前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

明治裏面史②―『明治の黒幕』三浦梧楼とは何者かー『外国新聞による人物評『ジャパン・ウィークリー・メイル』

   

明治裏面史②――『明治の黒幕』三浦梧楼
とは何者かー『外国新聞による人物評『ジャパン・
ウィークリー・メイル』
 
 
●『賊徒平定し凱旋、戦況を奏上』
       東京日日(毎日)1877(明治10)年112
                   
 三浦、谷、三好の三少将は、昨日の午前七時四十分横浜へ入港の汽船西京丸にて来着せられ、直に上陸ありて東海鎮守府に人らる。同所には出迎として岩倉、大久保・大隈、寺島、伊藤、大木、黒田、西郷、川路、田中、山尾、杉の諸公よりその他の諸君が待受け、楼上に於て茶菓の饗応あり。
 
頓て三少将は出迎えの諸公と共に午前十時四十五分の汽車に乗り込まれ、十一時五十九分に新橋の停車場へ着せられ、同所の楼上に休息ありて同じく茶菓を饗せらる、宴より三少将は兼て宮内省より曳せられし御馬車に乗り移られ、第一に三浦少将は岩倉、大木の、両公と、第二に谷少将は大久保、寺島の両公と、第三に三好少将は大隈、伊藤の両公と同車せられて停車館を出らる、
 
儀伎兵一小隊馬車の両傍に引添い、巡査は新橋より幸橋まで路次に整列して非常を戒む。正午十二時四十七分仮皇居へ着せられし、元御学問所に於て拝謁あり。御前に於て戦況を奏上せられして勅語あり。
 
 
 
 
●『外国新聞に見る人物評「日本人列伝・三浦梧楼1880(明治13)年5月15日
       『ジャパン・ウィークリー・メイル』
 
 三浦将軍伝―
長州藩の出身で、安藤という姓だったが、日本の慣習に従って養子となり、義理の父の姓を名乗り、その財産を継いだ。幼少年期には、恐れを知らない気性と勉強熱心なことで知られ、とりわけ兵法に関する勉強に身を入れていた。
 
 幕府が長州藩主に征伐隊を差し向けた折、三浦は山県将軍ら有力な指導者とともに、堅固な態度を見せて迫りくる危険と対決すべきだと落内で熱心に説いた。彼らの熱意が効を奏し、長州藩士は藩を愛する心に燃えて、庭先に侵入してくる者たちを撃退するか、さもなくば最後まで勇ましく抵抗して死ぬ覚悟をした。
 
 討伐の結末は歴史に残っている。分遣隊を率いて小倉街道で戦った三浦は征伐軍側を少なからず苦しめ、いくつかの激しい戦闘で打ち負かされた敵軍は安全な地点まで撤退した。政治情勢の変化にともなってこの長州侵攻は途中で中止された。
 
幕府当局は増大し続ける勤皇派勢力を相手に北で、生存を賭けた闘争を演じていたのだ。
 三浦は維新の戦いで顕著な働きをし、越後を平定する任務を得て官軍を指揮した。若いころの訓練が後年の厳しい実践を経てさらに磨きをかけられたその成果が今や余すところなく発揮された。
三浦は反乱軍に対して次々と輝かしい勝利を収め、完膚なきまでに敵を叩きのめしたので、この討伐が終わったときには天皇の権威は堅固に確立され、不満分子ほけちらされていた。
 ふたたび平和が戻ると、三浦は陸軍中将に任命され、その後、勲四等を授与された。
 一八七六年、前原一誠が反旗を掲げた。当時大阪鎮台司令官だった三浦は、蜂起軍が兵力を増強するひまのないうちに鎮圧しようというので急いでかき集められた軍勢を率いて討伐に向かった。
 
三浦は萩まで強行軍を行い、反乱軍と数回戦闘を交えた。その結果、政府に対する武装蜂起は散発的になり、やがて鎮圧された。
 
 この任務が成功裡に終わったか終わらないかのうちに薩摩の反乱が勃発し、政府は持てる力のすべてを動員し、指導者たちは技能とェネルギーを極限まで注ぎ込まなければならなくなった。三浦は一部隊の指揮を取って、この波乱の時期に行われた重要な戦闘のすべてで大きな役割を果たした。
 
肥後、大隅その他、激しい戦いがくり広げられ、危険に満ちているところには必ず、最前線で戦う三浦の姿があった。死、何するものぞという捨て身の勇猛ぶりで部下を率いる三浦に、敵でさえ賞賛の念を禁じ得ず、味方は競争心をかき立てられた。激しい戦いは城山の決戦をもってついに終結し、軍勢は甚しい辛苦と大きな犠牲ののちに休息することができた。忠実な働きと不屈の勇気に対する論功行賞が行われたさいには三浦もその配分にあずかった。
 
中将に昇進し、勲二等旭日章を授与されたこの武将は今も知力、体力ともに旺盛で、これからも、国の情勢が彼の奉公を必要とするときがくれはいつでもその勇ましい刀をふるい、祖国の歴史の新たな章に記すべき逸話の材料を提供する用意がある。
 
 
●明治裏面史――三浦梧楼が『近代日本の黒幕』頭山満を語る
 
 
 
●鵜崎鷺城著『奇物凡物』より『三浦楼梧論』

 - 人物研究 , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『Z世代への日本戦争学講座』★『世界海戦争史上、空前絶後の勝利だった日本海海戦ー山本権兵衛のリーダーシップとインテリジェンスに学ぶ』

2009/04/08 2015/01/02、記事再編集 1・・パリで最高にもてた …

no image
『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー,リスク管理 ,インテリジェンス㊶★『明治37(1904)/2/4日、日露開戦を決定する御前会議が開催』●『明治天皇は苦悩のあまり、10日ほど前から食事の量が三分の一に減り、眠れぬ日が続いた。』★『国難がいよいよ切迫してまいりました。万一わが軍に利あらざれば、畏れながら陛下におかれましても、重大なるご覚悟が必要のときです。このままロシアの侵圧を許せば、わが国の存立も重大な危機に陥る(伊藤博文奏上)』

  『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(36)記事再録/『東西冷戦の産物として生れた現行憲法』★『わずか1週間でGHQ(連合軍総司令部)が作った戦後憲法草案①』★『「マッカーサー憲法」草案は4日から10日までのわずか1週間の超スピード作業でつくられ、十二日に印刷されたが、この間、厳重な機密保持が成功して、日本側には一切知られることはなかった。』

    2013/01/04 &nbsp …

no image
日本リーダーパワー史(203)『辛亥革命100年』・今後の日中関係のヒント②日本最大の革命家・宮崎兄弟はスゴイ!

    『辛亥革命100年』・今後の日中関係を考えるヒント② …

『オンライン講座/今、日本に必要なのは有能な外交官、タフネゴシエーター』★『日本最強の外交官・金子堅太郎のインテジェンス➄』★『ルーズベルト大統領は「旅順陥落」に大喜びー 黙っていると”Silence is Consent”(同意した) とみる。どしどし反論せよ』★『黄禍論と戦う、旅順の戦闘、日本海海戦の大勝利に大統領も大喜び』

    2017/06/25日本リーダーパワー史( …

no image
日本リーダーパワー史(600)<まとめ再録>『アメリカを最もよく知った男・山本五十六連合艦隊司令長官が真珠湾攻撃を指揮した<悲劇の昭和史>

 日本リーダーパワー史(600) <まとめ再録>山本五十六は名将か、凡将か!? …

no image
日本リーダーパワー史(121)日露戦争勝因のロスチャイルド秘話=怪傑・秋山定輔のインテリジェンスはスゴイ

日本リーダーパワー史(121)日露戦争勝因の秘話=怪傑・秋山定輔のインテリジェン …

「Z世代への遺言」★「日本を救った奇跡の男ー鈴木貫太郎首相①』★『昭和天皇の「聖断』を阿吽の呼吸でくみ取り、『玄黙戦略」でわずか4ヵ月で80年前終戦を実現』★『太平洋は神がくれた平和の海でトレード(貿易)のためのもの。これを戦争の海に使ったならば、両国ともに天罰を受ける』

  2024/08/16   記事転載再編集」   …

no image
日本風狂人伝(26) 日本一の<ジョークの達人>内田百閒 のユーモア②

日本風狂人伝(26) 日本一のジョークの達人内田百閒 のユーモア②        …

no image
日本リーダーパワー史(818)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、インテリジェンス㉝『日本史決定的瞬間の児玉源太郎の決断力⑤』★『児玉は日露外交交渉は不成立の見通しを誤る』★『ロシア外交の常套手段である恫喝、武力行使と同時に、プロパガンダ、メディアコントロールの2枚舌外交に、みごとにだまされた』

 日本リーダーパワー史(818)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」し …