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日本風狂人伝(43)ジョークの天才奇才(1)内田百閒のユーモア『美食は外道なり』(1)

      2015/01/01

日本風狂人伝(43)

ジョークの天才奇才(1)内田百閒のユーモア
『美食は外道なり』(1)

                                        前坂 俊之(ジャーナリスト)
 

内田百閒(ひゃっけん)をしらずして、日本のオヤジは語れんぞ。
 
 
昔はこんな偏屈でこわいオヤジが近所にごろごろいた。そうね、いまから3,40年前だね。不良どもが夜遊びでもしていると、とたんに『何、夜遅くまであそんどる』とカミナリが落ちたもんじゃ。近所の大人のみんなが子供を教育し、しかり、育て、ほめて一緒に助け合って生活していく地域コミュニティがしんかりあった。百閒と同じ岡山市内で生れたわしの小学時代。
 
夏など道路に夕涼み台がでて、ステテコ姿の上半身裸のオヤジどもが将棋や碁を打っとった。その横で、小学生のわしらはベーゴマ、釘立て、石けり、夜はかくれんぼうして遊んでおったよ。地域の中心が怖い、カミナリオヤジたちがいたじゃ。「地震、カミナリ、火事、オヤジ」とはよくいったもの、オヤジは怖くて、強くて、威厳があった。
 いまの、へなちょこオヤジ、電車の中で、酔っ払いの痴漢男がいても、見て見ぬふりと意気地ないモヤシおやじなど、一喝したて殴ったものじゃよ。
 
ワシもオヤジからよくげんこつをくらったな。わんぱく大将、悪ガキのワシなんか中学校でも先生からも、殴られたが、愛のムチと、そんな先生こそ逆に好きになったもんじゃ。今でも殴られた先生の夢をみて、拝んでいるよ。
さてさて、この内田百閒(ひゃっけん)先生ははめちゃ面白い、ひねくれものの、引きこもりの荷風散人とはまるでちがうのじゃ。
 
 
夏目漱石の弟子じゃ
 
永井荷風と並ぶ奇人作家の内田百閒(本名・栄遇)は一八八九年(明治二二)五月、岡山市の酒造家の一人息子として生まれた。六高時代から俳句、写生文を習い「文章世界」に投稿して、田山花袋に激賞された。東京帝国大学独文学科を卒業後、夏目漱石に師事し、大正十一年に短編小説『冥途』を処女出版した。
 
洒脱でユーモアあふれる随筆「百鬼園随筆」「阿呆列車」「ノラや」「日没閉門」など数多くのエッセー、短編小説を発表、その独特なへ理屈を並べた文章は高い評価をかちとった。
 美文家の三島由紀夫が「現代、随一の文章家は内田百閒である」と折り紙をつけたほどの大文章家であると同時に大酒飲みであり、大美食家であり、列車マニアであり、のわがまま一方の合理主義者でもあった。
 
 
岡山の裕福な酒造家の長男に生まれた百閒は母や祖母に溺愛されてわがまま放題に育った。うし年の生まれなので、牛のおもちゃをたくさん買ってもらったが、どうしても「本物が見たい」と無理やりせがんで、庭に牛小屋を作ってもらい、ペット代わりに牡牛を飼ったこともあった。]
 
酒の匂いをかぎながら百閒は育ったが、「酒は学校を出るまでは絶対に飲んではいけない」と祖母から固くクギをさされた。このため、「日本酒は酒だが、ビールは酒ではない」との百閒一流のへ理屈をつけては、旧制高校に入ってから、ビールはどんどん飲み始めた。
 
世の中に、人の来るこそ、うるさけれ、とは云うものの、お前ではなし」
 
一九六五年(昭和四〇)ごろ、内田百閒の自宅は東京千代田区六番町にあったのじゃ。その門柱には『春夏秋冬、日没閉門』なる門札がかかっており、玄関には面会謝絶の張り紙もね。ところが、この門札が掲げられる以前は蜀山人の歌とそれをもじった百閒の歌が並べて張ってあった。
 
世の中に、人の来るこそ、うるさけれ、とは云うものの、お前ではなし」
「世の中に、人の来るこそ、楽しけれ、とは云うものの、お前ではなし」
 
この張り紙をみた訪問者はよほど気の強い者でないと退散した。
 
 
ところが、歌の文句の「楽しけれ」のところは、いつも訪問客にはぎ取られるため、ついに百間もあきらめれ、はがれたままにしていたということじゃ。
 
 
「春夏秋冬、日没閉門」の門札はわざわざ銀座の名札屋に注文して、陶板にやきつけて、りっぱなものを掲げてあった。文字は黒々とはっきり書かれており、「日が長い時も、短い時も、夕方六時であろうとも、暗くなったら、もう入れませぬ」というわけだ。
 
百間は人に会うのがイヤなのではなく、一日の仕事を邪魔されるのがイヤなのであった。玄関を入った三畳間にも、なるべく来客を避ける札がベタベタと張ってあった. 
一九一〇年(明治四三)、東京帝国大学に入学すると「漱石山房」に出入りした。漱石の門下生となり芥川龍之介、森田草平、鈴木三重吉らの知遇を得た。漱石にいたく私淑していたが、内気な性格のため終生、先生の前では緊張して固くなり、本音をしゃべれなかった。その代わり、先生の謦咳に接した記念として、漱石の鼻毛をこっそり収集して自慢していた。
 
漱石の鼻毛は長いものや短いものなど計十本あり、そのうち二本は金毛。漱石は『吾輩は猫である』のクシャミ先生のように、鼻毛を抜いて原稿用紙に一本一本ていねいに植えつけるクセがあった。
 「道草」の原稿で書きつぶした草稿が机の横に一五,六センチたまったものを百閒は分けてもらった。この草稿の中に、鼻毛が植えつけられたものがあり、大切に保存していたのである。
世に遺髪というものはあるが、「遺毛?!」それも文豪の鼻毛を大事に保管していたのは百閒以外にはいないのではなかろうか。百閒は『物故文人展覧会』に出品すべき「一大記念品!」として、皆に見せては一人悦に入っていた。
 
 
 
『ハトの目』-が百閒のあだ名
 
『ハトの目』-夏目漱石の息子・夏目伸六は百閒のあだ名をこうつけていた。
 大きな顔にちょっと驚いたよう大目玉が、まるでハトの豆鉄砲に似ているところから。百閒は人の古着を譲り受けて着るのが趣味で、漱石の古着の洋服を得意がって着ていた。
 百閒は「カツレツを毎日五,六杯は食べる」という大食漢だったため、小柄な漱石の洋服を肥った百閒が着ると、股のボタンがはじけとんだ。
 ある時、そうした古着をきて百閒は意気揚々と旅行に出かけたが、夜汽車で寝台によじのぼって中に入ろうとした途端、ビリビリとズボンが足から腰のところまできれいに破れてしまった。
 翌朝、やむを得ずパナマ帽に赤い編上靴,浴衣という珍妙なスタイルで旅館に駆け込んだが、旅館では「一体何者や」と不審がられた。
 
 
「美食は外道なりじゃ」
 
内田は「美食は下道」と称していたが、いわゆる食通と違い、はるか上の「ぜいたく食芸術家」で、その意味では魯山人と似ており、徹底して内田流がつらぬかれたのさ。ほんとうの美食家だね。とうふはどこの何でなくちゃいけないとか、うなぎはどうとか、こだわりが一筋縄ではない。
「おかずの名前を知るは貧乏人なり、おいしい物しか食べぬは外道なり、おいしくない物を好むはなお外道なり」とさ。
百閒は大の食通であり、美食家であったが、「美食は外道なり」と断じていた。
「おかずの名前を知るは貧乏人なり、おいしい物しか食べぬは外道なり、おいしくない物を好むはなお外道なり」(昭和十一年七月)を主義にしており、食べ物にも事欠いた戦争下でも戦後の窮乏時代も毎日の「お膳日誌」だけは欠かさず書いていた。
戦争末期の昭和十九年には旨いものを食べたいとその品名を並べた『餓鬼道肴疏目録」を書いたり、食べもののなくなった昭和二十一年には「御馳走帳」まで出版している。
 

人生最高の楽しみ!毎朝、今晩のおかずを考えろ

百閒は毎朝、起きると布団の中で、まず今晩のおかずをどうするかを考えた。一番大切なことは午後五時(夏は七時)からの夕食であり、このため玄関に「夕刻以降お目にかかりません」の面会謝絶の張り紙を掲げた。
晩酌がまずくなるので間食をとったり、昼間に呑むことは決してしなかった。こりに凝ったメニューを必ず書きとめた。
ある日のメニューをみると何とも豪勢である。

『鯛刺身、鯛切り身焼き、塩さば、ベーコン、小松菜、サトイモ、ふきの葉のふき味噌、おろし大根、納豆、かつぶし、豆腐の味噌汁、塩しゃけ、アジの干物、つけあみなど十九品目にビール三、酒おかん一』(三月三一日)といった具合で、百閒流の究極のこだわりがあり、なんともゼイタクな夕食である。 

 
 
お膳のマナーもまたことのほかきびしい、毎晩の献立表が板ばさみで挟んででる、サワラ刺身、ショウガジヨウ油、このわた、フキのとう、酢味噌とか、ずらりとメモに、細かな字で書いている。ひとつひとつこれを確認する。自分のお皿の配列とお客のと同じでないと気にいらない。なんべんも並べかえる。
そして1点1点、点検する。この次にくるのは何番目のかばやきだとか、今夜はすきやきで伊勢の松阪肉だとか、たいてい、七、八品はあった。
 
生まれが瀬戸内海の岡山で、魚についてはたいへん注文がむずかしい。関東の鯛なんかまずくって食えないと怒っているかと思うと、その鯛、平目の刺身が毎日お膳に並んでいないと機嫌が悪いんですね。好きな物にずうっと凝っちゃうタイプ。ひと月でもふた月でも同じものが並んでいないと気に食わない。

 
 百閒の食通で有名だが、一風かわった味覚の持主でもあった。まずコーヒーを飲み」それからカレーライスをおもむろに食べる。コーヒーを飲むとカレーライスを食べたくなるのである。

亡くなる1年ほど前には、なじみの秋本(うなぎ屋)に行って1ヵ月は二十七日間もぶっ続けににうなぎのかばやきを食べ続けていたというから、・・・。

酒の味は空腹時が一番うまいのじゃ、美食の秘訣は空腹よ。

 
 
内田はよく人を呼んでご馳走した、その心つかいはまたまたたいへんなもの。招待された方も気が気でない。お箸とか杯に、始まるまでさわっちゃいけない。膝に手をおいて、じーっと待っている。皿、小鉢が目の前に並び出すと、自然によだれがたまってくる。パブロフの条件反射をちゃんと計算しているのだね。
 
親友の文学者・高橋義孝が約束の六時の「五分前かに訪ねていったら、そんな早く訪ねてこられたら手順が狂っちゃう」とおこる。こんどは六時五分すぎに行ったら、「六時からいまの五分までの間いらいらしている気持ちをどうしてくれる」と文句をいう。
ではと六時ぴったりに行ったら、「そんなにぴったり来られたらびっくりするじゃないか」とこれまた小言をいう。「じゃ、いつ行きゃいいんだ」とあのへそ曲がりも根を上げた。
内田は、六時になったら玄関でいつも「落着かぬそぶりで、まっていた」のである。
 
晩年は酒なら何でもござれの酒豪、酒仙となった。酒の味は空腹時が一番うまいと、食事は一日一食におさえて、夜、趣向をこらして美食に、酒を添えた。酒が入っていい気分になると、十八番の「鉄道唱歌」を大声で歌いだして、新橋から各駅の名前を東海道、山陽、九州と延々と歌い続けた。
 
「お酒」を呼び捨てにする奴はいかしておかぬ

百閒は「お」の使い方にことのほかうるさかったらしい。「床の間に活けてあるのは、花であり、仏壇に挿してあるのはお花である」といった具合で、特に「酒」に関しては絶対に「お酒」であった。

生家が造り酒屋であり、自分が好き放題呑みまくり、長年お世話になった「酒」に対して、とても「呼び捨てなど出来ないし、出来た義理でもない」のじゃね。
東京大空襲で、命からがら逃げ回る際も一升ビンを「これだけは、いくら手がふさがっていても、捨てていくわけにはいかぬ」と手放さず、逃げまどいながら、ポケットに入れてきたコップで酒を飲んだ。

 
 
まんじゅう隊長の号令!「気をつけ!」「休め!」

岡山出身の百閒は、地元の「大手まんじゅう」を天下第一等のおいしさと折り紙をつけていた。大好きなこのまんじゅうを食べる時は,フタを開けて、ずらりと並んでいるマンジュウに向かって「気をつけ!」と号令をかけた。
しばらくして「休め!」と声をかけてから、やおらその中の一つで食べられたがっているものを探し出しては、つまんで食べた、いうから恐れ入る。


ああ疲れるね、内田先生と文章だけでお近づきになるのもね。
 
参考文献=月刊「噂」(昭和46年8月号)の『内田百閒をしのんでー奇人どころか、これほどまっとうな人はいなかった-三人の〝弟子″が語る老大家の素顔』(高橋義孝(九大名誉教授)×平山三郎(講談社・内田百聞全集編集係)× 小林博(小説新潮)編集部)
 
 

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