日本風狂人伝(44)ジョークの天才奇才(2)内田百閒のユーモアとは・・『百閒(ヒャッケン)とはシャッキン(借金)』
2015/01/01
「借金こそ心的鍛錬であり、貧乏人から借りるのが、借金道の極意である」
金が余っているだろうと思うと、借金地獄で首が回らない時に、こうしたゼイタク風呂を思いついては実行した。漱石の弟子の森田草平は、百閒の貧乏と借金哲学を、雑誌できびしく批判した。
百閒は百閒で、人力車や自動車に乗って借金に行くのは「何も車に乗りたくて、乗るのではなく、ただ行き帰りの電車賃にすら事欠くのでやむを得ず車に乗るのだ」とへ理屈をこねていた。百閒は「ムダなことに事に金を使うことは惜しくない」のである。
借金することを百閒は錬金術と称していた。百閒の究極の錬金術とはー。
「借金こそ心的鍛錬であり、できれば、貧乏仲間で借金をしてきた人から借りるのが、借金道の極意である」
「人が金を貸してくれと云った時、向うの頼む額より少なく貸すと返りにくい。
出来る事なら少々余裕をつけてやる方がよろしい。借りた方で非常に使いいから、従って融通もつき易く、返すのがらくである。
金を貸す時けちである事は、双方の不利益の因をなす。第一、金を借りる側は困って頼むのであるから、それを値切るという法ない」
「借金取りに払う金をこしらへるために、借金して回るのは二重の手間である。むしろ借金を払はない方が借金をするよりも目的にかなっている」
百閒は自分の建てた家が池に臨んで建っていたので、金閣寺になぞらえていた。しかし、金閣寺と命名するのは芸がない、と「禁客寺」と名づけた。名前の通り、『誰も上がらせないから、みなさんそのつもりで』ということである。
二人が対談の仕事をしていた時、飲みすぎて百閒は相当酔っ払った。
夢声が麹町の百閒の自宅までタクシーで送った。百閒は「上がれ」といい、夢声が断ると『五分間でもよいから上がれ』とすすめる。
夢声は「本当に五分間でよろしいのですか」と念を押して、仕方なく上がった。夢声はじっと時計を見ていた。
百閒が着替えて座った途端,夢声は「ただいまお約束の五分間が過ぎましたので、これでごめん下さい」とサッサと表にでて、車に乗り込んだ。
百閒は顔色を変え追いかけてきて『徳川さん、それでよいのですか』と問いただした。『ハァ、よろしいのです』と夢声は涼しい顔で帰宅した。家に帰った夢声はやっと一服して、妻にこぼした。
「イヤ、驚いたよ。百鬼園先生(百閒のこと)には。僕も世間からはずいぶん奇人だの、
変人だのとうわさされているが、先生にくらべたら全く勝負にはならん」「そんなに変わった人なの」
「そりゃもう、変わっているのなんのって」
と話していると、トントンと門をたたく音がした。こんなに遅く誰だろうか、と2人は顔を見合わせた。
門を開けると、百閒が先ほどの酔っ払い姿とはうって変わって、羽織袴でステッキを持って威儀を正して立っていた。
「お休みのところを失礼ですが、一言、ご注意申し上げたいことがありまして参りました」といんぎんに話し始めた。
「ハァ・・・?」「ほかでもありませんが、イヤシクモ、他人の家にきて、お茶一杯も飲まずに帰るというのは、これは無礼もはなはだしきものです」
「いやどうも・・」
「そもそも、主人の許しを受けず、無断で外にでることが怪しからんのです。それがもし他の人なら、私も黙ってそのままにしています。しかし、あなたは今後、永くご交際したいと思っている方ですから。その方が、そういう礼儀に外れた行いをなさるのを、私は友人として黙っておられません。一言、ご注意申し上げて、あなたの反省をうながすしだいです」
「どうも相すいませんでした」
「おわかりですか。おわかりならば、それでよろしい。では、これで御免・・」
百閒が帰ろうとするところを、夢声は引き止めた。
「まあ、ちょっとお入り下さい」
「イヤ、自動車を待たせておりますから、帰ります」今度は夢声が怒鳴った。
「イヤシクモ、一歩門内に足をお入れになった以上、ここでは私が主人です。他人の家に来ながら、お茶一杯も飲まずに
帰るのは無礼というものではありませんか」
やむなく、百閒は応接間に通った。夢声が駅前まで走り、ビールを買ってきて、冷えていないビールをひげを泡だらけにし
ながら飲んで大騒ぎとなった。
百閒はまたオナラの名人だった。
夢声が自宅に招かれ、ご馳走をたべていると、百閒はいろいろ小言を言いながら、その間、「ブー」「バリバリ」と堂々と放屁した。
夢声が聞いた。
「あの、チョット、うかがいますが、さきほどから、2度ほどオナラをなさいましたが、あれは意識しておやりになりましたので・・」
「もちろんです。意識せずにオナラが出るようでは、もう長いことありません」
「そういたしますと、私は一種の侮辱を感じるんですがね」
「なぜですか。オナラというものは、生理現象ではありませんか」
「それはその通りです。しかし、どうも・・」
「ムセイさん、あなたはオナラはなさいませんか」
「無論、やりますよ。それは」
「それならお互い様ですね」
「しかし、私は人前で、音を出してはやったりしません」
「では、スカスわけですか」
「いや、やるなら便所でやるとか、廊下へ出てやるとかします。とにかく、こうしてせっかくご馳走になっていても、ブーという音を聞きますと、私はとたんに妙な場所を連想して、ご馳走がまずくなります」
「そんな連想はせんことですな」
「せんことですって、無理です」「なにが無理ですか?」
というわけで大論議になった
週刊朝日で徳川夢声と対談した後、百閒に編集部員が対談料を封筒に入れてそのまま差し出すと、「これは何ですか」と改まった口調で聞いた。記者の方がドギマギしながら、「お車代というか、原稿料です・・・」と答えると、百閒は突然、烈火のごとく怒り出した。
「こんな無礼千万な扱いをうけたのは、生まれて初めてです」
座は一瞬、シーンとなった。
「人を呼んでおいて,しゃべらせておいて、その場で金を出すとは何事ですか」
といきなり、金一封の封筒を畳にたたきつけた。飛び上がって驚いたのは編集部員。
とりつくしまもなく、オロオロしていると、百閒はしばらく間をおいて
金一封などいらぬ・・・といって最後は
「朝日新聞ともあろうものが、なぜ、翌日でも翌々日でも使いのものをよこして、誠にご苦労様でした。これは些少ですが、お車代としてお受け取りください、と礼を尽くさないのですか・・・・」
「本来なら、海に投げ捨てるのですが(座敷のすぐ横が海だった)、そうすれば君たちももう一度会計に行って金一封をもらってこなければならない。気の毒なので、今日のところは仕方なくもらうことにしておきますが・・・・」
と、もつたいつけて言うと、編集部員はやれやれ、とホット一息ついた。
オナラと並んで、百閒の有名な川柳の一つに、 「長い塀、つい小便がしたくなり」というのがある。
何事にも異を唱える奇人の百閒は太平洋戦争中、ほとんどすべての文学者が戦争協力の片棒を担ぐために結成された「日本文学報国会」への入会を拒否した。
「大菩薩峠」で知られる中里介山と百閒の二人のみである。
ドイツ文学者の高橋義孝が百閒を自宅まで送るため、タクシーに一緒に乗った際、高橋が気をきかして運転手に道順を説明した。
「そこを右に曲がって、妻恋坂を行った方が近道じゃないかな」
百閒がギョロ目をむいて、反対した。
「高橋さん、私は天皇、皇后がお通りあそばす道以外は、通りたくありませんな。運転手君、行幸啓の大きな道だけを通ってくれたまえ、近道なんかする必要はないよ」
「金はオレが払うのに。このくそジジイめ。」と高橋はあっけにとられるやら、腹が立つやら。
とにかくすべてに百閒流儀が貫かれていた。例えば、タバコ好きの百閒宅には三種類の灰皿があった。一つは燃えさしのマッチ棒を捨てる灰皿、タバコの灰を落とす灰皿、吸殻を捨てるものと三つである。
これを間違えて、違う灰皿に捨てると、百閒は怒った。タバコを吸う場合も、小さなピンセットを取り出してピース缶のふたを開けて,のぞき込んで「どれが吸われたがっているかな」としげしげと眺めて、一本をつまみ上げては吸っていた。
「三畳御殿」
一九四五年(昭和二十)五月、空襲で百閒宅は全焼した。百閒はメジロを入っている鳥かごと0・18㍑ほど入った酒ビンを大事に持って火の中を逃げ回って助かった。焼け跡に三畳間の掘っ立て小屋を立て「三畳御殿」と称していた。
一畳には戸棚、残り二畳が生活のスペース。机を置いて食事と物書き用に使う。夫人と二人が座ると、お客も入れないので、奥さんは出ていて用事が済むのを待つ。炊事場も便所も表にあり、雨の日はカサをさして料理をしていた。ここで、珠玉の随筆や短編を書き続けた。
鉄道マニアの百閒が東京駅長になったのは一九五二年(昭和二五)十月一五日のこと。JR(国鉄)は鉄道八十周年記念行事の一環として、百閒ら名士に一日駅長をお願いしたのである。
ワクワクして眠れぬ一夜を過ごした百閒は駅長の制服制帽をつけて、胸を張って家を出たのはよいが、細い路地からこわごわと、あたりを見回した。「犬が間違えてかみつかないかと心配」なのである。
午前十時半に駅長室に現れた百閒は、目をギョロリとむいて、居並ぶ幹部を前に「命により本職は本日着任す。部下の諸職員は鉄道精神の本義に徹して規律をよく守り、規律のためには千トンの貨物を雨ざらしにし、千人の人を殺しても差しつかえない。
大衆というものは烏合の衆であるから、ぐずぐず申すやからは汽車にのせなくてもよろしい」と過激な訓示を読み上げては、ニヤリ。
午後一時までの勤務の予定だったが、汽車好きの百閒は特急「はと」が汽笛一声、東京駅を発車するや否やそれに飛び乗って、最敬礼して中村駅長に挙手、「職場放棄」してしまった。百閒は展望車から「これで辞職だよ」と手をふって、一路東海道線を西へ。
東大でドイツ文学会があり、ある教授が百閒を訪れ、同会の長老としてぜひ顔をみせてほしいと依頼した。
「顔を出せばいいんですね」と百閒が念を押すと「はい、それだけで結構です」と教授は懇願した。当日、百閒は白い手袋をはめ、ステッキを持って現れた。会員は一斉に拍手で迎えたが、顔をチラッと見せただけで「みなさん、ではサヨウナラ」と手を上げてサッサと退場してしまった。
芸術院会員断る。イヤダカラ、イヤナノよ
百閒は芸術院会員に推薦された時、これを断ってしまった。
「会員になれば、貧乏な自分にとって、六十万円の年金はありがたい。しかし、自分の気持ちを大切にしたいので、どんな組織も入るのがイヤだから辞退する」
百閒は知人に名刺に辞退する口上メモも書いて託した。
「辞退申シタイ、ナゼカ、芸術院トイウ会ニハイルノガイヤナノデス、気ガ進マナイカラ、ナゼ気ガ進マナイカ、イヤダカラ、右ノ範囲内ノ繰リ返シダケデオスマセ下サイ」
高峰秀子のファンレターもけむに巻く
女優の高峰秀子は百閒の作品の大フアン。
ある時、彼女は思い切って「内田先生のファンなので1度でいいからお目にかかりたいのです。お願いします」とファンレターを出した。二週間ほどして百閒から返事が届いた。
「私もあなたにお目にかかりたいと思います。しかし、私の机の上には、未整理の手紙が山積みとなっており、また、果たしていない約束もあります。
これを整理しているうちに、まもなく春になり、春の次には夏がきて、夏の次には秋がきて、あなたと何月何日にお目にかかるか、と言うことを今から決めることはできません。どうしましょうか」
高峰は思わず吹きだしてしまい、会う約束はパーとなってしまった。
大のネコ好きの百閒は「ノラ」という名前のネコを飼っていた。ある日、ノラが行方不明になり、泣いて暮らした。平山が相談を受けて行くと、顔を蔽ってワーツと泣き出す始末。マタタビの粉を持って猫のいそうなところに振りまいて歩いたり、麹町の六番町から四ッ谷駅の方まで、くまなく探して歩いたり。
「ネコを探す。ネコがいると思われる見当は麹町界隈。無事に戻れば三千円差し上げる」、
ところが連絡はゼロ。
再び、「迷ってきたそのネコをそのまま飼っているお宅どうかお知らせ下さい。ノラとよべばすぐ返事をする」、これもゼロ。
『三度迷うネコについてお願いする』を出しても、これまたダメで、
「これほど探しても出てこないのは外国人のところに迷い込んだにちがいない」
と今度は英文で探しネコのチラシをまいたが、結局出てこなかった。
「借りるのではなくて、もらうのだが、表向きは借りたことにしておかないと具合が悪い。今晩こうして僕の願いを聞いている、皆さんのお顔の数は五十人に足りないけれど、口数にすれば五十より多い。
僕は近いうちに五百万円というお金をフトコロにする、めぐりあわせになった。それを片っ端から使っていって身近の用に充てる。悪くないではありませんか。へっへっへ」
そして、先生は紅白のヒモのついた大ジョッキーを一気飲みで、グィと底まで飲み干して、一同驚異の目でこれを見守るといった具合で宴は一挙に盛り上がった。
自宅でいつものように百閒は、横になったままストローでシャンペンを飲んだ。
「何があっても取り乱しちゃいけないよ」「多すぎるな、(お前が)が半分飲めよ」と夫人にいったのが、最期となった。
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