エピソードにみる明治のリーダーの面影 (下)
2015/01/02
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  03,8月
  前 坂 俊 之
  (静岡県立大学国際関係学部教授)
  7・西郷隆盛  大津事件の原因は、犯人が西郷生存説を信じていたこと
  ニコライ=帝政ロシア最後の皇帝。積極的な極東進出で日英と対立、目露戦争で敗
  れる。1905年の革命で国会開設を承認したのちも反動政治を続け、三月革命で退
  位、のち銃殺。
  1891年(明治二十四) 四月、ロシアの皇太子が来日することになった。ロシアのニ
  コライ皇太子はウラジオストックでのシベリア鉄道起工式出席の途中、約一ヵ月にわ
  たって日本を観光旅行する予定で、これは将来の日露戦争の敵前視察ではないか、
  との疑惑、憶測が乱れ飛んだ。
  この時、西郷隆盛が西南戦争に敗れ自決してすでに十四年が経っていたが、「西郷
  はニコライ皇太子と一緒に軍艦でロシアから帰国する」とのまことしやかなウワサが
  流れ、西郷生存説がにわかに信憑性を帯びてきた。
  新聞も競ってこのウワサを伝えた。『西郷どん、露国艦で帰国?』 (「東京朝日」4
  月1日付) 「明治天皇が、それが事実なら西南戦争の論功行賞をとりけさねばなるま
  い」と冗談をいったという記事(「朝野新聞」4月7日付) まで出た。
  ニコライ皇太子一行の軍艦七隻は四月二十七日、長崎に入港した。
  こうした報道に刺激され西郷の生還を信じこんだ巡査がいた。滋賀県守山署三上村
  駐在所勤務の津田三蔵巡査である。
  津田は西南戦争に下士官として従軍し、左手を銃撃されて負傷し、戦争後に勲七等
  2
  に叙せられた。津田はこの勲章が唯一の自慢で、37歳のこの時まで平巡査で我慢し
  てきたのもこの誇りからであった。
  もし西郷が帰ってきたならば、この名誉ある勲章を取り上げられてしまうのか。津田
  は危機感を持ち、その敵意、殺意がロシア皇太子へ向けられた。津田は駐在所勤務
  から皇太子の警護のために大津市内に派遣されることになった。
  ロシア皇太子一行は5月9日に京都に到着、11日に琵琶湖に行き、午後京都に戻
  ってくる時に、大敵市内で事件は起きた。
  津田はいつも胸に下げていた名誉の勲章をはずし、サーベルでちょうど前を通過し
  た人力車のニコライ皇太子に斬りつけて、頭部に重傷を負わせた。
  明治を震撼させた大津事件はこうして起こった。ヒョウタンからコマではないが、西
  郷の亡霊が明治政府に復讐したともいえる。ウワサが一世の大事件を引き起し、国
  の運命を震撼させたのである。
  8・山本権兵衛が東郷平八郎を連合艦隊司令長官に抜擢したわけ
  山本権兵衛=嘉永五年(1852)生、昭和八年(1933)没。第二次山県内閣の海
  相。以後、薩摩閥の実力者として重きをなす。1913年と関東大震災直後の二度組
  閣するが、ジーメンス事件・虎ノ門事件により、いずれも総辞職。
  陸軍の建設者が山県有朋なら、海軍は山本権兵衛である。西郷従道の海軍大臣時
  代に、山本はその部下で大臣官房主事、海軍省主事を勤めていたが、実質的には山
  本がとり仕切っていた。
  西郷海相は閣議や議会での答弁はいつも山本にまかせており、世間では「山本権
  兵衛海相」と呼んでいた。
  日清戦争当時、西郷が海相だったが、山本が海軍面では戦争指揮をしていた。日清
  戦争以後は日露戦争に備えるため大建艦計画を勧めた。
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  1896年(明治二十九)から十カ年計画で日清戦争の戦費に匹敵する二億円の巨費
  を投じて、戦艦四、巡洋艦十一、駆逐艦十二、水雷艇五十三隻を急ピッチに建造し
  た。
  「六・六艦隊」の建設である。これでロシアのパルチック艦隊と決戦するつもりだった
  が、何とか間に合った。
  日露戦争の開戦四ヵ月前に連合艦隊司令長官には予想をくつがえして、当時の常
  備艦隊司令長官の日高壮之丞ではなく、退役寸前で注目されなかった舞鶴鎮守府長
  官の東郷平八郎を抜擢した。
  この人事には誰もが驚いたが、明治天皇からの御下問に対して、山本は抜擢の理
  由について「東郷は運の強い男ですから」と答えた。
  司令長官に格下げされた日高中将はカンカンに怒って、刺し違える覚悟で短剣をもっ
  て山本海軍大臣の官舎を訪れた。
  「貴様は我が輩を侮辱するのか、なぜわしをさしおいて後輩の東郷を連合艦隊司令
  長官にしたのか。理由によっては貴様を刺し殺す」と息巻いた。
  山本は落ちついて
  「日清戦争でも貴公は数多くの武勲をたてたが、海軍軍令部の命令を無視する行動
  が多かった。こんどの戦争はそうはいかぬ。軍令部と緊密一体となった作戦行動には
  東郷が一番じゃ。これまでの東郷のやり方を見るとわかるじゃろう」
  と東郷の長所を諄諄と挙げた。日高は納得して引き下がった。
  9・百年に一度の戦略家・児玉源太郎は情報戦の重要性を知っていた!
  児玉源太郎=嘉永五年(1852)生、明治三十九年(1906)没。徳山藩出身。陸軍
  大将。陸軍大学校長・台湾総督・陸相を経て、日露戦争の満州軍総参謀長。のち参
  謀総長となる。
  台湾総督、陸軍大臣、内務大臣などを歴任した児玉源太郎は「百年に一度の戦略
  家」「天才参謀」といわれた。
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  日露戦争はロシアが勝利すると世界の軍事専門家の大半が予想する中で、ただ一
  人、日本の陸軍を指導し児玉を教えたドイツ陸軍のメッケルは、「児玉がいる限り、日
  本が勝つ」 と予言した。
  日露戦争が迫りくると、児玉は自ら二階級降格して参謀次長となって、その全戦略
  を立案し、戦端が開始されると、大山巌が現地軍の総司令官、その下で総参謀長に
  なり日露戦争を指揮した。
  児玉は「来るべき日露戦争は情報戦である」との認識を持っていた。
  自ら責任者となって国際通信網の確保に取り組み、海底ケーブル布設船「沖縄丸」を
  英国に発注、九州南端の大隅半島-沖縄―石垣島―台湾と総延長1800キロの長
  距離海底ケーブルを三十年五月まで、にいち早く完成させた。
  明治36年には佐世保-東京間に当時、世界で2番目に長い直通電話回線を特急
  で開通させ、「沖縄丸」は児玉によって秘かに準備されていた海底ケーブル500海里
  分を佐世保から朝鮮半島まで布設した。
  台湾、北方領土から朝鮮まで無線装置と電話、電信の情報システムを構築したので
  ある。
  外国の支援をまったく受けずにケーブルを布設し、マルコーニの実験からわずか一
  年後に、電信機の製造開発をやり遂げたのには各国が驚嘆した。
  「バルチック艦隊来る‥」「いよいよ日本海決戦!」の直前になってやっと対馬、日本
  海周辺に海底ケーブルがはり巡らされ、幾重にも無線望楼、無線電信機が設置され
  た。
  艦船群にも無線機をつんで世界で初めての海戦となった。
  明治37年5月27日午前2時45分、「信濃丸」が「敵艦見ユ」と打電し、旗艦「三笠」、
  軍令部にはわずか20分後に着電し、大勝利になった。
  的確な情報把握、スピーディな通信、そのための海底ケーブル、無線などの最新技
  術が日露戦争勝利の大きな要因であったが、児玉の情報戦略によって生み出された
  ものであった。
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  10・田中正造  天皇への直訴文は社会主義者の幸徳秋水が書いた
  田中正造=天保十二年(1841)生、大正二年(1913)没。栃木県生まれ。自由民権
  運動に参加。第一回総選挙で衆議院議員に当選。以後、国会で足尾銅山鉱毒問題
  に取り組み、のち議院を辞職して明治天皇に直訴。
  田中正造は「明治の義人」「公害問題追及の先駆者」であると同時に、「中江兆民ら
  と並ぶ明治の三奇人」の一人といわれた。
  足尾鉱毒事件で被害民の救済に生涯をかけた田中は国会議員となって毎回のよう
  に議会で「窮民を救え」と叫び、政府の無策と古河財閥を糾弾し続けた。
  「政府は人民に戦を起こせというのか」
  と迫り、古河市兵衛が勲章をもらった時は
  「鉱毒で何の罪もない人が毒のために殺され、その救済を訴えると、凶徒として牢屋
  にほうり込まれる。その一方で加害者の悪人は宮中に出入りして、勲章をもらってい
  る」
  と激しく非難して、だんだん感情が高ぶってきた田中は古河を「この国賊、大歳 ドロ
  ボウ野郎」と大声で叫んで、議会は大混乱に陥った。
  議会に絶望した田中は明治三十四年(1901)十月に代議士を辞して、十二月十日
  の帝国議会開院式に臨んだ明治天皇に対して、鉱毒事件の解決を直訴して、一躍全
  国的な問題となった。
  この直訴の文章は幸徳秋水が書いたものだが、秋水は当初、天皇に人民の疾苦を
  直訴するなど、社会主義者のやることではないと協力を断った。
  度重なる田中の懇願、熱誠に動かされて、ついに起草したが、「十年前の肥田沃土
  は今や、満目惨澹の荒野となれり…‥」と秋水が書いたのに対して「それは事実と違
  う。そうでない場所もあるので虚偽の事実を奏上するわけにはいかない」と田中は反
  対し、訂正を求めた。
  「それでは直訴の文章になりませんよ」と幸徳は困ってしまったが、田中の正直一徹
  な性格が現れていた。
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  田中はかつ夫人と結婚して30年ほど経っていたが、実質的には3年ほどしか共に
  家庭生活がなかったほど鉱毒問題一筋に打ち込んでいた。
  ある時、夫人の名前をすっかり忘れてしまった、というほどの「野に叫ぶ義人」であっ
  た。
  11・山県有朋 10歳ごとに名園をつくったガーデニアンだった
  山県有朋=天保九年(1841)生、大正十一年(1922)没。長州藩出身。維新後ヨー
  ロッパの兵制を視察、徴兵制の制定にあたり、陸軍の創設に活躍した。初代参謀本
  部長。のち陸相・内相を歴任。2度組閣した。
  東京目白の「椿山荘」は名園として知られているが、これが山県有朋の別荘だった
  ことは案外知られていない。
  山県は81歳で亡くなったが、その墓碑に「枢密院議長元帥陸軍大将従一位大勲位
  功一級公爵」と麗々しく刻まれているように、明治での最高の出世男であった。
  「一介の武弁」が口癖で、たえずそう口にしながら、陸軍を一手におさえて伊藤博文と
  並んで明治の政治を2分して、影で政治をあやつった。
  その山県の唯一の趣味が庭作りで、造園には高い見識を示した。
  三十歳の時、故郷の長州・吉田村に最初の別荘「無隣庵」を作ったが、これ以来病
  みつきになり四十、五十歳という各年代の節目ごとに別荘を作ってみたいという夢を
  持った。
  不惑の歳、東京目白に「椿山荘」を作った。
  政敵・大隈重信の早稲田をちょうど眼下に見おろし、富士山、宮城の森や筑波山など
  を遠くに望む約1万8000坪という広大な敷地に、見事な庭園と家屋を建てた。山県
  は晩年までここを本邸としていた。
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  五十歳で大磯に「小淘庵」、五十四歳では京都の鴨川に「第二無隣庵」、五十九歳
  で京都南禅寺に「第三無隣庵」を作るなど、別荘熱はますます嵩じた。
  とくに、「第三無隣庵」では、太閤秀吉が余りにも大きくてあきらめたという京都醍醐
  の山中の巨石を牛24頭を使って運び出した。
  この巨石を東山の松林をバックにおいて、疎水からも水を引いて庭に自然の流水を
  作った。
  「京都に数々の名園があれども、京都御所に次ぐものだ」と山県はこの庭を自慢し晩
  年まで愛した。
  六十五歳で東京小石川に「新々亭」、七十歳で小田原に「古稀庵」。この時、山県が
  病の床の中から設計図を示して、兵の配置、陣地を指揮するように庭師や作業員を
  陣頭指揮して作らせた。
  さらに七十六歳で小田原に「皆春荘」、八十歳で東京麹町に「新椿山荘」と生涯九つ
  もの庭園と別荘を作ったガーデニアンの記録保持者であった。
  12・原敬  「腹を切れ」を「原を斬れ」と勘違いした刺客に殺された。
  原敬=安政三年(1856)生、大正十年(1921)没。新聞記者・外交官を経て大阪毎
  日新聞社社長。立案政友会創立に参加。のち政友会総裁。最初の政党内閣を組織
  するが、強硬政策が反発をかい、暗殺された。
  「平民宰相」として知られる原敬はもともと高い家柄の出身だった。
  祖父は南部藩の家老職、父は藩の重役で学者、原も美男子で秀才だったので、養子
  縁組の話はたくさんあったが、二十歳の時に分家独立したため、平民の身分になっ
  た。
  原は見事な白髪で「白頭首相」とも呼ばれたが、少年時代に縁側から転落してでき
  た白髪が三十歳ごろから広がり始めて、四十歳になると頭はすっかり白髪になってし
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  まった。
  その原敬首相は1921年(大正十)12月4日、東京駅で暗殺された。犯人は十九歳
  の中岡艮一で、暗殺の動機は日頃の政治的な鬱慣、社会への憤懣が原首相に向け
  られたものだが、犯行の引き金となったのは言葉の勘違いであった。
  上司が「腹を切れ」といったのを「原を斬れ」と誤解して、犯行に及んだものであったと
  指摘されている。
  当時、中岡は大塚駅の踏み切りの転轍手をしており、上司の同駅助役の橋本栄五
  郎(当時35歳)とはウマが合い、中岡は政治談義をいつも橋本にふっかけては鬱憤
  をぶつけていた。
  事件の約二ヵ月前の9月28日に安田財閥の創始者・安田善次郎が朝日平吾によっ
  て刺殺された。中岡は朝日の行為にひどく感激した。
  犯行の約一ヵ月前、橋本と中岡は政治の話になり、橋本が「今の日本には武士道
  精神が失われた。昔から腹を切るといって、腹を切った例はない」といえば、中岡は
  「私は原を斬ってみせます」と言明した。
  この時、橋本が中岡に示した侮蔑的、冷笑的態度が犯行に駆り立てた決定的な引き
  金となった、として、検事局は予審決定し、橋本は殺人教唆の共犯とされた。
  大正十一年六月の東京地裁の判決では中岡に無期懲役(求刑死刑)が下ったのに
  対して、橋本は無罪(求刑懲役12年)となった。
  「腹か原か、ハラの聞き違い」という飛んでもない勘違いが大事件を引き起し、歴史を
  変えたケースであった。
  <以上は別冊歴史読本『教科書が教えない歴史人物の常識疑問』(2000年12月
  号)に掲載されたものです>
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