『日米戦争の敗北を予言した反軍大佐/水野広徳の思想的大転換②』-『軍服を脱ぎ捨てて軍事評論家、ジャーナリストに転身、反戦・平和主義者となり軍国主義と闘った』
2018/08/22
日米戦争の敗北を予言した反軍大佐、ジャーナリスト・水野広徳②
2009/02/10
前坂 俊之
(静岡県立大学国際関係学部教授)
⑤ 松山で下級武士の子として生まれる、一家離散に
水野は明治八(一八七五)年五月、愛媛県松山市内に旧伊予松山藩士の光之の第五子として生まれた。光之は三十七歳の時、明治維新にあい、家禄奉還金五六百円の金禄公債をもらい、駄菓子屋、荒物屋などを次々に開業したが失敗、やっと県庁の役人に採用されるが、その直後に四十九歳で死亡する。
明治維新による各藩での下級藩士の末路を象徴したような哀れさで、水野も不幸な家庭の下に生まれた。兄一人、姉三人の兄姉五人の末っ子として生まれた広徳(ひろのり)は一歳で母を、父光之も五歳の時に亡くし、兄姉はそれぞれバラバラに、親類に預けられるという一家離散の中で育った。
家庭において不遇だったため、その償を戸外に求めた。広徳は小年時代から無類のワンパタ者であった。父母の愛情を知らず育った少年は逆境に負けず、ハネ返す独立心、強情さ、反抗心をないまぜにしながら、たくましく成長していった。
小学校時代は常に成績は三番以内、時には首席という優秀さであったが、イタズラ、ケンカの常習犯で、ガキ大将の典型。彼の着物の袖が満足にくっついていたためしはなく、その袖のほころびを縫うことが、伯母の毎夜の仕事でもあった。
十二歳の時のこと。例によってワンバク仲間とほかの生徒をいじめながら帰宅途中、巡査に見つかった。他の生徒はクモを散らすように逃げたが、・水野一人が逃げなかった。このため、当時、松山一の繁華街にある交番に連れていかれ、強情者の水野は一切ロもきかず、返事もしなかったことから、巡査から殴り飛ばされ、けとばされた。
それでも、水野は泣かなかった。地元紙はこの一件を針小棒大に、小学生が乱暴とうヨタ記事「あたかも長崎事件!」と大きく掲載され、水野は停学処分を受けた。この事件は水野の幼な心を深く傷つけ、水野に弱い者への同情心、権力の乱用への強い反抗心を植えつけた。
その後、水野は幡随院長兵衛の話を開いていたく感動し、「長兵衛のような人間になって、無茶な巡査などに苦しめられている弱い人を救ってやりたいと思った。」と書いている。
侠客がバクチ打ちの親分だと聞いて、この熱もさめたが、大塩平八邸や佐倉宗五郎の話に興味と崇敬の念を持った。この事件は水野の第二の性格を形成した、といわれる。
水野はその頃、「ホコラ」というニックネームを頂戴していた。ホコラというのは松山地方の方言で、瓦製のぶさいくな祠(ほこら)からきたもので、友人の仇名がいつの間にか水野につけられた。
乱暴者の水野を知らぬものは、松山ではいないほど有名となり、「ホコラ、ホコラと軽蔑するな、ホコラ天下の暴れ者!」と歌われるほどになった。
水野は操行点で落第するという中学校始まって以来の記録を作って退校した。
⑥海軍軍人に、日本海海戦で活躍
二十二歳で念願の海軍兵学校に入学。三年間は江田島で鋳型にはまった人形の
ように校則大事、勉強第一と青春を世捨て人、仙人のように過ごした。同期生の中には終生の友となる野杯吉三郎や小林斉造(海軍大将)がいた。
一九〇四(明治三七)年、日露戦争が起きた。水野は水雷艇長として、ツシマ海峡の警戒や旅順ロで閉塞船の活動援護や戦闘などに従事して活躍する。日本海海戦は勝利に帰したが、水野の水雷艇の武勲も著しく、東郷平八郎司令長官から前後二回にわたって感状をさずかった。
この間、少年時代あれだけ鳴らした水野の武勇伝がこともあろうに、佐世保鎮守府司令長官邸での天長節の祝賀会で発揮された。
泥酔した当時、「鳥海」航海長だった水野は上村彦之丞第二艦隊司令長官に向かって「長官、御杯を頂戴します」と言って、「お前たちのくるところではない」とドナられた。酔いのさめぬ水野は「上村彦之丞の馬鹿野郎!」とドナリ返して、近くにいた幕僚と取っ組み合いになった。
酔がさめて、事の重大さを知った水野は停職などの辞令がくるものと毎日ピクビクしていたが、結局、何のおとがめもなかった。日露戦争開戦前夜の海軍士官の雰囲気と、水野の蛮勇を伝えるエピソードとしで興味深い。一九〇六年(明治三九)、水野は三十二歳で、海軍軍令部戦士編纂部に出仕を命ぜられ「明治三十七、八年海戦史」の編纂の仕事にたずさわることになった。
水野が従事した日露戦争での閉塞隊の活躍が新聞に掲載され、その文章力が注目されて編纂部への出仕となった。
水野の東京在勤は四年半に及んだ。戦史編纂という特殊な任務とはいえ、海上勤務が本分の海軍将校としては全くの不具者となってしまった。
⑦「此一戦」の執筆を空前のベストセラーとなる
と同時に、海軍部内のきっての文筆家として知られるようになり、軍令部勤務の合間、水野は読書によって、目を世界に開いた。余暇を利用して「此一戦」の執筆を始めた。
「小説のように平易でなく、そうかといって専門的過ぎず、読者を中学校三、四年生に置き、漢文くずしの口語体によって書く」ことに執筆の基準を定め、役所までの徒歩往復の途上で構想を練って、東京・青山の自宅で毎晩十二時過ぎまでランプの下で書いた。
「此一戦」は発売されると、二日に一版、またたく間に四十版、最終的に百数十版という空前のベストセラーとなる。当時の海軍には従軍記者はおらず、海戦の実体が不明な上、言文一致のわかりやすい出版物が少なかったせいもあり、水野の執筆のネライは成功した。
「此一戦」について、大町桂月は「此書を読んで先ず喜ばし思はるるは、精しく我軍の偉勲を記したるのみならずして、大いに敵軍を審にしたるにあり。しかして、寄せるべき限りの同情を寄せたるにあり。武夫(もののふ)は物のあはれを知る。著者の態度が既に日本武士の精神を発揮せるを見る也」と書評した。
水野が一番喜んだのはこの書評であった。 水野は「自分は海軍の飯を食っているのではなく、国家の飯を食っていろ」との強い信念があった。このため、国家の利益に反すると信じた場合には、海軍の悪口も平気であった。多くの海軍士官とはソリの合はないことも多かった。
⑧日米戦争仮想記「次の一戦」で、匿名がバレて左遷、
「此一戦」で水野の文名は上がったが、この間、一九一〇(明治四十三)年九月に第二十艇司令として舞鶴に赴任するが、上司と部下の処分問題で対立し、翌一一年七月、佐世保海軍工廠副官に左遷された。さらに翌一二年二月には再び、東京勤務となり、海軍省文庫主管に転じるという、海軍将校としては不遇の道、傍流を歩んだ。
一四年(大正三)には日米戦争仮想記「次の一戦」を友人の窮迫を救うために刊行した。「一海軍中佐」という匿名であったが、内容の一部に軍事、外交の機微にふれる点があり同題化し、匿名がバレて謹憤五日間を命じられた。
一五年(大正四)には、陸上勤務にあきた水野は強引に海上勤務を願い出て、軍艦「出雲」副長に転進した。ところが、十年間で、艦務はすっかり変っており、マゴつくことが多かった。水野はついで戦艦「肥前」副長に転じたが、海上の人としてはすでに過去の人物となったことを痛切に自覚して悩んだ。
水野は四十三歳で方向転換を決意する。第一次世界大戦はすでに三年目に入っており、軍事研究と視察のために欧米各国へ二年間の私費留学を願い出て許可された。
⑨ 第一次大戦中の欧米へ視察旅行へ、
ロンドンで空襲体験一六年(大正五)七月、「諏訪丸」に乗って、インド洋から喜望峰を回って、ロンドンに到着した。イギリス、フランス、イタリア、アメリカと回って、翌年八月に帰国した。
第一次世界大戦は約五年間にわたり、死者約一千万人、負傷者二千万人、捕虜六百五十万人も出し、約四百年の栄華を誇ったヨーロッパを没落させた。
この欧米旅行が水野の思想、世界観に大きな影響を与えた。国力、経済力、軍事力はもとより、その繁栄と文明の進歩を日本と比較し、その圧倒的落差を感じざるを得なかった。
近代戦争が圧倒的な物量の戦いであり、経済的に比較にならないほど脆弱な日本は堪えられない。日露戦争など第一次大戦に比べれば、子供の戦争ゴッコのようなもの、勝っておごった軍部は近代戦の実相を知らない。
そう考えた愛国者・水野の思想は戦争否認の心的変化を起こした。空襲が初めて体験したのもこの戦争であった。ツェッペリンが初めて英国を空爆したのは一九一五年一月のことだが、それ以来、第一次世界大戦でのドイツの空爆は飛行船五十回、飛行機二十五回におよび、ロンドンっ子をふるえ上がらせ、神経衰弱に陥し入れた。
水野はロンドン滞在中、飛行機の空爆を体験した。水野は無事であったが、約六百人の英国人が死傷した。この体験と見聞をもとに一早く東京空襲を予言し、警したのは水野の慧眼であった。
「もし、日本の如き繊弱なる木造家屋ならんには、一発の爆弾に三軒五軒粉々となりて飛散せん。加うるに我が国には難を避くべき地下室なく、地下鉄なく、従って、人命の損害莫大ならんのみならず、火災頻発、数回の襲撃に依って、東京全市灰塵に帰するやも図られず」
空襲を避けるために、敵機を近づけないことや、強鋭なる空軍力の増強を主張しながらも、「灯火陰滅の暗黒策を以て安心する勿れ、…戦時、東京は敵機襲撃の第一目標たらん…」とも述べている。太平洋戦争下の日本空襲に先立つこと二十六年前に指摘した驚くべき先見性である。
さらに、ドイツの潜水艦を避けながら到着したアメリカで見たものは世界の富を独占した圧倒的な経済力であり、ケタ違いの国力であった。当時、問題化していた「排日移民法」についても、あまりにずるく身勝手な日本人の方に問題が多いことを冷静に観察してきた。
⑩再び大戦終了後の欧米視察へ、思想的大転換、軍備撤廃主義へ
水野は一七年(大正六)八月に帰国後、軍事調査会に勤務していたが、一九年三月、再び第一次世界大戦終了後の欧米の視察旅行に出かける。
第一回目の視察旅行では、圧倒的な国力の差から、経済戦、総力戦となった近代戦では貧乏国日本は戦争すれば敗れる、という愛国主義者、国家主義者からの戦争否定でしかなかった。
平和反戦主義者として、軍備を撤廃するというところまでいかず、戦争すれば敗れるという計算上からのもので、軍国主義者のワクを超えていなかった。
ところが、この第二回目の視察で水野は一八〇度転換し、人道主義的立場からも戦争の絶対否定、軍国主義、侵略への否定に向かった。フランスの西部戦線、敗戦国ドイツの惨状を観察し、思想に動揺をきたし心的変化を起こした。
水野が北フランスの西部戦線で見たものは戦勝国ながら屍体累々、数百万人の犠牲であり、石造りの堅固な建物、都市のガレキの山であり、すさまじい近代戦での破壊力であった。敗戦国ドイツで目にしたものは何十万人という失業者の大群であり、乞食の廃兵であり、売春婦となったおびただしい女性たちであった。
戦争には勝っても、負けてもいずれにしても悲惨な結果しかない。「軍備の縮少は戦争の発生を緩和する効果はあるかも知れぬが、決して戦争を絶滅することは出来ない」「軍備は平和の保証なり-は虚偽であり、錯覚である」として水野は軍備第一の軍国主義の殻を脱ぎ捨てて、翻然として、軍備撤廃主義者へと転回したのである。
一九一九(大正八)年八月三十一日、天長節の記念で集まったベルリン日本人会の席上でスピーチを求められた水野は敢然と言い放った。
「戦争を避くる途は、各国民の良知と勇断に依る軍備の撤廃あるのみである。第二のドイツとして世界猜疑の中心に立てる日本としては、極力戦争を避けるの途を考えねばならぬと信ずる。これが為に我国は列国に率先して、軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策であると信ずる」大多数の共鳴と賛成を得た。
水野は軍国主義の鎧を欧州の海に投げ棄てて、世界の軍備撒廃の理想を抱いて帰国した。
つづく
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