の根民主主義を支える媒体とし活躍しているのが多い。日本は中央集権的でかなり政府にコントロールされやすい。どこも同じような報道スタイルをとっており画一的なメディアの体質が作られている。(終了)


<以上は毎日新聞労働組合機関紙「われら」に1995年2月15日に掲載されたものです。>

 - IT・マスコミ論, 戦争報道, 現代史研究

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