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『1950(昭和25)年とはどんな時代だったのか』ー朝鮮戦争勃発と特需による経済復興へ-

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                                    2007,11,01 
1950(昭和25)年とはどんな時代だったのか
   
ー朝鮮戦争勃発と特需による経済復興へ-
前坂俊之(静岡県立大学国際関係学部教授)
 
① 朝鮮戦争勃発
 
1949年10月1日、中華人民共和国が誕生、アジアにおけるアメリカの橋頭堡は韓国だけとなっていたが、その韓国でも50年5月の総選挙で李承晩大統領の与党が敗北して、南北統一の機運が急速に高まっていた。6月中旬、ジョンソン米国防長官、ブラッドレー米統合参謀本部議長が来日、緊迫化する朝鮮半島情勢についてマッカーサーと会談、その足で38度線を視察した。その矢先の六月二十五日早朝、朝鮮戦争が勃発した。
この戦争は北からの南進か、南からの北進かをめぐって長年論争が続いたていたが、萩原遼『朝鮮戦争―金日成とマッカーサーの陰謀』(文芸春秋、1993年刊)で、北の南進説が裏付けられた。北緯38度線で対峙していた朝鮮人民軍(北朝鮮軍)と韓国軍が衝突、朝鮮人民軍が三十八度線を越えて全面的な南進攻撃を開始した。
「南の軍隊が攻撃してきたので撃退し、祖国解放戦争へと進んだ」と金日成(キム・イルソン)は放送した。前年末、金日成はソ連のスターリンに武力統一計画を説明し承認を得ていた。中国の毛沢東も金日成から南進の意図を聞かされ、「祖国解放戦争ならば」と反対しなかった。朝鮮戦争はあくまでも「統一のための内戦」としてみなしていた。ソ連製戦車二五八台を擁し、圧倒的な兵力の優位で不意打ちで南を攻めた朝鮮人民軍は、3日後には首都ソウルを制圧した。韓国軍は敗走し、李承晩大統領は大臣たちを置いたまま脱出した。
 朝鮮戦争勃発の報に、アメリカはすぐ戦闘体制に入った。国務長官アチソンは、休養中のトルーマン大統領に直ちに連絡をとり、国連安保理事会を緊急招集するため、リー国連事務総長に使者を送った。二十五日午後(アメリカ時間)に国連安全保障理事会がソ連代表不在のまま開催、アメリカと安保理事会は北朝鮮の行動を「平和の破壊者」と非難決議し、戦闘の停止と三十八度線以北への撤退を要求した。
トルーマンは首脳会議を開き、三十八度線以南でアメリカ海空軍を使用し、武器弾薬を韓国軍に供与し、台湾を防衛するために第七艦隊を派遣するなどを決定し、二十七日に海空軍に出撃命令を下した。また、安保理事会では米提案に沿い、国連加盟国に武力攻撃撃退と韓国援助を勧告する決議案を採択、さらに国連軍の創設と韓国派遣を決定、マッカーサーを総司令官に任命した。国連軍には十七カ国が名をつらねたが、その90%が米軍で、主力は米・韓国軍だった。
隣国朝鮮半島の危機に、日本は政府・民自党はもとより、社会党や総評までもが北朝鮮軍を侵略者として非難し、国連軍を支持した。米軍の要請を受けて海上保安庁の掃海艇四十六隻を二ヶ月にわたって出動させ、軍需品の輸送に多くの日本人が雇われ従事した。事実上、日本は米軍の出動基地・兵站基地と化した。その結果、戦争終結までに日本人の死者は五十六名、負傷者は三百四十九名にのぼった。
戦況は不意打ちだったため国連軍、韓国軍は敗北と撤退を繰り返した。最初の70日間は朝鮮人民軍の優勢が続いた。6月28日にはソウルも陥落し、八月には朝鮮半島南東端の大邱(テグ)・釜山(プサン)地区を残して全土が北朝鮮軍の支配下に入った。しかし、北朝鮮軍も補給線が延びきってしまい、最後の防衛線を抜けずに形勢は逆転する。九月16日、マッカーサーが大規模な仁川(インチョン)奇襲上陸作戦を敢行し、ソウル奪回に成功した。十月三日、勢いに乗じた国連軍は三十八度線を越えて北進、10月19日、平壌(ピョンヤン)が陥落し、北朝鮮の広い地域が開放され、米韓軍は鴨緑江(ヤールー川)に近づいた。金日成はもはや中国、ソ連に頼るしかなかった。
国連軍が中国・朝鮮国境に迫ると、毛沢東は十月二十五日、彭徳懐(ほうとくかい)が率いる人民義勇軍を参戦させ、国連軍に壊滅的な打撃を与え、12月4日平壌も奪還した。国連軍は再び敗走し、韓国側に退却し、翌五一年一月四日、ソウルは北朝鮮・中国連合軍の手に落ちた。第5回国連総会は2月1日、中国を侵略者と非難決議した。国連軍も反撃に転じ、三月十四日にソウルを再び奪回、三十八度線まで押し戻したところで戦局は膠着状態に入った。中国の参戦、勝利が見えない戦局に業を煮やしたマッカーサーは、中国本土への爆撃と原爆の使用をトルーマン大統領に打診する。だが、トルーマンは慎重だった。すでに数万人の死傷者を出し、平和を望む声が世界中で一段と高まっている。中国本土への攻撃は第三次世界大戦にもなりかねない。トルーマンはマッカーサーの作戦にストップをかけた。しかし、マッカーサーも引かず、中国に降伏要求の声明を出す一方、中国東北地区やソ連領への爆撃準備を独断で進めた。このため、トルーマンは4月11日マッカーサーを国連軍最高司令官から解任、後任にリッジウェイを任命した。
マッカーサーを罷免したトルーマンは、戦争終結への道を模索する。ソ連のマリク外相に三十八度線での停戦を呼びかけ、これに応えてマリクも朝鮮戦争の和平を全世界に向かって訴えた。六月三十日、リッジウェイ国連軍最高司令官は金日成に休戦会談を提案、七月十日、板門店で休戦会談が開かれた。しかし、その後も戦闘は小規模ながら依然として続けられ、ようやく休戦調停調印にこぎつけたのは一九五三(昭和28)年七月二十七日のことである。朝鮮戦争での死者は膨大な数に上り、韓国軍二十四万、米軍五万、国連軍三千。一方の北朝鮮軍と中国の人民義勇軍は合わせて百五十万。民間人の死者は韓国民間人106万余、南北合わせて約三百万といわれ、毛沢東の長男もこの戦いで亡くなったといわれる。朝鮮戦争の勃発と同時に、日本国内でも臨戦体制がしかれ、共産党幹部の公職追放、警察予備隊の設置、軍事基地の強化、米軍の前線基地、兵站基地の役割を担わされた。朝鮮戦争によって、日本は西側陣営に属することが決定的になり、講和独立の早期成立をいっそう早めた。
 
② 荒れ狂う〝赤狩り旋風〟レッドパージと追放解除
 
 戦争勃発前から、アメリカは共産主義との対決姿勢を一段と鮮明にしていた。五月三日の憲法記念日にマッカーサーは演説で共産党の非合法化の近いことを示唆、六月六日、マッカーサーは「法と秩序無視の煽動をしている」として、書簡で吉田内閣に共産党の徳田球一・野坂参三ら全中央委員二十四人の公職追放を指令した。
翌七日には共産党機関紙「アカハタ」の編集幹部十七人にも公職追放の指示を出した。追放された幹部は逮捕を逃れて地下に潜伏、指導部を失った共産党は壊滅的な打撃を受けた。さらに戦争3週間後には七月十八日、GHQは吉田内閣に共産党機関紙「アカハタ」と、その後継紙の無期限停刊を指示、次いで日本新聞協会にもレッド・パージを勧告した。
「右の者、共産主義者ならびに同調者につき、放送会館への立ち入りを禁止する」。これは七月二十八日、NHKの玄関に貼り出されたビラで、一〇四人の職員の名前が書かれていた。米軍のMP(憲兵)がきて、右の者を連れ出した。八月下旬までにNHKで一一九人が解雇され、朝日新聞社は一〇四人など新聞・放送五十社で計七〇四人(全従業員の2%)が追放された。映画界でも合計一〇九名が追放され、五所平之助・今井正・亀井文夫・山本薩夫といった監督、俳優も仕事ができなくなった。
パージはこれだけでは済まず、官公庁や一般企業にまで及び、十一月末までに約一万二千人にも達した。
政府はGHQの指示で、反共組合の育成にも乗り出し、七月十一日には総同盟・国労・日教組など十七組合約三六五万人(組織労働者の過半数)を集めて総評(日本労働組合総評議会)を結成させた。ただし、総評は反共ではあっても御用組合とはならず、翌年三月の第二回大会では全面講和・中立堅持・軍事基地提供反対・再軍備反対の「平和四原則」を掲げる左派が主導権を握った。
そのさなかの九月二十七日、朝日新聞に『世紀の虚報』が載った。レッド・パージで追放され、地下に潜伏した共産党の大幹部・伊藤律と神戸六甲山中で単独取材に成功したという大スクープだが、完全な捏造記事であることが発覚し、九月三十日、朝日新聞は3日後に全文取り消しの社告を掲載、神戸支局の記者ら関係者を処分した。
一方、レッドパージと同時に戦争中の指導者たちが追放を解除され、社会の表舞台に現れるようになる。十月十四日、軍国主義者として公職追放されていた一万人余りが追放解除され、十一月八日には、A級戦犯として重労働七年の刑に処せられていた重光葵(元外相)が、巣鴨刑務所から出獄した。
 
③ 警察予備隊の発足と対日講和
 戦争勃発2週間後の七月八日、マッカーサーは日本政府に警察予備隊(七万五千人の兵力)の創設と、海上保安庁の八千人増員(それまでは一万人)を指令した。朝鮮戦争の兵力不足を補う措置であった。敗戦後わずか5年で日本は戦争放棄、軍備放棄から再軍備へと急展開する。これまで日本政府は警察力増強の要請をしたことはなかったが、警察予備隊はその後、サンフランシスコ講和後に設置された保安庁の下で保安隊になり、さらに陸上自衛隊に発展。海上保安庁増員も海上警備隊を経て海上自衛隊へと衣替えすることになる。
 予備隊は名称からも分かるように、あくまでも米軍予備隊であった。在日米軍四個師団の朝鮮投入の穴埋めで、予備隊の運営を握るものはGHQ民事局長・シェパード少将を団長とする軍事顧問団であった。そのため警察予備隊の隊員は、朝鮮戦争に出動して留守になったアメリカ軍基地に送り込まれ、アメリカ軍の兵営をそのまま使用し、訓練もアメリカ軍が行うにわか作りの予備隊であった。
第一回の警察予備隊募集には、約三十八万名もの応募者が殺到した。その理由は衣食住つきの給料の良さ。当時、警視庁巡査の初任給が三九九一円なのに予備隊の月給は五千円(後に四千五百円に減額)
しかも二年間の在隊者には六万円が支払われた。さらに専門学校卒、大学卒を集め、試験によって幹部将校を選抜されたが、旧軍人は一人も含まれず、外地からの引揚者や農家の次男や三男などで占められた。
 
④ ドッジライン不況と朝鮮特需で特需景気時代、経済復興へ
 
 五十年一月七日、千円札が初めて登場した。戦後、ハイパーインフレが進み、百円札では取引が処理しきれず、紙幣の山に悲鳴をあげる金融機関が続出したためで、千円札のデザインは表が聖徳太子、裏が法隆寺の夢殿だった。
ドッジライン効果でインフレはようやく収まり始めたが、今度は深刻な金づまりを生み、国内需要、輸出とも停滞し中小企業がバタバタ倒産した。また、主食はなおも統制が続き、しかも公定価格が低く抑えられ、肥料、農業資材も値上がりし農民は苦境に追い込まれていた。こうした折、池田勇人蔵相が12月7日の国会答弁で「貧乏人は麦を食え」と発言、物議をかもした。「所得の多い者は米本位、少ない者は麦本意で・・」といった内容だったが、生活苦にあえぐ多数の国民は差別的な発言としてきびしく批判した。さらに池田は「中小企業の五人や十人、自殺者が出ても仕方がない。国家財政を立て直すという基本政策のもとでは多少の犠牲はやむをえない」とも発言、やはり大きな問題となった。
ちなみにこの年の物価は白米(2等10キロ)445円、牛肉(中、100グラム)37円、食パン(1斤)23円、タバコ(ピース)50円、理髪料60円、巡査初任給3991円であった。
⑤  朝鮮特需がカミカゼに、経済復興へ
ドッジ・ライン不況で倒産企業が続出し、デフレスパイラルで長期停滞に縮小再生産にあえぐ日本経済を救ったのは朝鮮戦争だった。戦争勃発で世界各国は軍需の拡大に一斉に走り出し、輸出が急増した。日本は戦場にもっと近い工業国だったため、アメリカ軍による緊急物資調達のための特需などが大量に発注された。これがいわゆる朝鮮特需で、戦後経済復興の一大特効薬となったのである。
当初発注されたのは戦需品の麻袋や有刺鉄線などの緊急物資や車両の修理などだったが、次第にトラックや機関車、線路資材、ドラム缶、航空燃料タンクと、軍需物資の種類と量が増えていった。また、役務サービス(車両修理、基地整備、資材輸送など)も増えて、冬場には毛布・綿布・衣類なども加わり、週平均千四百万ドルの発注があった。
米軍の織維製品の大量買い占めが、糸へん (繊維もの)景気の引き金となった。繊維と金属は花形部門となり、日本のいたるところで人々は鉄屑やその他の金属を探し回った。「ガチャ万」という言葉は、織機を一回動かすと一万円になることから生まれた。綿糸の相場は戦後2カ月足らずで2倍半にハネ上がった。これは『朝鮮戦争が第3次世界大戦に発展するかも・・』との懸念で東南アジア諸国からの買いつけがふくらんだからで、値をいくらツリ上げても売れたという。金へん(鉄・金属)景気も八幡、富士をはじめ中小の鉄鋼メーカ―は大いにうるおした。「金ヘン景気」「糸ヘン景気」のにわか成金も多くあらわれた。産業界の25年下半期の業種別利益率は紡績3倍、化学繊維2、9倍、パルプ3,1倍、鉄鋼1,3倍、石油2倍、石炭0,5倍という空前のもので、『この好況は広く日本の各産業界にゆきわたり、“昨日の赤字企業が一夜にして高収益企業に転ず″というのが、動乱ブームの絶頂のころの実態であった』<昭和経済史>
特需額は一九五〇年七月から1年間で総額三億二八九二万ドルに達し、輸出総額も昭和24年は5億970万ドルが翌25年には8億2010万ドルと倍近くになり、国内滞貨はたちまち一掃され外貨保有高も24年末の2億ドルから26年待つには9億4200万ドルと4,5倍に急増した。
2年目は韓国復興のための需要(木材・セメント・肥料・繊維製品など)が増え、さらには講和条約発効直前の五二年三月、アメリカが日本の兵器生産を許可したため、迫撃砲などの完成兵器の需要も加わった。
さらに三年目には完成兵器や石炭、それに米軍基地建設のためのサービス需要も生じた。この間、投機の過ぎた繊維製品の価格が下がったり、景気の中だるみ、さらには反動不況に伴う倒産などもあったが、戦後最大といってもよい「特需景気」の一大活況が出現した。この結果として、日本の産業復興が加速されて、講和条約の締結を早めたのである。政府は日本の経済の自立をはかるため、日本輸出銀行、日本開発銀行を創設するなど金融面の整備に乗り出し、租税特別措置法などにより租税の減免をはかり、加工品に高く原料に低い関税率を設定するなど、重化学工業の育成にも努めた。これを足がかりに、日本経済は高度成長へジャンプする力をここで蓄えた。
⑥ カメラと『サントリーオールド』の発売
 
 日本人は世界一のカメラ好き、写真好きの国民だが、当時、庶民の憧れが二眼レフカメラだった。大卒の初任給が五千円にも満たないこの時代、カメラは外国製で数十万円、国産でも数万円もして、まさに高嶺の花だった。そんななか、理研工学工業(現・リコー)が超破格のなんと七三〇〇円という「リコーフレックス」を発売して、ヒットした。これで庶民にも手が届くようになり、その高度成長期に至って空前のカメラブームを迎える。
 イモ焼酎から作った密造の雑酒『カストリ』がまだ出回っていたこの頃、スコッチの亜流を脱した本格派の国産ウイスキーの「サントリーオールド」が発売された。
実はこの「オールド」が完成したのは四十年(昭和十五)十一月のこと。二十三年(大正十二)、周囲の反対を押し切って、「日本人の味覚に合った日本独自のウイスキーを作りたい」という創業者・鳥井信治郎は国産ウイスキー造りを始めた。そしてようやく完成すると日米開戦。完成品は熟成を重ねつつ、空襲でも奇跡的に戦禍を免れた京都・山崎の地で終戦を迎えた。昭和24年には公定価格が撤廃、酒類の自由競争の時代となり、サントリーは庶民のウイスキー「トリスウヰスキー」を発売、この年、「サントリーオールド」が発売で洋酒ブームの先鞭をつけた。
一方、時代を象徴する事件や犯罪が次々に起きた。
 
⑦ 金閣寺放火事件
五十年七月二日夜、京都・金閣寺の国宝・金閣(舎利殿)が全焼した。この火事で応永四年(一三九七年)、足利義満が建立した三層構造の美しい舎利殿とともに足利義満の木像、運慶作の観音菩薩像、阿弥陀如来像や経巻、仏教本など貴重な国宝が全て焼失した。前年の法隆寺金堂や四国の松山城天守閣などの国宝、文化財の消失に次ぐもので、警察は、金閣寺の徒弟の一人で林養賢(当時二十一歳)が放火したものとみて逮捕した。林は「世間を騒がせたかった」、「社会への復讐のため」などと動機を自供した。
林養賢は生まれつきの吃音で、このことが死ぬまでトラウマとなる。作家の三島由紀夫は、この事件をモデルに傑作「金閣寺」(昭和31年)を発表した。三島は「自分の吃音や不幸な生い立ちに対して金閣における美の憧れと反感を抱いて放火した」と見ている。
アメリカナイズされた、アプレ事件と騒がれたのが、「オー・ミスティク」事件である。
九月二十二日、日本大学の運転手三人が職員の給料一九一万円を銀行から引き出して大学に戻る途中、同僚運転手の山際啓之(当時十九歳)に呼び止めら、車に乗り込んだ山際は、隠し持っていたナイフで運転手を脅し、一九一万円入りのボストンバックと車を強奪し逃走した。日大ギャング事件である
山際は、大学教授の娘と夫婦を装い東京・品川区で日系二世と称して部屋を借り同棲していたところを警察に逮捕された。警察が踏み込んだ際、山際は両手を広げて「オー・ミスティク」と連発。取り調べ中も、要所に英語で供述するなどアメリカかぶれが異常に強く、マスコミはこれを「アプレゲール」(戦後という意味)とよんで、「オー・ミスティク」が一躍流行語となった。
また、朝鮮戦争の影響として起きた凶悪な「九州小倉での黒人米兵集団脱走・暴行」事件は当時のGHQが報道管制をしいたため、新聞などのマスコミも大きく扱わなかった。
七月十一日深夜、国鉄・小倉駅近くの米軍補給基地から、完全武装した黒人米兵ら約二〇〇から二百五十人が集団脱走した。近日中に朝鮮戦争の最前線に送られることになっていた黒人米兵らで、極度の不安と緊張、死への恐怖の中にあった。
ちょうど、小倉市では「祇園祭り」の準備で祇園太鼓やお囃子の音が基地にまで聞こえてきた。この太鼓やお囃子に誘発されるかのように、基地から集団脱走した。完全武装した黒人米兵は土足で民家になだれ込み略奪、傷害、夫・子供の前で婦女暴行の限りをつくし、町を恐怖の底に叩き込んだ。一方、米軍基地は集団脱走が発覚するとMP(米軍警察)が現場に急行させ、全員を逮捕し基地へ連行し、十四日に朝鮮の前線に移送され、そのほとんどが戦死してしまった、という。
 また、自然災害も大きなツメ跡を残した。九月二日から四日にかけ、ジェーン台風が四国に上陸、大阪湾から神戸付近を通過して日本海に抜け、さらに北海道に上陸、横断するというコースをたどった。京阪神を中心にして死者・行方不明は五三九人、負傷者は二万六千人余り、家屋の半壊・全壊は十一万八千戸余り、流失した家屋も二千戸余り、田畑の流失埋没は二十二万ヘクタールという甚大な被害を出した。
⑧ 第一回ミス日本の山本富士子と、プロ野球初の完全試合
生活がやっと安定しはじめると、人々は美を求め、女性が輝いてくる。四月、日本女性が憧れる「第一回ミス日本コンテストコンテスト」が開催された。全国、十二都市で「ミス都市」を選抜し、その中からミス日本を選び、平和大使としてアメリカに派遣するというもの。
初代ミス日本には山本富士子(大阪生まれ。18歳)が選ばれた。身長一五九センチ、体重四十九・五キロの日本舞踊の得意な均整のとれた体と、目鼻立ちの整った美しい顔の初代ミス日本の山本はその後に大映に入社(五十三年)する。「花の講道館」でデビューし、その後も数々の作品に出演。日本の代表的美人女優として活躍した。
この時代、大衆娯楽の中心は映画とプロ野球であった。テレビ放送はまだ行われておらず、ラジオ放送の全盛期である。
⑨ 黒澤明の「羅生門」がベネチア映画祭でグランプリ
 
話題となり注目された映画には、ガラス越しのキスシーンで衝撃を与えた「また逢う日まで」(今井正監督、久我美子・岡田英次)。実際にあった暴力追放の新聞キャンペーンをもとに、ジャーナリズムのあり方と市民の団結力、そして勇気ある行動の尊さをドキュメンタリータッチで描いた「暴力の町 ペン偽らず」(山本薩夫監督、志村喬・原保美など)。文豪谷崎潤一郎の原作「細雪」(阿部豊監督、花井蘭子・轟夕起子など)など。
 カメラの長回しと長いセリフで不評だったのが8月に封切られた黒澤明監督の「羅生門」(三船敏郎・京マチ子)。芥川龍之介の原作「藪の中」と「羅生門」を加味して黒澤と橋本忍が脚色。山賊多襄丸と、通りかかった武士とその若妻との間に起こった殺害事件を中心に、これを目撃したきこりとその回想を聞く旅の法師と下人らの会話をとおして、人間の主観相互の食い違いと真実の極めることの難さを描いた意欲作だったが、ヒットしなかった。
ところが、翌26年のベネチア国際映画祭に出品されると見事グランプリを獲得。同年のアカデミー賞外国映画賞も獲得するという快挙で、日本映画の海外進出の道を開いた。
プロ野球の人気も上がってくる。前年から2リーグ制で始まったプロ野球では六月二十八日、青森球場で行われた巨人対西日本パイレーツ(現・西武)戦で巨人の藤本英雄投手が日本プロ野球史上初めての完全試合(無安打、無得点、無四球、無失策)が成し遂げた。
十一月からはプロ野球の日本シリーズが始まり、ラジオの中継放送の人気が盛り上がった。ペナントレース終了後に、セ・リーグとパ・リーグの優勝チームが日本一をかけて対戦、アメリカ大リーグのワールドシリーズを参考にして当初は「日本ワールドシリーズ」とよばれた。第一回の日本シリーズはパ・リーグの毎日オリオンズ(現・千葉ロッテ)がセ・リーグの松竹ロビンズ(現・横浜)を四勝二敗で破って初優勝を飾った。
 
⑩ ラジオ歌謡曲が人気に
 
この年ラジオ契約数(NHK契約世帯数)は、約八六五万世帯に増加し、娯楽の少ない中で、人々はラジオに憩いを求め、茶の間でラジオ放送にかじりついた。NHKではバラエティー番組「愉快な仲間」や、音楽番組「今週の明星」、放送劇「三太物語」、農家向けの「農家のいこい」(後に昼のいこい)などを提供、様々な層の要求に応じた。
なかでも人気があり、ロングセラーやヒット曲のきっかけを作った番組が「ラジオ歌謡」である。同番組は「家族みんなで歌えるホームソングを作る」というコンセプトで、昭和21年五月から放送が始まり、番組でのホームソングが人々の心をなごませた。代表的曲は「風はそよかぜ」「山小舎の灯火」「夏の思い出」「森の水車」「雪のふるまちを」「花の街」など。
朝鮮戦争特需で景気がはっきりと上向いてきたのは、昭和25年後半から年末にかけで、それまでは不況が続き、歌謡界もレコードの売り上げはさっぱりだった。「熊祭(イヨマンテ)の夜」(伊藤久男)、「さくら貝の歌」「白い花の咲く頃」(共に岡本敦郎)「桑港(サンフランシスコ)のチャイナタウン」(渡辺はま子)、「夜来香(イエライシャン)」(山口淑子)などもヒットはしたものの、売り上げ枚数はさほど伸びず、ヒットした「銀座カンカン娘」(高峰秀子)や「長崎の鐘」(藤山一郎)でさえ二十万枚がやっとであった。こうしたなかでも美空ひばりの人気はうなぎ上りで、「東京キッド」「越後獅子の歌」の映画・主題歌ともにヒットさせ、歌に映画にスター街道を上り詰めていく。
⑪ ダンスホール復活
 
 戦前・戦争中は一時閉鎖されていたダンスホールだが、戦後になってようやく復活。従来の社交ダンスに加えて、ラテン・アメリカで生まれたマンボやチャチャチャなどが人気をよび、各地でダンスパーティーが開かれるなど、盛り上がりをみせた。
海外からバレエ団も来日して公演する機会も増え、若い女性たちの間ではバレエが人気となり、全国にバレエ教室、研究所ができる。こうした時流を歌謡界が逃すはずもなく、「買い物ブギ」(笠置シズ子)、「ダンスパーティーの夜」(林伊佐雄)、「水色のワルツ」(二葉あき子)などを発売、スマッシュヒットさせた。ちなみに「水色のワルツ」はその後、上原謙主演で映画化され、水色のハンカチが飛ぶように売れた。
⑫ パチンコブーム
 
娯楽の少なかった当時、大人たちを魅了したのがパチンコ。今でこそ二十兆円産業とも三十兆円産業ともいわれるパチンコだが、終戦後間もなく、バラック作りの掘っ立て小屋やテントなどから始まったパチンコは、あっという間に全国に広がった。「正村ゲージ」とよばれる、ほぼ現在に近い機種が昭和25年前後に登場、その人気は加速する。玉が入賞穴に入ると玉が十個出てくるこの「オール十」の出現により、ギャンブル性が強くなり、スリリングで射幸心を刺激された人々が群がった。この年、全国で約三万軒ものパチンコ屋が誕生した。パチンコがブームになったのは百円からやすく遊べること、失業者や金のない人も少ない投資額で楽しめて景品や換金の大きな見返りを期待できるというギャンブル性があったことパチンコ産業の成長理由。以後、パチンコは不況に強いレジャーという定評を獲得した。

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