前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

<再録>世界が尊敬した日本人(38) 柔道を世界的なスポーツにした嘉納治五郎

      2015/12/14

<再録>世界が尊敬した日本人(38)

 柔道を世界的なスポーツにした嘉納治五郎

前坂 俊之(静岡県立大学名誉教授)

国技の大相撲がスキャンダル(2008年のこと)まみれで、人気が低迷しているのと比べ、柔道はいち早く国際化し世界中に『JUDOU』として普及した。特にフランスでは、サッカーやテニスに次ぐ人気で競技人口は約56万人にものぼり、本場日本の約3倍。小さな町にも柔道クラブがあり、多くの子供が「レイ」「ハジメ」「マッタ」など日本語で稽古をし、「カノウジゴロウ」はフランスで最も有名な日本人となっている。

嘉納治五郎は,1860(万延1)年10月、神戸市東灘区御影町の酒造家に生まれた。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%98%89%E7%B4%8D%E6%B2%BB%E4%BA%94%E9%83%8E

開成学校(東大の前身)に進み,哲学,政治学を専攻した。嘉納は背が低く生来、虚弱な体質で,学校ではいじめられ、コンプレックスを抱いていた。これを克服して強い体を作りたいと柔術の門をたたいた。

各流派のワザの長所を取り入れ、『柔よく剛を制す』『小よく大を制す』の武術を創造する一方、勝負、体育、修身の3つが習得できる科学的なスポーツとしての柔道を完成した。明治15(1882)年、東京下谷稲荷町に「精力善用」「自他共栄」をスローガンにした『嘉納塾講道館』を開いた。入門第2号は、小説『姿三四郎』の作者、富田常雄の父・富田常次郎七段である。

講道館柔道は柔術各流派と他流試合を行い圧倒的な強さを発揮、警視庁や軍隊、大学などに導入され日本全国に普及していった。嘉納は弟子たちを欧米に派遣して、柔道の海外普及にも努めた。

明治35年、山下義韶8段が

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%8B%E7%BE%A9%E9%9F%B6

ルーズベルト米大統領からホワイトハウスに招かれ、2倍もの大男のレスラーと対戦し一発で投げ倒した。強い柔道にほれ込んだ大統領は早速、弟子入りしたという。世界各地で異種格闘技戦を転戦し、生涯1千勝以上という無敗記録を達成したという『不敗伝説の男』前田光世四段もこの海外派遣組みの1人であった。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%89%8D%E7%94%B0%E5%85%89%E4%B8%96

柔道の海外普及は日露戦争前後の世界的な高まり「ジャポニスム」と一体になっていた。フランスを中心に、日本美術への関心から始まった「ジャポニスム」は

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B8%E3%83%A3%E3%83%9D%E3%83%8B%E3%82%B9%E3%83%A0

日本独自の文化へ、日本人の強さの秘密としての柔道に波及した。当時まだ女性誌でなかった米大衆雑誌『コスモポリタン』も明治38(1905)年5月号で「柔道」を大きく取り上げているほどだ。

もともと嘉納は柔道家と同時に、教育指導者であり五高(現熊本大)、一高(現東大教養学部)、東京高等師範(現筑波大)などの校長を歴任し、教育、スポーツの普及に尽力した明治期を代表する国際人であった。

そんな嘉納を見込んで明治42(1909)年、近代オリンピックの父・クーベルタンから「アジアのオリンピックの普及のためIOC委員に就任してほしい」と要請があり、IOCで初のアジア委員に選ばれた。当時はオリンピックといっても誰も知らず、スポーツもまだまだ黎明期の時代。

嘉納はスポーツの盛んな東大、早慶明など各大学に呼びかけて大日本体育協会を設立して会長となり、オリンピック参加を準備した。1912年のストックホルム大会にマラソンの金栗四三https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%91%E6%A0%97%E5%9B%9B%E4%B8%89

、陸上短距離の三島弥彦

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%89%E5%B3%B6%E5%BC%A5%E5%BD%A6

の2人を派遣し、自ら選手団長として堂々と入場した。この時、プラカードの国名は最初は「JAPAN」となっていたが、大会直前に嘉納が主張したため、「NIPPON」に変えられたという。
昭和11(1936)年のIOC総会(カイロ)で嘉納は東京開催をヘルシンキと競って勝ち、昭和15(1940)年に第12回大会を東京に招致することが決まった。しかし、昭和13年(1938)5月、嘉納はIOC会議から帰国途中の氷川丸で肺炎により77歳で帰らぬ人となり、第2次世界大戦の勃発で、1940年(昭和15)の東京大会も幻のオリンピックに終わった。https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%AA%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%83%E3%82%AF_(1940%E5%B9%B4)

嘉納が柔道を創始して約80年。昭和39(1964)年10月、東京オリンピックが開催され、柔道が正式種目に採用となり、嘉納の長年の夢がかなって今や国際スポーツ『JUDOU』として、世界の人気を集めている。

 

 - 人物研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

日本リーダーパワー史(565)明治維新のトリガー/民主主義と開国論を唱えた草莽崛起(くっき)の人 ・吉田松陰こそ真の革命家②

 日本リーダーパワー史(565) 明治維新のトリガー・山口県萩市の吉田松陰生誕地 …

「トランプ関税と戦う方法論⑫」★『日露戦争でルーズベルト米大統領との友情外交でポーツマス講和条約を実現させた金子堅太郎の交渉術③』★『ル大統領のオイスターベイの草ぼうぼうの私邸に招かれた』★『米国大統領にトイレを案内してもらった初めての日本人!?』★『ル大統領は私邸での質素な生活ぶりをすべて見せた』

ルーベルト大統領の私邸に招かれた。オイスターベイの私宅は草ぼうぼう。 これは余事 …

no image
<クイズ>世界で最高にもてた日本人は誰かーー答えは「ハリウッドを制したイケメンNo.1の早川雪洲じゃよ」①

世界で最高にもてた日本人とは誰でしょうかーーー 答えは「ハリウッドを制したイケメ …

no image
知的巨人たちの百歳学(183)/記事再録/『中国の沙漠を甦らせた奇跡の男・遠山正瑛(97歳)』★『やればできる、やらなきやできない。それだけのことですよ。世の中、口ばかりで行動に移さない人間が多すぎるんだねえ』

    2013/09/26 &nbsp …

no image
『世界サッカー戦国史』➈『ガラパゴス/ジャパン/サッカーの未来を開く』★『日本人監督にして科学的トレーニングを強化する』

『世界サッカー戦国史』➈ 日本サッカーの強化法―科学的トレーニングの必要性 前坂 …

no image
『オンライン/昭和史研究』★昭和天皇による「敗戦の原因分析」②『軍備は平和確保のための一手段である』ところがその軍備の力を使用したがる軍人があった」★『なぜ日本人種は嫌われたかー白色人種の有色人種に対する優越感、日本人の独善性、日本人の教養の不足、日本人の宗教の異なること』

       2015/07/ …

no image
日本リーダーパワー史⑬ 100年前、地球環境破壊と戦った公害反対の先駆者・田中正造

日本リーダーパワー史⑬ 100年前、地球環境破壊と戦った公害反対の先駆者・田中正 …

『Z世代のための勝負脳の鍛え方』★『ボストンレッドソックスを優勝させた上原浩治投手の<土壇場完勝力>10か条『どんどん行く、結果がどうであれ、1日ごとに気持ちを リセット、真っ向勝負する<瞬殺パワー>」』

  2020/11/18  日本リーダーパワー史(428)記 …

no image
日本リーダーパワー史(636)日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(29) 『川上操六の日清戦争インテリジェンス② 『広島大本営」設置と「ワンボイス」で陸海軍を指揮したリーダーシップと決断力「山県有朋を解任」

日本リーダーパワー史(636) 日本国難史にみる『戦略思考の欠落』(29)   …

no image
日本リーダーパワー史(818)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、インテリジェンス㉝『日本史決定的瞬間の児玉源太郎の決断力⑤』★『児玉は日露外交交渉は不成立の見通しを誤る』★『ロシア外交の常套手段である恫喝、武力行使と同時に、プロパガンダ、メディアコントロールの2枚舌外交に、みごとにだまされた』

 日本リーダーパワー史(818)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」し …