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日本リーダーパワー史(207)大空襲(放射能汚染)を警告、日米戦争(原発推進国策)の敗北を予言した海軍大佐・水野広徳(下)

   

 
日本リーダーパワー史(207)
 
―政治家、リーダーの責任を考えるー
 
米軍の大空襲(現在の放射能汚染)を警告、
日米戦争(原発推進国策)の敗北を予言
した救国の海軍大佐・水野広徳(下)
 
今、求められている真の政治家、リーダーシップとは
 
日本沈没の歴史的原因はその『政治の無為無策』体制にある。今回の3/11福島原発事故は「第3の敗戦」となる可能性が大きい。

わずか、半年前の未曾有の日本民族絶滅にもなりかねない国・経産省・東電・電力会社・原子力学の総ぐるみで大失敗「核自爆戦争」を、その徹底した原因追及、責任追及も一切行わず、事故は収拾にむかっているなどという楽観的なムードをながし、これから50年は続く恐ろしい現在進行形の現実に目をつぶって、国民を置き去りにしている。

日本の近、現代史の中で繰り返されてきた歴史的愚行『自らの過失でパンドラの箱を開けた恐るべき現実』に目をそむけえ、先送りして、ますます現実を悪化させていく「政治的不作為・無責任体制」に陥っている。
 
いうまでもなく政治家の任務は決断にある。間違った現実を変えることにある。政治家の責任は、誤った現実を自分の決断によって作りかえることにある。現実を変える力を国民から付託され、それを実行するのが政治家の仕事なのである。
 
「慎重に検討しています」、といって、決断できず、問題の先送りをするのは政治家失格である。官僚は政治家の命令で、政策を立案するのが仕事である。政治家と官僚との根本的なちがいもこの点にある。決断力も実行力もない、数合わせの政治家、議員の存在意義は全く無い。

                                                        前坂俊之(ジャーナリスト)
 
空襲の大被害をいち早く警告し、日米戦争の敗北を
予言した“救国の海軍大佐”水野広徳とは(下)
 
 
 
軍国主義から軍備撤廃主義者へと転換する
 
「軍備の縮少は戦争の発生を緩和する効果はあるかも知れぬが、決して戦争を絶滅することは出来ない。軍備は平和の保証なりとは虚偽であり、錯覚である」
として水野は軍備第一の軍国主義の殻を脱ぎ捨てて、翻然として、軍備撤廃主義者へと転換した。
一九一九(大正八)年八月三十一日、天長節の記念で集まったベルリン日本人会の席上で敢然と言い放った。
 
 「戦争を避くるの途は各国民の良知と勇断に依る軍備の撤廃あるのみである。第二のドイツとして世界猜疑の中心に立てる日本としては、極力戦争を避けるの途を考えねばならぬと信ずる。これが為に我国は列国に率先して軍備の撤廃を世界に向かって提唱すべきである。これが日本の生きる最も安全策であると信ずる」
 大多数の聴衆の共鳴と賛成を得た。水野は軍国主義の鎧を欧州の海に投げ棄てて、世界の軍備撒廃の理想を抱いて帰国した。
 
 帰国後、思想的に葛藤を続けていた水野は一九ニー年(大正十)正月、「東京日日新聞」(現・毎日)の依頼に応じての「軍人心理」(五回連載)を書いた。第一次大戦後のヨーロッパの軍隊の威力を保持するために、「神聖純潔なるデモクラチックな軍国主義を実現せよ」と軍隊の民主化、軍人の参政権を主張した。
 自らの軍人心理を大胆率直に吐露したものだが、一般からは「ついに海軍内にも社会主義にかぶれた軍人が出現した」と注目を集めた。しかも、水野は上官の許可を受けずにこの論文を発表したため、三十日間の謹慎処分を受けた。同年八月、水野は軍服に永久の別れを告げた。
 大佐で海軍と訣別した水野は一九ニー年(大正一〇)以来、剣をペンにかえ、軍事評論家となり、当時、日本を代表する論壇誌「中央公論」「改造」などに軍備撤廃論や軍縮論を精力的に執筆し、キャンペーンを張った。
 
 昭和戦前に政府が軍部に牛耳られた要因の一つは軍部大臣武官制にあり、「統帥権の独立」によって軍部の独走を許した。昭和十二年の宇垣一成の組閣が流産したのは、軍部大臣武宮制をタテにとって、陸軍が陸軍大臣を出すことを拒絶したためだが、水野はこの武官制の問題点を早くから見抜いており「軍部大臣開放論」(中央公論・大正十一年八月号)の中で、「武官制を廃止し、文武官の出身いかんにかかわらず、適材を任用せよ」とシビリアンコントロールの重要性を訴えていた。
 「統帥権の独立」についても、多くの憲法学者が「続帥権の独立」を認めた中で、水野はただ一人「統帥権の独立否定論」を主張した。
「国防は国家のための国防であり、軍人のための国防ではない。軍人の政治介入を防ぐため、軍部大臣を文官にまで開放し、国防方針の統一を内閣の手に収め得た時、政府は初めて軍閥の妨害と拘束より脱せられる(「現内閣と軍閥との関係」(『中央公論』大正一四年十一月号)とズバリとその本質を指摘した。
 
一九二二年(大正十一)にワシントン軍縮会議が締結され、海軍主力艦の保有量が英米の六割に抑えられた。二四年(大正十三)五月に、米国で排日移民法が可決されたことなどで、反米感情が一挙に高まり、日米戦争の危機が叫ばれた。
 
 「アメリカを撃て」の反米ムードの高まりの中で、軍事評論家・石丸藤太(一八八一一-一九四二)が日米戦争未来記の『圧迫された日本』(大正十一年)、『日米戦争・日本は敗れず』 (同十三年)などを出版し、「日米戦わば、日本は必ず勝つ」と主張したのに対し、水野は真っ向から反対する論陣を張った。
 
日米戦争は「日本が必ず敗れる」と主張
 
一九二四年(大正13)二月に加藤友三郎首相、上原勇作参謀総長らはアメリカを仮想敵国とする新国防方針を作成した。水野は早速「新国防方針の解剖」を「中央公論」(同年6月号)に発表、日米戦争を徹底して分析した。

 水野は「現代戦は兵力よりも経済力、工業力、国力の総力戦である」として、輸入に頼る原材料、鉄鉱石、鉄製品、綿花、石油など戦争の場合の貿易へのはね返り、バランスなどを冷静に分析、検討し「わが国は米国に圧倒的に劣り、長期戦に耐えられない」と判定。石丸が日米戦争は「双方の一大消耗戦となり、海軍力、その練度、精神力などの軍事的観点から分析して、日本が勝つ」と結論づけたのに対して、水野は国家、経済の総力戦となり、国際的なパワーポリティックスの観点からみても、「日本は必ず敗れる」と正反対の結論を出した。
 
 戦争になると「空軍が主体となり、東京全市は米軍機による空襲によって、一夜にして灰塵に帰す。戦争は長期戦と化し、国力、経済力の戦争となるため、日本は国家破産して敗北する以外にない」と予想し、日米戦うべからずと警告した。
 水野は「当局者として発狂せざる限り、英米両国を同時に仮想敵国として国防方針を策定することはあるまい」と指摘したが、太平洋戦争が起きる二十年前のこの予想は見事に当たったのである。
徹底した軍縮推進論者であった水野はワシントン条約の締結を「有史以来の人間の為したる最も高尚なる、最も神聖なる大事業。日本財政の危機を救いたるもので(略)日本海軍の危機を救いたるもの」(「軍艦爆沈と師団減少」(『中央公論』大正十三年十月号〉と高く評価した。
 
 日米の経済関係を重視した水野は「日本は経済生活において米国に負うところ大なることを知っている。日本潰すには大砲は要らぬ。米国娘が三年日本に絹をストライキすれば足る」(「米国海軍の大演習を中心にして」中央公論、大正十四年二月号)と日米協調が不可欠なことを主張して、軍国主義者の傲慢な態度を批判した。
 「今の日本人中に無責任に放言的に、日米戦争を説く者は甚だ多い、彼等は太平洋を泳いで渡り、大和魂と剣付鉄砲さえあれば、ロッキー山を越え得ると思っているであろう。いやしくも、多少なりと日米の事情に通ぜる人間にして、日米戦争など本気で考える者は恐らく一人もあるまいと信ずる。
 不幸にして、わが国には日米戦争扇動者が甚だ少なくない。軍人を中心とし、その周囲に巣食う慢性愛国患者や憤慨常習病者である。彼等は今尚、『敵国外患なければ国危し』との侵略御免時代の常套語を金科玉条として、国民の元気を鼓舞する唯一の道は、対外敵愾を煽るに在りと信じているらしい」
 
 一九二四年(大正十三)秋、太平洋上で米国を仮想敵国とした大規模な海上演習を実施した。米海軍もこれに呼応して大演習を行い、高まりつつあった日米戟争の論議に一層火に油を注いだ。
 
 日米対立のエスカレートを憂えた水野は「米国海軍の太平洋大演習を中心として(日米両国民に告ぐ)」(「中央公論」大正十四年二月号)を発表、両国民はもっと冷静になり、軍縮すべきと提言した。
 日本は本来、軍国主義的な国民ではないが、「大和魂うぬぼれ病と戦争慢心病の熱にうかされている」、日米双方の対立の原因は「双方の猜疑に基づく恐怖心と誤解に因る危惧心以外の何ものでもない」と分析、特にマスコミや知識人の態度を「国際情談論者と対外興奮論者」と形容し、「無知の恐怖が国際猜疑心となり、疑心暗鬼をかきたて、対外空言筈、国際神経衰弱病者となる」と帝国主義者や軍国主義者を批判した。日米非戦論を熱心に訴えて、何度も警告を発した。
 
戟前の日本の政党政治を崩壊させた原因は統帥権独立の問題であった。明治憲法下で軍部の政治的特権を支えていたのは統帥権の独立と軍部大臣(現役)武官制であった。
一九二四年(大正十三)一月、宇垣一成が陸相に就任。宇垣は四個師団の廃止、約三万七千人の将兵の削減など、明治以来初めての軍縮に着手した。
水野はこの軍縮にもろ手をあげて賛成し、軍部が猛反対したことに対して「由来、我国軍人は封建的因襲により国防を我物顔に振舞い、その計画をまでも専断せるは大なる間違いである。国防はもとむと国家の国防、国民の国防にして、断じて軍人の国防ではない」(「軍艦爆沈と師団減少」)と批判した。
 
日本空襲で全国が焦土となることを警告
 
-九三一年〈昭和六)九月、満州事変が勃発し、軍部の暴走が始まった。その直前、水野は友人の松下芳男にあてた手紙で「(陸軍が)満蒙に対する国家の国策にまで容喙どころか、国策まで彼等の軍国思想によって指導せんとするのは越権増長のいたりです。(略)満蒙問題は兵力をもって解決し得ざること、従ってもし陸軍が満蒙合併の為に現兵力を要するという腹があるならば極めて危険で且つ無謀であると信ずる」(同年七月二十日付)と警告していた。
 
 水野が危倶していたとおり、この二カ月後に満州事変は起きた。以後、事変の拡大、軍閥の勃興、中国側の国際連盟への提訴による日本の孤立という推移に対して、松下への書信でいささかヤケ気味にこう述べている。
 「連盟も駄目、軍縮も駄目、世界は軍国主義の昔に返って、何れかが倒れるまで軍備の競争を行い、日米戦争もやるべし、日英戦争もやるべしです。日本国民は今一度現代戦争の洗礼をうけなければ平和への目は醒めません」
  
 非常時が呼ばれ、軍ファシズムがますます高まる中で、水野の活動範囲はせばめられていく。一九三三年(昭和八)八月二十五日、水野は「極東平和友の会」の創立総会に出席したが、右翼の妨害にあい、途中で中止となった。
軍国が謳歌され、軍力、テロが吹き荒れる中で、平和運動は軟弱視されたが、水野は「世に平和主義者をもつて、意気地なしの腰抜けと罵るものがある。テロ横行の日本において、意気地なくして平和主義者を唱え得るであろうか」と反論し、平和を唱える真意をこう書いた。
 「日本は今世界の四面楚歌裡に在る。いずれの国と戦争を開くとも、結局全世界を相手の戦争にまで発展せずには止まないと信ずる。日本の陸海軍がいかに精鋭でも、全世界相手の戦争の結果が何であるかは想像に難くない。」(「僕の平和運動に就いて」)
さらなる時局の悪化の中で、ついに水野は「筆を折って、言論界から退く」と松下への書信に書いた。昭和九年には、水野は自らの心境を次のような歌に託した。
 
   戦えば必ず勝つと己惚れて 戦さを好むいくさ人あり
   わけ知らぬ民をおだてて戦ひの 淵に追ひこむ野心家もあり
   わが力かえりみもせで只菅に 強き言葉を民はよろこぶ
   戦えば必ず四面楚歌の声 三千年の歴史あはれ亡びん
 
  一九三四、三五年(昭和九、十〉にかけて陸畢パンフレット事件、三月事件、十月事件、天皇機関説問題、国体明徴声明、永田鉄山暗殺事件などの軍部内の拡争がいよいよ激化していく過程でも、水野の見通しは的確であった。
 
 「陸軍の朋党騒ぎが、どこまで発展することやら、前途は予測を許しません。もともと喧嘩相手がなくては日の暮せぬ連中ばかりだから、外部の相手が悉く屈服した今日、仲間喧嘩に花が咲くのは当然の成行きで、是も軍隊教育の一つの現われでしょう。結局は外戦になるか、内乱になるか、何うせ血で血を洗うまでは治りますまい」(一九三五年十月一日付)と松下への書信に書いている。
 この半年後に、陸軍の皇道派と統制派の抗争はついには、水野の予見通りに二・二六事件へと暴発したのである。
 
 日中戦争、太平洋戦争へと刻一刻と坂道を転げ落ちていく中で、水野が評論を発表する場はせばめられていく。その分、本音は日記の中で吐露している。水野は日記を欠かさず書いていたが、空襲によって大部分が焼失し、現在、残っているのは昭和十四年分の一冊だけである。
この年はヒトラーがポーランドに侵攻し、第二次世界大戦が勃発した年である。ヒトラーの無法にいきどおり、スターリンの帝国主義を批判し、イギリス、フランスの軟弱な姿勢に切歯やくわんする文句が随所にみえる。
 「独伊軍事同盟成立す。日本もこれに参加せよと呼ぶ連中ある、危ないかな。あばれ武士、二人つれ立ち花見かな」(五月二十二日付) ポーランドが分割された時点では「白昼の強盗なり、ソ連遂に侵略主義に堕す。資本主義国と異なる点ありや。スターリンも亦帝国主義の奴隷なりき、ヒトラー、ムッソリーニと何の異なるぞ」(九月二十二日付)
 
「秋山真之伝」を執筆する
 
今からみると、水野の警告や予言はごく常識的な思考であり、当然の指摘にもみえるが、今から約七十年前の時代状況の中で、あれだけくもりのない冷静、合理的な目と識見で時代の病理や推移を見つめ、的確に批判した知識人が果たして何人いただろうか。
 
  例えば、桐生悠々の有名な「関東防空大演習を噂う」(昭和八年八月十一日付)は敵機が日本本土に来襲し、空襲にあえば木造家屋の多い都市は大きな被害が出るので、敵機本土内に入れないこと、バケツリレーなどの防空演習は全く無意味なことを主張したものだが、水野はこの十年以上も前に、空襲の恐ろしさ、日米の戦力、経済力の客観的な比較によって、「日米戦うべからず、戦えば必ず日本は敗れる」と声を大にして警告しており、その洞察力、先駆性は同時代の知識人と比べても抜きん出ていると思う。
 
 反戦平和主義者として、軍国主義とファシズムの興隆に対して敢然と戦った水野への評価は、これまで決して高いとは言えない。彼は自らを「社会主義看ではなく、国家主義者である」とある新聞で述べているが、決して国家主義者ではなく、自由主義者、リベラリストといった方が近く、、科学的、合理主義的な思考の持ち主であった。
一九四一年(昭和一六)年二月、情報局は、「中央公論」編集部に対して、執筆者禁止リストを示したが、この中には清沢、馬場恒吾、横田喜三郎らと並んで、水野も入っていた。
 
太平洋戦争の敗北がいよいよ色濃くなってくる中で、水野は四三年(昭和18)十月から、郷里の愛媛県越智郡津倉町の瀬戸内海の伊予大島に療養のため転地した。四五年(昭和20)になると、敗戦は確実との見通しを持ち、伊予大鳥で戦争の終結を待ち望んでいた。
八月十五日、ついに敗戦。翌日付けの松下への手紙の中で水野は「国を守る務忘れた軍人が政治を弄し、国ついに敗る、の感があります」と書き

「日本において最も緊急を要するもの国民の頭の切り換えであります。まず、第一に神がかりの迷信を打破すること。すべての生きた人間を人間として取扱うこと、生きた人間を神として尊敬したりするところから、神がかりの迷信が生まれてきます」(九月二十七日付)と天皇制の廃止、国民の自由意志による政治体制を主張していた。この年十月十八日、水野は愛媛県今治市内の病院で死去した。享年七十一歳。

『世にこびず人におもねらず。我はわが正しと思ふ道を歩まん』
水野の墓は松山市の蓮福寺にあり、このような歌碑が建てられている。戦争の時代と正面から対峙した平和主義者・水野の生きざまを象徴した歌ではなかろうか。

<読者から次の指摘がありましたので、該当個所を訂正します。>2011、11、19日

初めてコメントさせていただきます。MVというハンドルネームで「MV STORIA」というサイトを作っている者です。水野広徳が好きで、水野の特集ページも作っています。水野の著作を紹介しているページは、素人作成としてはたぶん現状で一番詳しいのではないかと自負しています。 もちろん先生の編纂された「水野広徳著作集」も読んでおります。水野についての情報を追いかけていると、先生のお名前を頻繁にお見かけしますね。水野の知名度の低さに憤慨している身としては、ぜひとも続けていただけたらと思っています。 ただ、 >日米戦争仮想物語「興亡の此一戦」(東海書院)を出版した。しかし、東京大空襲の火災被害のリアルな描写や日本が敗北するという内容によって、直ちに発禁になった。 ここは、違うのではないでしょうか。「興亡の此一戦」の、検閲で不可とされた部分を伏字にして再刊された「日米興亡の一戦」の空襲部分には伏字が全くありません。伏字は、ほとんどが満州問題を論じた部分です。 また、水野の墓は、歌碑のある正宗寺ではなく、そこから徒歩数分の所にある蓮福寺です。南海放送が「水野広徳著作集」の出版記念の碑を水野の墓の脇に建てています。 しろうと風情が差し出がましいと思うのですが、この2点が前から気になっていましたので、御確認いただけたらと思います。

 

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