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日本リーダーパワー史(227)<日本最強の山本権兵衛―全身これ肝。炯眼人を知りて、克く任じ、豪胆事に当りて、善く善ず』

      2015/01/01

日本リーダーパワー史(227)
 
    <坂の上の雲の真実―日本最強のリーダーはこの人>
 
●『山本権兵衛―全身これ肝。炯眼人を知りて、克く任じ、
豪胆事に当りて、善く善ず
 
 前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
山本伯の使命
 
英国海軍の大御所・フィッシャーは、ワンマン的の独裁者、弩級艦の創案者として、また絶対に人に頭をさげざる人としてあまりにも有名であった。-方、斎藤海相かって筆者に私語して、山本伯の剛情不敵は日本一だが 恐らくは世界1かも知れんと話された。  
              -
 この両雄の綱ひきが何れに勝が上かるかが、実に興味津々たるものがあった。
 山木伯は筆者に対し、かって微笑しながら、当時の話に触れられたことがあった。事柄は日英同盟条約改定に伴う軍事攻守協商にあった。
 
 伯の語る所によれば、英海陸軍の人でさえフィッシャーに対しては、寧ろ正面対談を避ける程度の遠慮であった。自分に対しては、累次会談の後、若干かぶとを脱いだ情況であった。それはフィッシャー元帥が、『自分は決して人に頭を下げたことはないが、例外として、閣下には一歩を譲る。これは日露戦争前後の閣下の業績、技量に対して敬意を表する』と育った云々。
 
 名外相エドワード・グレイは、当時、名声かくかくたるものであったが、山本伯とは、内外の外交の枢機に余程、打解けたる対話があった模様であった。
 
伯が、これから独帝に拝謁に行くと語られたところ、同外相は度々それは止めた方が良いと忠告した。なんとなれば、今日までドイツ帝王に謁した外交官、将帥等知名の士で一人として苦杯をなめない人はない。
 
それは、相手に対し決してロを開かせず、自分のみ横論、高義して、実に応対に悩むと話された。
山本伯はこれに対し、心配は無用、御親切は有難いが自分には相当の自信と考えがある。帰途委細御報告すると御礼を言ったと筆者に話された。
 
伯は、ドイツに入国、謁見前、人を避けて静かに半日静思黙考、方策を錬った。(加藤寛治提督談)
 
いよいよ謁見になると、伯の談論風発、漢文態の説話、水の流るるが如く息をもつかせず、流石のドイツ帝王も口を開かれる機会がなく、焦慮、興奮の状実に無限の興味があった。その上、通訳の任に当たられた井上大使の流暢な英語は明晰、天晴れで、そばで侍立、傍聴していて、実に胸のすくような快感を催した。(八代太郎大将の話、筆者の記僚による)
 
談話の内容はここに略するが、要は伯の壮時、ドイツ艦「ビネット」号乗艦中の思惑、同艦長モンツ伯に対する尊敬、感謝。自分の一生はドイツ海軍に負う所甚大なる点、さらに三十三年、北清事件(義和団事件)の際、独帝が「ワルデルセー」元帥派遣に対する感銘、謝辞などで、深くドイツ帝の心等線に触れ、その熱情に深い共鳴を誘致した結果のためであった。
 
従って、かかる好結果を来した所以は、単に伯のいわゆる押しが強かったためではなく、用意周到、緻密な相手の心理に訴える工夫準備があったためで、後日、ドイツ帝が、後に来訪した伊集院元帥に対し手『自分は今まで、山本伯のような偉人に接したことはない』と話されたことは、その実情を語るものである。
 
 
山梨勝之進
 
 ここに、長文本記述を終り、綜合的に筆者の所感を述べさせて頂けば、かっての懐しき光輝ある旧日本海軍に関し、談一度び之に及べば、山本伯を決して忘るることは出来ない。日清、日露戦役に関連し、その成敗得失を説くもの山本伯を挙げずんば決して真味に触れることは出来ない。
 
東郷元帥に、その演ぜし舞台と、衣裳、装具背景を準備完成、その演出を招請したのは、実に余人ならず山本伯であった。従って、伯の薨去後その功績を謳歌せる人、衆言一致皆伯の首功として、東郷元帥推挙任命の明断をへき頭に掲げざるはなかった。
                     -
 その気塊、勇断、明察、度量、緻密周到なる注意力、其包容性、恐らくは日本民族の誇りとして永遠に日本の歴史を飾るだろう。従って将来また形は変っても、精神に於ては、之を模範として継承、伝奏せる偉人名士の多数輩出我が自家民族に貢献し、及んで世界の平和幸福に資することあらんと祈り願うものである。
次に伯薨去の後、哀悼の意を表せられたる言論の中、代表的のもの二三を摘記して筆を措く。
 
上村彦之丞大将
 
 山本伯を近代の偉傑にて、較べて考うれば西郷隆盛の人物の偉きところへ、大久保利通の器量の勝ぐれたる所を捏ね合せたようなもの乎、実に偉らい人物が出来たものと思う。
二、伊藤博文公
 山本伯の人を見るの明は、予の先輩、木戸、大久保両公も三舎を避けん、東郷元帥推挙の如き最大の実例なり。(凱旋式の時山本伯列席の所にて)
 これほ、明治天皇に申上げられたる辞と略々-致す。
 
海軍中将 武田秀雄
 
 山本伯は近代日本の偉材中最大の偉傑である。三十七、八年戦役の初期、ブラジル公使館附武官が、日本海軍の発達と進歩が列官の驚異とする所である。わずか数年にしてかくの如きは、真に稀れに見るところ、如何なる方針を持たれたのであるか、後学の為ための御高教を承り度いと質問せしに(武田中将通訳)伯は、ただ人材養成に専任したるに他ならぬ。人材があれば、艦船砲機が付随して出来る。これ以外に秘訣はない云々。
 伯の最も私淑せられる近代の偉人は、誰れですかと自分(武田が質問せるに対し、往時は、大西郷に心酔した。今であったらそれ程は思わないかも知れぬ。西都従道侯は実に寛仁宏量最大度の方で、よくあらゆる人を容れられたその点で稀れに見る方と思う。伊藤公は、公平無私偉大な存在であった。
 
徳富蘇峰の「日日だより」抜すい
 
 海相としては、飽和点以上であった。首相としての山本伯はその経綸を施す程の時の機会を得ずして止んだ。伯は中外l切の事、悉く一種の山本流儀を以って貫徹した。他に雷同せず妥協しなかった。しかも、君国に酬ゆる志に至りてほ、何人もこれを疑うものは無かった。しかも伯の家庭及親族生活は、実に日本本来の美を宿したものであった。伯の内臓には実に美にして、且つ温なる情趣が湧出する泉源であった云々。

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