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『知的巨人の百歳学(157)記事再録/早稲田大学創立者/大隈重信(83歳)の人生訓・健康法ー『わが輩は125歳まで生きるんであ~る。人間は、死ぬるまで活動しなければならないんであ~る

   

『早稲田大学創立者/大隈重信(83歳)の人生訓・健康法ー『わが輩は125歳まで生きるんであ~る。人間は、死ぬるまで活動しなければならないんであ~る

 

➀語学の天才になる。

②コミュニケーションの達人になる。

③楽天的、陽気な、話好きになり「大風呂敷を広げる」

④『わが輩は125歳まで生きるんであ~る』

⑤『人間は死ぬるまで活動しなければならないんであ~る』

⑥『「恐れるな」「愚痴をいうな」「過去を忘れよ」

⑦「将来に望みをおけ」「人のために善をなせ」

 

「125歳まで生きるんであ~る」

「わが輩は125歳まで生きるんであ~る。人間は、死ぬるまで活動しなければならないんであ~る」。

この「あるんであ~る」というのが雄弁家・大隈のしゃべり方の特徴で、なんでもかんでも最後は「あるんであ~る」で結ばれた。明治、大正期に何をきかれてもたちどころにまとまった話ができた政治家は大隈が第一であった、頭の回転が早く巧みな弁舌とハッタリと大物の態度で、民衆的な人気は抜群の政治家であった。

大隈重信は天保九年(一八三八)二月十六日に生まれた。佐賀藩士。明治維新に倒幕運動で活躍する。参議、外相、首相2回と政界で活躍し、東京専門学校(のちの早稲田大学)を創立して総長となった。

大隈はオランダ語、英語の語学の天才、タフネゴエーター

幕末から明治初期にかけて,最もむずかしいのは外国人相手の外交部門であった。そこで明治初年には伊藤博文,井上馨,五代友厚,寺島宗則,陸奥宗光などの中堅の新官僚が外務省に集まり大隈はそのリーダー格であった。

このとき,キリスト教徒の処分問題に対する外国側の干渉がやかましく,これに対する談判が,外交上の課題となっていた。明治初年4月,大阪東本願寺で各国公使団とのこの談判が開かれ、イギリス公使パークスと大隈がはげしくわたりあった。

パークスは「野蛮な行為」としてきびしく抗議し、大隈はキリスト教徒処分問題は日本への内政干渉にあたる」と反対して対立し、激しい議論は終日続いたが、大隈の一歩も引かぬ強い態度に結局、抗議は立ち消えとなった。

このタフネゴシエイターぶりが買われて,同年暮れ外国官副知事(外務次官)に抜擢された。

大隈は楽天的で人柄が明るく,陽気な話好きのタイプ

才気煥発、やる気満々、なにごとにも自信満々、自信過剰であった。政治家として,この才気・覇気で颯爽と登場して,栄達したが、その反面に自信過剰による失言や不用意な言動により,政敵から足をすくわれて失敗するケースも多く、政治的には挫折した。『学問は脳、仕事は腕、身を動かすは足である。しかしいやしくも大成を期せんには、先ずこれらすべてを統(す)ぶる意志の大なる力がいる。これは勇気である。』とも言っている。

コミュニケーションの達人、そのあけっぴろげな人柄

の大隈のもとには晩年になってもたくさんの人々が集まってきた。晩年の大隈は溢れるばかりの覇気を文化、教育事業に投じた。教育ではみずから創立した都の西北にそびえる早田大学を育て,晩年その総長に就任した。

政党家,新聞記者,在野学者,文士を輩出させて,自由と独立の私学精神を鼓吹した。早稲田の豪華な邸宅は、日々、内外の客の先客万来で大にぎわいだった。

来日外国人は東京の名所大隈邸を訪問するのが,その日程となっていたほどで,その名は世界各国にまでひろまっていた。この来客相手に、得意の文明論を展開し東西文明の調和を説く「大風呂敷」を広げて、快気炎でまくしたてた。同時に機会あるごとに演説を行い,とくに旅先の車窓演説は有名であった。

このコミュニケーション上手、話し好きが、頭の回転を良くして、長生き健康、125歳説主張の1つになったのであろう。

人間の寿命は「125歳説」は大隈重信の口癖

ともいえる名言で、大風呂敷といわれた。

明治の元勲はほとんどが薩長(鹿児島、山口)や土佐(高知)出身だが、大隈はただ1人、佐賀藩の出身である。早稲田大学の創設者で、いまも〝都の西北″早大構内にいかつい顔をした銅像が立っており、学問の独立と自治の精神を訴え続けている。

大隈はいつも125歳まで生きると公言していたが、一九二二(大正11)年一月一〇日、八三歳で亡くなった。これとて、平均寿命が50歳に届いていない当時としては大長命だが、死ぬまで活動するの「生涯現役」臨終定年」はその通り実践した。

「人間は老年になるに従って、いっそう急進的になり積極的になり、不動明王のごとき火を背負うようにならねばならない」を信条として頑張った。

外相、首相2回などトップにのぼりつめたが、自由民権運動、国会開設を唱えたことから大半は、野党的な立場に立っていた。

その長生き健康法はー

午後、毎日入浴し、湯のなかで、しきりに手足を動かして一種の自由体操を行う。全身に血液が循環してよいからだ。浴室を出ると、居間に敷かれた床に横たわる。休息し、読書し、お茶の代わりに牛乳を飲む。クスリはいっさい用いず、ただ胃腸剤を飲んでいた。

「わが輩は怒ったことがない、といわれるが、しやくにさわると風呂に入る。糠袋(ぬか)でごしごし体を摩擦する。自然に疳癪(かんしゃく)がおさまる。それでも治らぬときは酒を一杯飲む。そして寝る。胡麻豆腐を毎日昼食に食べる。それが長寿法の一つだ」と豪語していた。

議会で、痛烈に大隈攻撃をしつづけている自由党の星亨(とおる)を自邸に招いて台所に案内し、「あそこに釣ってあるのが神戸の牛肉、こっちのは樺太(いまのソ連領サハリン)産の鮭じゃ」と説明した。そして、「洋食と日本食とどちらがいいか」と聞いた。

西郷隆盛はウナギが大好物だった。

それを知って大隈が「ウナギをご馳走しますので、ぜひおいで下さい」と誘うと、西郷は大喜びで「連れがあるのでそのつもりで」と返事した。

連れの分まで十分用意して待っていると、西郷はただ一人でやってきた。不思議に思った大隈が問い質すと「連れは玄関でまっているのでたくさんご馳走してくだされ」という。改めて玄関に行ってみると、西郷が可愛がっていた犬がお供して待っていた。これは頭山満の話だが、「クマ(大隈)のご馳走には犬くらいが適当と思ったのじやろう」と頭山は大笑いした。

憲政の神様・尾崎行雄が、西園寺公望と大隈重信を、料理の上で比較した。西園寺家に招かれて御馳走になると、出る料理の品数は少ないが、一つ一つは精選されていて、すばらしくうまい。大隈家の料理はこの反対で、品数は豊富でみた目は豪華だが、個々の料理は必ずしもうまくない、と評している。

国語学者・物集高見(107歳)の思い出話は超リアルだよ。

大隈さん(大隈重信1838―1922)は私が惚(ほ)れこんだ人物の、まあ筆頭ってとこでしょうねえ。

 

大隈さんに初めてお目にかかったのは、日露戦争が終った明治三十八年九月でした。このときは親父に連れて行ってもらった。

大隈さんの風采はね、顔がタンスのように赤黒くって大男、ロをへの字に結んでいるの。で、髭はというと、これがちっともない。それでも、やっぱし日本の大将って顔に見えるんですよ。

二度目はその年の十一月で、こんときはあたし一人で行ったんです。当時は、(東大)文科などを出ると職が見つからないんですねえ。そいで、大隈さんに就職を頼みに行ったってわけ。

大隈さんが来客と会う場所は広い洋間なんですが、大隈さんは一段高いとこにテーブルを前にしてどっしり腰掛けている。だから、学校の先生のようなんですねえ。

でそばには大きな松葉杖が立てかけてある。これは、テロにやられた右足が義足になってるからなんです。この時代の政治家なんて、それこそ命がけだったんですよ。

そいでね、そのテーブルの前には、椅子が20ほどあるんですが、これが来客用なんです。あたしが行ったときも17人ほどの先客がいましたよ。

なにしろ客が多いから、一人ひとり会ってたんじゃ、さばききれないんでしょうね。だから、ほかの人との対話がすっかり聞こえちゃうんです。

ある人がね、

「閣下のお宅の庭は坐ったままでも、ずいぶん遠くまで見渡せますねえ」と話を切り出す。すると大隈さんは、「ああ、これは西洋式の庭園なんだよ。日本式だと、築山があって池があり、途中、東屋で休んでというような歩く庭園だろう。そんなのは面倒だから、ワシは坐ったままで楽しめる西洋式にしたんだ」といちいちこと細かに答えるんです。

「ところで、お前の用件は何かね」と次々に指名していく。

「はい、わたしはヤギの乳を売ろうと思っている者でございます。ヤギの乳は牛のものと違い、味もよく、また大変に飲みやすいように思われます。そこで、ぜひ閣下にご試飲いただいたうえで、閣下が愛用という宣伝文句を使用させていただきたく存じまして」

「そうか、よしよし、そんなことならワシを大いに利用してかまわんよ」

別の人が「このあいだお伺いしたとき、閣下のお宅の玄関先に観音様の像がありましたが、きょうはございません。いかがなさったのでしょう」と聴いた。

するとね、

「あ、あれか。欲しいという者がいたので譲ってやったよ。大隈のうちの玄関に置いとくと、くだらない物でも立派に見えるらしい。キミたちも何か売りたいものがあったら、オレのうちの玄関に置いとくといいよ。骨董なんてものはね、その置き場によって値がつくもんだ。人間だってそうだよ、坐っている椅子によっては、そいつの価値がいろいろと変ってくるのさ」との軽妙な答えに物集さんはすっかり魅了された。

今度は物集さんに「ところで、君は何しにきたのかね」と指名された。

「はい。大学(東大)を出て今後の進路を見つけるにあたり、まず、社会というものを知らなければならない、その社会を知るには、新聞記者になるのがいちばんだ、と父が申します。大隈閣下は東京毎日新聞をやっておいでになるので、ぜひ就職をお願いたしたく参上いたしました」

すると大隈さんは即座に

「よしわかった。田中穂積(後の早稲田大総長)だから、あの男に紹介してやろう」

そういってね、「ちょっと、ワシについてこい」と松葉杖をつきながら廊下に出たんです。

そいで、廊下の高いとこにある電話に手を伸ばすと、大隈さんは、自ら新聞社に電話をかけ、田中穂積さんを呼び出してね、

「いまから、物集の小倅(こせがれ)がなァ、お前のところとへ行くから、いいように取り計ってやれ」っていってくれたんです。このときは嬉しかったですねえ、大隈さんほどの人が、わざわざ不自由な足を運んでくれて、見てる前で就職を頼んでくれたんですものね。結局、これは実現しませんでしたが、。

次にあたしが大阪朝日に入社してすぐのころの明治四十年六月に、大隈さんが大阪に来た時に『はなや』という超一流の旅館に泊まっていたところを取材に行きました。ここでも同じように大勢の人が集まっていた。清国留学生学部が出来ていた早稲田大学だけあって中国(清国)の話題になった。

大隈さんはこんな話をしてました。

「日本が中国を攻めるなんて、こんな愚なことはない。中国は四億の人間、一日に一万人ずつ殺したって、とても殺しきれるってもんじゃないよ。そういうパカなことをするよりも、金を使って片ッ端から中国の土地を買い占めた方が利巧だね」と、

ま、なんとも物騒な話で、内容的には賛成しかねましたが、その合理性には秀れたものがあったと思いますねえ。

たとえば大隈さんは、新開とか雑誌などを自分じゃ読まないっていうんです。みな、秘書に読ませて肝腎なとこだけを聞く。それはねえ、新聞や雑誌などを読めば無駄な記事も目に入る、その時間がもったいないって考え方なんですよ。

最後に大隈さんにお会いしたのは、明治四十二年の一月元旦でしたね。

国府津の別荘に訪ねたんです。そこは駅から五、六丁行ったとこにあってね、海に画した豪華な平屋建てでしたよ。そこでも、やっぱし大勢の訪問客なんです。

で、あたしは新年のご挨拶も早々に、すぐ帰ろうとすると、奥さんが、「物集さん、ちょ?とお残りになってください一っていうんですね。で、何ごとだろうと思っていると、「これは鶴のお雑煮ですから、ひとつ召しあがれ」ってお膳が出されたんです。普通、お雑煮といやァ、かしわなんか入れましょ、それが、これは本物の鶴の肉を入れたもんなんです。(鶴は千年、亀は万年という長寿の縁起物)

http://kotowaza-allguide.com/tu/tsuruwasennen.html

といったって、別に美味しかありませんでしたが、沢山の客の中からあたしだけが選ばれたってことが嬉しくってね、感激しながら食べたもんです。後にも前にも、鶴の肉を食べたのは、このとききりでした。

ところで、大隈さんは会うたびごとにこんな話をよくしてましたよ。

「ワシは百二十五歳まで生きるつもりだ。なぜかといえば、動物は己れの成長期の五倍はきるのだから、人間の成長期は25歳なので百二十五まで生きてあたり前なんだ」

あたしゃ、そのころは漠然と聞いてましたが、今にしてみれば、まんざらデタラメとも思えませんねえ。ただ、大隈さんは八十いくつかで亡くなっちまいましたから、自説を証明するってことはできなかったわけです。

そういえば、あの大隈講堂の高さっていうのは、百二十五尺(一尺は30㎝)あるそうですねえ。してみる大隈さんは本気で125歳までいきるつもだったのかもしれませんね」

物集高見著『百歳は折り返し点ー軽妙な筆舌と書き下ろし自伝』(日本出版社、1979年、23ー28P)

最後に余談として・・

大隈の天敵が山県有朋である。山県は明治の元勲として、主要な軍人、官僚の多くを子分にして最大勢力の「山県閥」をつくり、そのボスとして明治、大正の政治を壟断した。伊藤博文、大隈重信らが作った『政党政治』を徹底して毛嫌いした。伊藤が暗殺された後は、山県の天下が続いた。

その山県は『日本の行方をかじ取りする』政治への情熱を失い、隠居老人よろしく『庭造り』に没頭した。10年ごとの節目に生涯9カ所に別荘をつくり、贅をつくした『庭園』を造り、自己満足していた。

山県は不惑の歳の四十歳に東京目白に「椿山荘」をつくった。政敵・大隈重信の早稲田をちょうど見下し、富士山、皇居の森や筑波山などを遠望する約六万平方メートルという広大な敷地に、回遊式林泉庭園を作った。

三重塔をいただく小高い山の部分と、池や滝など水の流れを中心にした部分からなる見事な庭園で家屋も一緒に建てた。山県は晩年までここを本邸としており、政治の舞台となった。民衆に圧倒的な人気を博した大隈の動向を監視する意図もあった。

大正十二年二月一日、山県は85歳で亡くなった。

山県は国葬となったが、衆議院で「国葬の者は真に社会民衆の幸福を計ったものに限る。公は維新の元勲だが、憲政の発達を阻害し、民衆政治に極端な圧迫を加へ、国家の隆盛を軍閥の功に帰するような行動は国民から何が感謝の要あろうか」(『東京日日新聞』二月三日付)との国葬反対演説まで飛び出した。

山県の葬儀はガラガラの不人気、大隈のは数万の参列者

山県の国葬は2月9日に日比谷公園で営まれた。参列者は最前列には元帥東郷平八郎、陸相山梨半造らの陸海軍将校がズラリと礼装で並んだが、民衆には全く不人気で、一般の人々の参列者は少なく、一万人収容の葬儀場はガラガラ、千人ほどしか参列者しかなかった。

ちょうど一カ月前の1月10日になくなった大隈重信の葬儀は数万人の民衆がおくるという盛大な人気と比べると、全くさびしいものだった。

日本リーダーパワー史(287)タフネゴシエーターの大隈重信①英国のパークス公使と堂々と対決して、議論に勝った30歳の大隈

http://www.maesaka-toshiyuki.com/person/2280.html

憲政の神様・尾崎行雄が、西園寺公望と大隈重信を、料理の上で比較した。西園寺家に招かれて御馳走になると、出る料理の品数は少ないが、一つ一つは精選されていて、すばらしくうまい。大隈家の料理はこの反対で、品数は豊富でみた目は豪華だが、個々の料理は必ずしもうまくない、と評している。

 

 

 

 - 人物研究, 健康長寿, 現代史研究

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