前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

★「本日は発売(2023年6月9日)「文芸春秋7月号」<100年の恋の物語のベストワンラブストーリーは・・>山本五十六提督の悲恋のラブレター』★『1941年12月8日、日米開戦、真珠湾攻撃の日、山本五十六が1日千秋の思いで待っていたのは愛人・河合千代子からのラブレターであった』

   

/日本リーダーパワー史(60)

真珠湾攻撃と山本五十六『提督の恋』

前坂 俊之(ジャーナリスト)

真珠湾攻撃後もせっせとラブレターを交換した提督の恋

 昭和十六年(一九四一)十二月八日の真珠湾攻撃。その直前、山本五十六連合艦隊司令長官は家族に密かに別れを告げるため、瀬戸内海・柱島の連合艦隊司令部から急遽上京した。

 

 

東京・青山南町の自宅で一夜をすごしたのは十二月三日である。妻の礼子は肋膜炎で床にふせていた。いつも食事は台所横の六畳の部屋だったが、この日は、山本が女中に命じて、お膳を礼子の病室に運ばせた。

 

 家族六人一緒の夕食では、山本は何もしゃべらず、黙々と箸を動かす子供たちをじっと見つめていた。オカシラつきの鯛には誰も手をつけなかった。長男の義正は父の部屋で目にした、墨で書かれた日米の現状についての書類と、この食事を重ね合わせて、日米戦争が切迫していることを強く感じて、その夜は眠れなかった。

 翌朝、義正は学校への出がけに、はじめて父の見送りを受けた。「行ってまいります」「行ってきなさい」義正は父の熱い視線と心を背中に強く感じた。義正にとってこれが生きている父を見た最後になった。(山本義正著『父・山本五十六』光文社昭和四十四年刊)

1941(昭和十六)年12月8日未明。真珠湾攻撃の成功に日本中がわきかえり、山本五十六連合艦隊司令長官は一躍、国民的英雄となった。山本長官のもとには、全国から手紙が殺到した。その中で、山本が一日千秋の思いで、待ちこがれていた一通の手紙があった。

愛人、河合千代子からのラブレターであった。

「方々から手紙が山のごとく来ますが、たったひとり千代子の手紙ばかりを朝夕恋しく待っております。写真はまだでしょうか。」(十二月二十八日付)

 国の運命をかけた作戦指揮の最中、山本の心に去来していたものは、千代子への熱い思いであった。山本はこの頃、五日とあけず、せっせと千代子へラブレターを書き送った。

千代子からも、「呉局気付、軍艦『長門』山本五十六様」と、折りかえし手紙が届いた。水兵たちも心得ていて、厚さ二〇センチにもなる手紙の一番上に、千代子のものをのせて持ってくる。

 「オウ、どうもありがとう」と山本はうれしそうに礼を言う。千代子の手紙がない日は、不機嫌だったという。山本は司令長官室で千代子の手紙の長さを、一生懸命に測っていたというから、何ともほほえましい。

 
  山本が初めて「梅龍」の芸名を持った新橋芸者・千代子を知ったのは、昭和八年夏である。
 

山本が初めて「梅龍」の芸名を持った新橋芸者・千代子を知ったのは、昭和八年夏である。

もともと、山本は新橋の花柳界ではモテモテで、両手の指が八本しかなかったことから、〝八十銭〃のアダ名で親しまれていた。山本の妻はよく気のつく山本とは、正反対の質実剛健な女性で、家庭的には冷え切っていた。

 

 一方、千代子はこの道に三十歳近くで入った、薄幸の女であった。似たもの同士で、愛情が深まったのである。昭和十二年に千代子は芸者から足を洗い、料亭の女将となった。東京芝神谷町に家を構え、山本に負担をかけまいと、ここを逢瀬の場にした。

 

 〝Ⅹデー〃(12月8日)を前に、山本は広島県呉市から上京、多忙な公務に追われながらも、寸暇をさいて千代子と銀プラを楽しんだ。ダンディな山本は、会う時はいつもバラの花を持っていた。別れの際、「この花ビラの散る頃を見て下さい」とナゾの言葉を残した。

 

六千代子が鏡台に大事に置いていたバラの花ビラが散った翌日、開戦の臨時ニュースを聞いた。連合艦隊は約半年の航海の末、昭和十七年五月十日、呉に帰港した。山本は千代子に会いたいとしきりに電話をかけてきた。この時、千代子は肋膜炎で生死の境をさまよっていた。

 

千代子は山本に一目会いたい、と看護婦が止めるのも聞かず、死を賭して列車に乗った。 山本は呉駅でメガネとマスクで人目をはばかりながら、歩けない千代子を背負って、人力車に乗せた。千代子はこの時の別れを、「あなたはずいぶん強い力で、私の手を握って下さいましたね。どこまでも、私の手を離さないでつれていって下さいませ」と日記に書いた。

 

 ミッドウェーへ向かった山本から、折りかえし手紙が届いた。「私は国家のため、最後の御奉公に精魂を傾けます。その上は、万事を放てきして、世の中から逃れてたった二人きりになりたいと思います。「うつし絵に 口づけをしつつ幾たびか 千代子と呼びてけふも暮しつ」 (五月二十七日付)

 

山本からの最後の手紙は昭和十八年四月二日付である。ガダルカナルを撤退しラバウルへ出発する直前に書かれたもので、遺髪が同封されていた。短歌も小さい紙に書かれていた。「おほろかに吾し 思はばかくばかり 妹が夢のみ毎夜見むい」

 

 四月十八日、山本は帰らぬ人となった。五十九歳。発表は一カ月以上伏せられ、六月五に国葬が行われた。山本から千代子へあてた手紙は、十年間に三〇センチ以上の高さになったが、国葬の前日、昭和十六年以降の分が海軍省へ没収された。

 

 その後、「全部焼却するように」との命令が下り、千代子は心に残る十九通だけを残して、あとは焼いた。別の軍人は千代子に「国葬の当日までに自決せよ!」と迫った。

 

 千代子は山本との愛を生きがいに耐え、戦後は沼津で料亭を経営。昭和二十九年四月十八日付「週刊朝日」が「山本元帥の愛人-軍神も人間だった」で二人のラブロマンスを報じるまでは、一般には全く知られなかった。

 まさしく〝提督の恋″であった。                                                                       

yamamoto22222 

 

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『大谷のドジャーズ移籍を祝い、デビユーした2018年4月4日の大谷フィーバーの記事を紹介する」★『Shohei Ohtani fever is really heating up in Angel Stadium』★『大谷が自己の可能性を信じて、高卒 即メジャーへの大望を表明し、今それを結果で即、示したことは日本の青年の活躍の舞台は日本の外、世界にこそあることを示唆した歴史的な事件である、、

    2018/04/04 記事再録 『F国際ビ …

no image
日本リーダーパワー史(452)「明治の国父・伊藤博文が明治維新を語る④」下関戦争の真相はこうだ。

    日本リーダーパワー史(452) …

『日本の運命を分けた<三国干渉>にどう対応したか、戦略的外交の研究講座⑨』★『ロシアの恫喝(どうかつ)外交に陸奥外相は<清国相手の外交は、底のない桶で水を汲むようなもの、清国の撤兵は信用できぬ>と拒否』★『陸軍参謀本部幕僚たちも震え上がったが川上次長が<断固やるのだ>と一喝!』

逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/11/11am700)   ロシ …

no image
日中韓150年三国志―尖閣問題のル―ツの研究>日清戦争はなぜ起きたか<日中誤解>
パーセプション・ギャップの研究

   <日中韓150年三国志―尖閣問題のル―ツの研究> 『日 …

no image
日本リーダーパワー史(51)名将・川上操六―陸軍のローマ法皇・山県有朋との死闘⑦

<クイズ『坂の上の雲』> 名将・川上操六―陸軍のローマ法皇・山県有朋との死闘⑦ …

no image
日本メルトダウン脱出法(604)「ルーブル暴落でロシア中銀に批判の嵐」英F・T紙)◎「NYT、ワシントン・ポストも 上から目線で日本叩き

       日本メルトダウン …

『リーダーシップの日本近現代史』(239)/★『三井物産初代社長、『千利休以来の大茶人』益田 孝(91歳)(下)『「鈍翁」となって、鋭く生きて早死により,鈍根で長生き』★『人間は歩くのが何よりよい。金のかからぬ一番の健康法』★『 一日に6キロは必ず歩く』★『長生きするには、ご馳走は敵』★『物事にあくでくせず、常に平静を保ち、何事にもニブイぐらいに心がけよ、つまりは鈍感に』

★ 2012/12/06  百歳学入門(59)記事 …

no image
「最後の木鐸記者」毎日新聞・池田龍夫氏(87)を偲ぶ会―晩年に病苦と闘いながら「新聞に警鐘を鳴らし続けた」不屈の記者魂をたたえる。

「最後の木鐸記者」毎日新聞・池田龍夫氏(87)を偲ぶ会―晩年に病苦と闘いながら「 …

no image
日本メルトダウン脱出法(883)『 コラム:次は意図的な「チェルノブイリ」発生か』●『コラム:気候変動が生む「世紀の投資機会」』●店内で栽培した「採れたて」野菜を売るスーパー』●『三菱自と東芝、名門企業を蝕んだ「日本病」の正体』●『錦織圭を育てたコーチが見た「天才という病」 なぜ有名選手が続々と不祥事を起こすのか』

 日本メルトダウン脱出法(883) コラム:次は意図的な「チェルノブイリ」発生か …

no image
日本風狂人伝⑪ 直木三十五-「芸術は短く、貧乏は長し」

日本風狂人伝⑪             2009,6、30   直木三 …