『Z世代のための日本戦争史講座』★『「ハーグ、ジュネーブ条約」を無視して捕虜を虐待、 死刑を指示した東条首相の『武士道は地に墜たりー目には目、歯には歯を』★『陸軍反逆児・田中隆吉の証言』②
●米ドーリットル部隊の東京初空襲(1942 年4月18日)ー真珠湾攻撃から4ヵ月後
1842年(昭和17)4月18日午前8時、警戒警報のサイレンがけたたましく東京の空に鳴り響いた。市民は内心、周章狼狽しながらも、表面努めて平静を装い、それぞれ平素の訓練の示すところに従い部署についた。
正午、突如、高射砲が鳴った。続いて空襲警報のサイレンが響いた。私は当時、海軍省にいた。急いで庁舎の前の芝原に出て空を見ると、南方品川付近に一機のノースアメリカンがわが高射砲陣を避けながら西に向って飛んでいる。大久保と早稲田付近の方面からごうごうと黒煙が上ってきた。これはアメリカ飛行機の本土に対する第一回の空襲である。この空襲は全くわが軍部の予期せぬ奇襲であって、大本営は上を下への大騒ぎとなった。当時,わが国内の防空施設は実に貧弱極まるものであって、当局はその対策に何等の自信がなかった。
この日の空襲はノースアメリカン9機から成る、ドーリットル指揮の飛行部隊によるもので航空母艦ホーネット号より発進し、9機の内6機が東京を、2機が名古屋を、1機が神戸を、主として焼夷弾によって爆撃した。爆撃後この飛行機の内1機はシベリアに、8機は中国に向いその着陸地を求めて飛び去った。
中国に向った飛行機の中、一機は南昌付近に、他の一機は上海東方の海上中に着陸してその乗員8名はわが軍の手に捕えられ、東京に送られて来た。上海付近に着陸した飛行機は靖国神社に陳列せられ、軍部はあたかもわが軍の高射砲によって撃墜されたものと宣伝した。
この中国において捕えられた飛行士を捕虜として取扱うべきか、犯罪者として取り扱うべきか陸軍部内で大問題となった。できればこれに極刑を課してアメリカ側に恐怖心を起きさせて、日本空襲を根絶させるべきという強硬な議論も起ってきたが、その方針の決定に迷っていた。
強硬論は防空の責任者たる参謀本部側に起こり、次で大勢は逐次これに傾いてきた。しかし、陸軍省においては必ずしもこれに賛成しない部局もあった。
私が管轄する兵務局は徹底してこれに反対した。軍紀上かる非法行為を軍隊に強いることは許されざる性質のものだからである。
しかし、この方針の決定権限は参謀本部側にあるので、陸軍省は意見を述べることが出来るだけで、決定に参与は出来ない。六月の末になってこの飛行士を捕虜として取り扱うことなく犯罪者として極刑に処する方針が決まった。
この方針を実行するために、大本営は関東軍司令官、支那派遣軍総司令官、南方総軍司令官、及内地において防空を担任する防衛総司令官に対して軍律の発布を命じた。
この軍律はわが方を爆撃して捕えたる飛行士は、捕虜として取り扱うことなく、すべて裁判に付しこの軍律に照して処断することを規定した。
この軍律は七月下旬に発布せられた。捕えられたるドゥリットル麾下の飛行士8名は上海の第十三軍の軍律会議に付せられた。
畑俊六支那派遣軍司令官
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%95%91%E4%BF%8A%E5%85%AD
はこの軍律に疑義を抱いて処断を躊躇した。これを聞いた参謀本部は激怒した。そして8月下旬、作戦部の有末大佐精三
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E6%9C%AB%E7%B2%BE%E4%B8%89
を畑司令官の許に派遣して、この飛行士8名を理由の如何を問わず極刑に処すべきことを厳命した。この飛行士は何れも20才前後の青年であった。しかし、参謀本部の命令でことごとく死刑を宣告せられた。(8人中3人が処刑された)
この死刑といい終身刑と言い、捕虜取扱に関する「ハーグ、ジュネーブ条約」によればことごとく違反行為であって、国際正義に基く正当なる処刑ではなかった。
参謀本部が、国際条約を蹂躙して不当なる方針を決定したのは、次の二つの理由によるものだ。
- 極刑によって飛行隊将士に恐怖心を誘発して日本空襲を断念させる。
- 極刑により、飛行士の母親に反戦思想を抱かせて、米国内の和平運動を促進させる。
私は戦後、アメリカのある有力な人から、この飛行士処刑の報は逆に、アメリカの母親たちを憤激させ、アメリカ国民の日本に対する敵愾心を一層、高揚させたと聞いた。ロンドンタイムスはこの放送を聞いて、「われらはかつてかかる野蛮な国家と同盟の関係にあったことを恥じる」と言って痛烈に日本を批判した。
このドーリットル麾下の飛行士8名に対する処断は、不幸にして人道上許すべからざる悪例となった。われらは太平洋戦争の全期にわたり、各地の戦場で捕虜となった飛行士に対して行われた多くの残虐行為は、この飛行士8名に対する極刑に端を発したものである。
昭和十七年四月二十九日、市ヶ谷、陸軍省の大臣応接室でおいて恒例の局部長会報が開かれた。その主催者は総理大臣兼陸軍大臣の東条英機氏であった。この会報の席上で最も重要な議題となったのは、南方の戦場において生じた多数の捕虜を如何に取り扱うべきかという問題だった。フィリピンでのバターンの戦闘からマレイ、ジャバ、フィリピンの領有を目的とする太平洋戦争における第一期作戦を終了し、これがため十万ににものぼる捕虜が生まれた。
捕虜情報局長官兼管理部長・上村幹男中将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E6%9D%91%E5%B9%B9%E7%94%B7
は「捕虜の取り扱いはすでにハーグ及びジュネーブ条約において規定されているから、この条約に準拠して一切を処置すべきである」と主張した。
これに対し東条氏は「太平洋戦争は過去における日清、日露戦争とはその性質を異にする。この戦争は、亜細亜の解放戦争である、人種戦争である。故に白人捕虜の取り扱いは国際条約の規定に捉われることなく、次の原則に従って処断すべきである。
- アジアの諸民族に対し日本民族の優秀性を示すために、現地のみならず、満洲、中国、朝鮮、台湾などに収容所を設置すること。
- 戦争遂行上に必要なる労力の不足を補うため、働かざるものを食うべからずの原則に基き、下士官、将校も総てその有する特技に応じて労働に服せしむること」と主張した。
上村氏は「条約の無視は後日問題を惹起する恐がある」と一応は反対したが、東条氏は言下にこれを拒否した。
この年五月下旬に、香川県善通寺の収容所にグアム島の描虜、約三百名が到着した。東条氏は飛行機に塔乗してこの収容所を訪れた。そして、「捕虜は国際条約に準拠せず、日本独特の見地に立って取り扱うこととなった。故に働かざるもの食うべからずの鉄則に依って総ての捕虜に対し労働の義務を課する。もし怠慢の行為があれば厳重に処罰する」と訓示した。
東条氏のこの決定にも拘らず、ジャバを攻略した軍司令官今村均大将
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BB%8A%E6%9D%91%E5%9D%87
は、国際条約の命ずるままに捕虜を待遇した。五月第一線視察のためジャバに赴いた人事局長富永恭次中将は今村氏に処置を命令違反なりと痛罵した後、収容所に赴いて、捕虜の将官数名を欠礼のかどによって平手で殴打した。
ハーグ条約、
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8F%E3%83%BC%E3%82%B0%E9%99%B8%E6%88%A6%E6%9D%A1%E7%B4%84
ジュネーブ条約
http://www.mod.go.jp/j/presiding/treaty/geneva/geneva3.html
この東条氏が決定した方針は、太平洋戦争の全期間にわたり、内地においても外地においても、捕虜に対して人道を無視し国際条約を蹂躙する多くの残虐行為が行われる原因となった。
日清、日露、日独の戦争における日本での捕虜の待遇は国際条約を尊重し徹底して人道的であったために、全世界の賞賛を博した。旅順の陥落の直後行われた春風駘蕩たる乃木将軍とステッセル将軍の水師宮に於ける会見と、降伏せる将兵に帯剣を許し、武人としての名誉と面目とを認めた寛容と、捕虜に対し取られた正義と人道に基く待遇は「武士道の華」として今もなお世の語り草となっている。
私は山下奉文将軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E5%A5%89%E6%96%87
がシンガポールにおいてパーシバル将軍に対して無条件降伏を強要し、イエスかノーかと即答を求めたとき、武士道地に墜たりと嘆じた。本間雅晴将軍
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%AC%E9%96%93%E9%9B%85%E6%99%B4
がコレヒドル要塞においてウエンライト将軍に対し、我が要求を無条件に容れざる限り、一時間後に戦闘員たると婦女子たるとに論なく、砲爆撃を以てみな殺しにすると脅迫したときこの戦争は断じて勝てずと慨いた。
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