藤田嗣治とパリの女たちー「最初の結婚は美術教師・鴇田登美子と、「モンパルナスの大姉御」といわれたフェルナンド・バレーと二度目の結婚、3度目は「ユキ」と名づけた美しく繊細な21歳のリュシー・バドゥと』★『夜は『エ・コールド・パリ』の仲間たちと乱ちきパーティーで「フーフー(お調子者)」といわれたほど奇行乱行をしながら、昼間は、毎日十四時間以上もキャンバスと格闘していた』いた。
2019/07/02
2008年3月15日
藤田嗣治とパリの女たち
前坂 俊之(評論家)
1886(明治19)年11月,藤田嗣治は東京で陸軍軍医の父・嗣章,母・まさの4人兄弟(姉2人、兄)の末っ子で生まれた。
嗣章は森鴎外の後に陸軍軍医総監になった。5歳のとき、母は病死し、嗣治は長姉・きくのもとで育てられた。自然と女の子と遊び、母親代わりの姉に添い寝して育った。
この母親喪失と母親慕情の生い立ちが、その後、異邦人となり、自らを強い愛情で包んでくれる女性をもとめて生涯、女性遍歴を繰り返す原点となったのであろう。
画家志望に理解を持った父は嗣治のフランス留学を鴎外に相談したが、「日本画壇には様々な事情があるので、まず東京美術学校〔東京芸大〕を出てから渡仏したほうがよい」との忠告で、同校西洋画科に進学する。
1910(明治43)年に卒業したが,卒業制作は黒田清輝教授から酷評された。
その後、美術教師・鴇田登美子と結婚するが、1年余りで破綻して妻を残し、1913年(大正年)、単身パリに渡りモンパルナスの安アパートに移り住んだ。仕送りが途絶え、3日間何も食べるものがなく水だけ飲んで1日1フランで暮らすというどん底生活の修行時代を耐え忍んだ。
バレーは全く売れない無名の藤田の絵を一軒一軒画商を回って熱心に売り込んでは生活費を稼いだ。
最初に売れた絵はわずか7フランしかならなかった。
夜は『エ・コールド・パリ』の仲間たちとの乱ちきパーティーで「フーフー(お調子者)」といわれたほど奇行乱行をしながら、昼間は、毎日十四時間以上もキャンバスと格闘して「フジタにはお茶とクロワッサンを用意したら、あとは何もすることがない。絵を女房としているのよ」とバレーを嘆かせたほど新しい画法の研究、製作に没頭していた。
苦節7年。
一九二〇年(大正9)には「モンパルナスの女王キキ」をモデルにした大作「寝室の裸婦キキ」を完成する。
「裸のマヤ」のような構図で、日本画のような乳白色の地色に黒い輪郭線を引き、その中から夢幻の裸像を浮かび上がる傑作。
「乳白色の肌」「すばらしい白地」と絶賛され8千フランで売れ、一躍、「パリ画壇の寵児」にのし上がる。あとは『エ・コールド・パリ』の巨匠への階段を駆け上り、『レジオン・ドヌール勲章』「レオポルド勲章」と次々に栄誉に輝くが、その栄光の影にはいつも新しい女性が付きまとった。
バレーやキキにも細やかな愛情を示すなど藤田は女性に優しい男であった。
そんなやさしさに魅かれて、藤田のアトリエに美しいモデルや画家が多数集まり、自由奔放な恋愛が生まれ、それがまた藤田の創造の源泉となったのである。
24年(同13)、妻のバレーは藤田の所に出入りしていた日本人画家と不倫して、藤田は離婚して、すぐ、次の藤田が「ユキ」と名づけた美しく繊細で、男勝りのたくましいバレーとは正反対の21歳のリュシー・バドゥと再婚した。離婚再婚を繰り返す藤田の女性ゴシップに日本の美術界は一層白い目を向けた。
昭和4年、藤田は16年ぶりにこのユキを伴って帰国して、個展を開いたが、約6万人が押しかける超人気ぶり。この帰国途中の立ち寄ったニューヨークで「女と猫を描くのはどんな関係ですか」の米記者の質問に対して、「女はまったく猫と同じ。可愛がればおとなしくしているが、そうでなければ引っかいたりする。女にヒゲとシッポをつければ、そのまま猫になるじやないですか」とジョーク交じりに答えて話題となった。
しかし、この『ユキ』という女性も酒癖が悪く、自由奔放な性格で再び不倫を起こして離婚してしまう。
1931(昭和6)年にはマドレーヌという新しい愛人を連れて個展開催のため南北アメリカへに向かったブエノスアイレスでは個展会場で、何と1万人がサインのために行列してニュースとなった。藤田の女性遍歴は生涯連れ添った君代夫人と結婚するまで続く。
ところで、藤田の女性への優しさを示すエピソードは数多くある。戦後パリに戻った藤田夫妻のもとに前夫人バレーやユキは連れだって度々訪れてきては無心したが、腹を立てた君代夫人をなだめながら藤田はかつての女性たちを精一杯もてなしていた、という。
バレーは最晩年になっても藤田とのかつての交情をしのんで、日本人を見つけると藤田の思い出話をしながら、多分、藤田から教わったのであろう「妻を娶(めと)らば才長けて・・」の歌を日本語で歌い涙していた、と河盛好蔵は書いている。
(禁転載)
関連記事
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ウオッチ㊻』余りにスローモーで、真実にたいする不誠実な態度こそ「死に至る日本病」
『F国際ビジネスマンのワールド・ウオッチ㊻』 …
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(54)記事再録/「世界が尊敬した日本人―「司法の正義と人権擁護、冤罪と誤判事件の弁護に 生涯をかけた<史上最高の>正木ひろし弁護士をしのんで』★『「日本は戦前も、戦後もー貫して暗黒なんだね。国民は一度もルネッサンス(人間解放)を経験していない。僕はこの暗黒の社会を照らす〝残置灯″を自負しているのだ。将来の日本人の一つのモデルになればと思っている。いわば僕自身の人生が実験だね」』
2013-11-11 <月刊「公評」(2013年11月号)に掲載> 前 …
-
-
『F国際ビジネスマンのワールド・ウオッチ(72)』「競争力の源泉は若者のアドベンチャー精神だが、 東大生の保守的現状は」
『F国際ビジネスマンのワールド …
-
-
『地球環境大異変の時代へ②』ー「ホットハウス・アース」(温室と化した地球)★『海面がそびえ立つほど上昇する地球の気温の上昇がギリギリの臨界点(地球上の森林、海、地面が吸収するCO2吸収のフィードバックプロセス)を超えてしまうまで、あとわずかしかない』
「ホットハウス・アース」の未来 世界の気候科学者は現 …
-
-
『Z世代のための最強の日本リーダーシップ研究講座(42)』★『金子サムライ外交官は刀を持たず『舌先3寸のスピーチ、リベート決戦」に単身、米国に乗り込んだ』
『金子サムライ外交官は『スピーチ、リベート決戦」に単身、渡米す。 …
-
-
『Z世代のための百歳女性学入門⑥」★『天女・最後の長岡瞽女(ごぜ、105歳)の応援メッセージ』★『百歳名言ーすべては神様、仏様のお導き、すべてを受け入れ許すことで、自分も救われる』
105歳 (小林ハル1900年1月24日~2005年4月25日、105歳) 最後 …
-
-
記事再録/知的巨人たちの百歳学(120)ー戦国時代の医者で日本長寿学の先駆者・曲直瀬道三(86歳)の長寿養生俳句5訓」★『日本人の健康長寿の古典的な実践をおこない、貝原益軒よりも先駆的な業績であろう。』
2013年6月20日/百歳学入門(76) 日本長寿学の先駆者・曲直瀬 …
-
-
日本リーダーパワー史(793)ー 「日清、日露戦争に勝利」 した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、 インテリジェンス』⑪『ロシアのクロパトキン陸相が敵前視察に来日』『ク大将は陸軍士官学校視察で障害物突破競争の優勝者に自分の時計を褒美であげた』●『パーティーでは黒鳩金大将と日本の将軍の視線がぶつかり火花が散り、日本の将軍はさらに恐ろしい目つきでにらみ返して一触速発に』
日本リーダーパワー史(793)ー 「日清、日露戦争に勝利」 した明治人のリ …
-
-
速報(356)『日本のメルトダウン』日中ディープ動画座談会『元中国特派員,研究者が尖閣問題と日中関係を語る①
速報(356)『日本のメルトダウン』 日中ディープニュース動画座談 …
-
-
速報(82)『日本のメルトダウン』●『<循環注水冷却>はうまくいかないー2策、3策に英知を結集し、国家対策で取り組め』
速報(82)『日本のメルトダウン』 ●『<循環注水冷却>はうまくいかないー2策、 …
