『ウクライナ戦争に見る ロシアの恫喝・陰謀外交の研究➅』★日露300年戦争(2)-『徳川時代の日露関係 /日露交渉の発端の真相』★『こうしてロシアは千島列島と樺太を侵攻した⑵』
2017/11/16/日露300年戦争(2)記事再録
その侵攻ぶりを、当時の長崎奉行手附・近藤重蔵
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BF%91%
のその著書『辺要分界図考』の中で痛憤している。
「蛮書(紅毛1768年刻する所のもの、外国書のこと)によれば、之を『クリムセ』諸島と云ふ。その島大なるもの十六、小なるもの無数、古昔みな我、蝦夷(北海道)の属島たりしに、八十年前(正徳年中)露西亜(ロシア)人『カムサスカ(カムチャッカ)』を併合してより、漸々に諸島を蚕食して、三十年前より『シモシリ島(新知島)』迄を服従して其島々の名を改めて、露西亜の称となし、
二十年前より夷人の風俗を易へて、皆、露西亜の風俗となし、往古より日本に属せし蝦夷人(アイヌ人)をして髪を編み帽子を被り、股引を用ひ靴を穿ち、鉄砲玉薬を与え、露西盛の言を使ひ、露西亜の仏を首にかけ、彼の官吏、並に教法師、時々諸島に至り撫順せしめ、其、夷人は悉く露西亜に貢を入る。
十年前より露人『ウルツプ(得撫島)』に土着して傲然として去らざるに至る。『カムサスカ』は元『クリムセ』の地にして皆、我蝦夷の属なり。」
ところでこの間、ハンガリー生まれのポーランド貴族モリッツ・ベニオフスキー伯なるものが、
http://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I5224822-00
1769年、反露運動のため捕えられてカムチャッカに流されていたのが、1771年(明和八年)四月二十六日他の流刑者と相計って反乱を起こし、ロシアの官船を奪い、海上に出て厦門に向う途中、わが本州東南岸を航行し、八月四日三崎(一説には下田)、十日土佐湾、十五日琉球、二十八日台湾に寄港した。
わが国の文献では「はんぺんごろう」として伝えられる人物で、別になんら異図も抱いていなかったので、わが国の官民からは相当な待遇を与えられた。
この「はんぺんごろう」が途中、奄美大島から長崎のオランダ商館長宛に送った書翰のなかで、ロシアが日本に対し陰謀を企て、既に千島に砦を築き武器を備えており、おそらく来春にも蝦夷松前を攻略するだろうと警告して、わが朝野に北方警備の危急を痛感させた。
その後、幕府も、いつまでもこれを放っておくわけにはいかなくなり、老中田沼意次が勘定奉行・松本秀持https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%AC%E7%A7%80%E6%8C%81
に命じて北辺の実情を調査させることにし、天明五年(1765年)2月、蝦夷地へ巡検使として普請役.山口高品らを派遣した。このとき先発の最上徳内https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%80%E4%B8%8A%E5%BE%B3%E5%86%85
、大石逸平http://www.tosyokan.pref.shizuoka.jp/aoi/2_history/2_1_01.htm
らの一行は、各地を巡視してその実情を具伸し、蝦夷地経営を図ったが、田沼の失脚によりその試みも中途にして止んだ。
そのため最上徳内は単身択捉、国後両島に渡り、難難辛苦、前後五年にわたって現地を踏破し、択撹島に居住するロシア人を捕えて国後島hhtps://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E5%BE%8C%E5%B3%B6
に帰り、ロシア人に帰国を命じた。またその間、大石逸平は最上徳内と樺太に渡り、そこで行なわれていた山旦(古代満州の沿海地方)人との交易https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B1%B1%E4%B8%B9%E4%BA%A4%E6%98%93
につき見聞を広めた。
その後、寛政末年、幕府はしばしば蝦夷地に巡検使https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A1%E8%A6%8B%E4%BD%BF
を送ったが、寛政十年(1798年)四月には目付渡辺胤
http://archives.c.fun.ac.jp/hakodateshishi/tsuusetsu_01/shishi_03-03/shishi_03-03-01-00-01~02.htm
、支配勘定・近藤重蔵らが派遣された。
このとき近藤は択捉島に渡り、先きに同島に渡ったロシア人イシュヨhttps://ameblo.jp/ayutaro-974ri/entry-11569073522.html
なるものが、ロシア領として明記して建てた標柱を倒して、代りに「大日本恵登呂府」なるわが国の国柱を打ち建てた。
http://www8.cao.go.jp/hoppo/mondai/02.html
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%83%E5%B3%B6%E5%9B%BD
これ以後ロシア人は次第に択捉島を去り、もはや再び同島以西の主権の所属を争わなかった。
しかしこうしてロシアの気勢はやや衰えたようにみえたが、実はロシアはそれより以前にさらに重要な望みを遂げようとしていたためでもあった。それはわが国との通商を開こうというのであって、そのためわが国を無用に刺激するのを避けたのであった。
関連記事
-
-
日本メルトダウン脱出法(628)◎「能率的に死なせる社会」が必要・」「ISISは自滅への道を歩むか」など7本
日本メルトダウン脱出法( …
-
-
日本メルトダウン脱出法(564)「長期政権へ進む安倍首相、「安保より経済」の成果」●「ヤバい日本株」で儲けるための3原則」
日本メルトダウン脱出法(564) ●『 …
-
-
『オープン講座/ウクライナ戦争と日露戦争①』★『ロシア黒海艦隊の旗艦「モスクワ」がウクライナ軍の対艦ミサイル「ネプチューン」によって撃沈された事件は「日露戦争以来の大衝撃」をプーチン政権に与えた』★『児玉源太郎が指揮した日露戦争勝利の秘訣は軍事力以上に外交力・インテリジェンス・無線通信技術力・デジタルIT技術にあった』
ウクライナ戦争でロシア侵攻作戦の要であるロシア黒海艦隊の旗艦・ミサ …
-
-
日本リーダーパワー史(278)EUの生みの親・クーデンホーフ・カレルギーの目からウロコの日本論「美の国」
日本リーダーパワー史(278) 『ユーロ危機、<西欧 …
-
-
ジョーク日本史(8)世界的数学者・岡潔は『数学は情緒なり』の奇行の人なり〝奇人〝仙人〝現代のアルキメデス″とも呼ばれた。
ジョーク日本史(8) 世界的数学者・岡潔は『数学は情緒なり』の奇行の人なり〝奇 …
-
-
『Z世代のための<日本政治がなぜダメになったのか、真の民主主義国家になれないのか>の講義⑥『憲政の神様/尾崎行雄の遺言』★『先進国の政治と比べると、日本は非常識な「世襲議員政治』★『頭にチョンマゲをつければ江戸時代を思わせる御殿様議員、若様議員、お姫さま議員のバカの壁』★『総理大臣8割、各大臣では4割、自民党世襲率は30%。米国連邦議会の世襲率は約5%、英国の世襲議員は9%』★『封建時代の竹刀腰抜けの田舎芝居政治を今だに続けている』
2018/06/29 日本リーダーパワー史(921)記事 …
-
-
★★(再録)日中関係がギグシャクしている今だからこそ、もう1度 振り返りたいー『中國革命/孫文を熱血支援した 日本人革命家たち①(16回→31回連載)犬養毅、宮崎滔天、平山周、頭山満、梅屋庄吉、 秋山定輔、ボース、杉山茂丸ら
★(再録)日中関係ギグシャクしている今こそ、 振り返りたい『辛亥革命/孫文を熱 …
-
-
日本リーダーパワー史(209)ー太平洋戦争敗戦時の畑俊六陸相(A級戦犯)の「国民に詫びる」
日本リーダーパワー史(209) <政治家・官僚・リー …
-
-
『Z世代のための明治大発展の国家参謀・杉山茂丸の国難突破力講⑫』★『杉山の「バカとアホウの壁」解説②」★『約三千人の宮女に家の中で駈けっこをさせたいと「阿房宮」(長さ百里)を作ったのが「阿房(あほう)の語源』
明治末期の今の時代には、権力者や富豪の前へ出ても、違った事にも頭を下げ、「ご無理 …
