『クイズ『坂の上の雲』>明治陸軍の空前絶後の名将とは・・・児玉源太郎ではない参謀総長・川上操六②
2015/02/16
『クイズ『坂の上の雲』>明治陸軍の空前絶後の名将とは・・児玉源太郎ではない参謀総長・川上操六②
前坂俊之(戦史研究家)
大義につき、故郷にそむく
明治6年10月、征韓論が破れて、西郷隆盛以下が決然として辞表を提出し、たもとを連ねて故山に帰ろうとした。桐野利秋、篠原国幹を始め、薩摩の有為の武人で西郷と行動を共にする者は六、七分、別れて帝都に踏み止まらんとする者は三、四分に過ぎなかった。
当時、御親兵大隊付の陸軍大尉であった川上操六も、薩摩出身の将校として去就を決しなければならない立場になった。
彼は日頃、特別の厚遇を受けて、その情において師父にも等しい西郷隆盛と離れるには忍びなかった。先輩であり戦友である桐野、篠原らとも別れることに耐ええられなかった。
しかし、これと進退を共にすれば、大義名分に背くことになるが一体どうしたものか。青年将校・川上操六の心は散々に乱れて、日々、煩悩を続けた。数日後、思い余って西郷を訪れ、眞情を吐露して、国家のために廟堂に留まるように必死に請願したが、西郷の意志は不動だった。
そして間もなく西郷は故山に帰した。留まった川上は『俸給に恋々として、情誼のない奴」と知友から侮蔑を受けた。川上の心は動揺して、西郷の後を迫わんとした。だが彼は理性を曇らせず、断乎として私情を排し大義に就いた。翌明治7年、彼は少佐に昇り、近衛大隊長となった。
その4月、郷里、鹿児島にある父伝左衛門が危篤(きとく)の報が彼のもとに届いた。彼は一刻も早く帰りたいと心は故郷に飛んだが、ひとたび帰れば故郷の先輩、知友に引留められて再び上京することはむつかしくなる。朝廷に対する武人の忠節を全うするため、かりに不孝の子となるも帰郷する事は出来なかった。
彼一人が故郷に引留められるだけならば、さして大局に影響するところはないであろうが、由来、近衛禁衛隊には薩摩より選抜された兵士が多く、それらは皆、川上操六に帰依して東京に留っているのだから、もし、彼が再び上京し得なかった場合には、彼に続いて薩摩に帰ってくるに相違ない。
彼はあえて不孝の子となって軍人の本分をつくす決心をした。しかし、子として父の急を打ち棄てて置くのはいかにも情としてしのびがたい。そのころ、陸軍教導団に学んでいた実弟丈吉にその旨を含め、郷里におもむいて父の看病をさせた。不幸、父は間もなく不帰の客となった。帝都にあってひたすら、父の回復を祈っていた川上操六の悲歎はいうまでもない。そして彼が危んだ通り、丈吉は彼の身代りとして私学校党の先輩友人に押へられ、西郷軍に身を投じなければならぬ運命となった。
明治9年1月、川上少佐は参謀局出仕を命ぜられた。後年、名参謀長とうたわれた川上操六の参謀生活の第一歩が、ここに踏出された。
翌10年2月、薩摩私学党の変が起り、時しも京都に行幸中の、明治天皇を驚かせた。、陸軍卿・山県有朋は、熊本鎮台に薩摩出身の兵多く、殊に参謀長・樺山中佐、第十三連隊長・輿倉中佐等、皆,桐野、篠原と縁故深きが故に、この際、去就に変化がないとも限らないと危機感を抱いて、川上少佐をして征討の勅命を出して熊本に赴かせた。
これ、山県が川上操六の人となりを見て信任するところが厚かったためである。彼は命を準じて神戸より船に乗って博多にいき、単身、腕車に姿をかくして熊本に馳せ向った。肥後の国境に来た時、薩摩の方言をしゃべる幾人かの壮士が、大刀を構えつつ車の中を窺い、「宋之丞だ、斬ってしまへ』と口々に叫びながらまさに白刃を斬り下ろさんとした。宗之丞というのは川上操六の幼名である。川上少佐は、面倒な事になったと思いつつも、泰然自若(たいぜんじじゃく)として腕車を進めた。
その豪胆さに相手も気をのまれたものか、宗之丞は有名な剣客だ。1人だからとて中々、容易に討てるものではない。それに、彼1人殺したところで大した益もなかろう、というものがあってそのまま皆去ってしまった。
彼は悠々と熊本城に入り、勅命を司令官・谷少将に伝え軍議一決、守城の準備にとりかかった。同月二十二日、薩軍,大挙して熊本城に押寄せ,樺山参謀長先ず傷つぎ、興倉連隊長は頓死した。続いて敵弾に斃れる者百数十名。谷少将は、士気のそそうする事を怖れ、川上少佐をして輿倉中佐に代って歩兵第13連隊の指揮とらせた。これより戦いの終るまで川上は連隊長の職にあった。熊本龍城の官軍は、歩兵十四個中隊、砲兵3個小隊。工兵一個小隊,警視対隊若干であって、この内歩兵の大部分にあたる十二個中隊は第十三連隊に属して川上少佐の指揮を受けた。1日、彼は上等兵に命じて数名の卒を従へて敵前視察に赴かせた。
出発に際して弟丈吉が敵軍にある事を語り、発見の際には猶予なく拉致し来るように命じた。上等兵らは不幸、敵に捕らわれた。隊長は即ち川上少佐の弟・丈吉であった。上等兵はそれを知るや少佐の言葉を伝え、熊本城に入ることを勧めた。
『大義につけと仰せになる兄上の御言葉は誠に有難いが、事ここにいたっては情義として武士の両目として、かりに逆賊の汚名を着せられても、今さら城内に身を投じる事は出来ぬ。そこを御察し下さるよう、兄上に伝えてくれ』
と上等兵等を城に帰した。四月中頃、城の囲みが解けるに及んで、川上少佐は樺山中佐と共に城兵を従へて海路、薩摩に入り、野津、三好、三浦、曾我の各少将が率いる各旅団、山田少将の別動旅団、大山少将の砲兵隊等と協力して城山を囲み、9月24日、総攻撃を敢行してついに岩崎谷に西郷以下の私学党領袖を倒し、西南の役もここに終局を告げた。しかしながら久しぶりに見るなつかしき故郷の山河は戦役にあってその姿を変え、親しき先輩、朋友はわが功名の儀牲となって枕を並べて逝った。
帰りを待ちわびたであらう父はすでに此世の人にあらず、敵軍に投じた弟はその生死すらもわからない。
川上操六の心事は暗たんたる思いであった。
川上操六の心事は暗たんたる思いであった。
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