前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日中ロシア北朝鮮150年戦争史(48) 『日本・ロシア歴史復習問題』★『樺太(サハリン)はどうやってロシアに強奪されたのか』―樺太千島交換換事件の真相は・・『「ユーラシア大陸全域でのロシアの膨張・侵略・南下政策 の一環で、まず軍隊を派遣、武力で占領し 居座る常套手段で、日本側は手もなくひねられた。 三国干渉以後のロシアの遼東半島占領計画、 強奪とまるで同じ手口。』

      2016/10/23

 

日中ロシア北朝鮮150年戦争史(48)

『日本・ロシア歴史復習問題』★

 ★『樺太(サハリン)はどうやってロシアに強奪

されたのか』―樺太千島交換換事件の真相

「ユーラシア大陸全域でのロシアの膨張・侵略・南下政策

の一環で、まず軍隊を派遣、武力で占領し

居座る常套手段で、日本側は手もなくひねられた。

三国干渉以後のロシアの遼東半島占領計画、

強奪とまるで同じ手口。

 

『樺太(サハリン)はどうやってロシアに強奪されたのか』―樺太千島交換換事件の真相

 

旧幕府時代より懸案の日露間の樺太半島境界問題は、未決定のまま明治時代に移されれた。当時、樺太半島には日露両国民が雑居していたが、露国民の勢力のにわかかに加はると共に、我が政府は明治元年、岡本監輔を権判事として樺太の守備に当たらした

 

。同人は旧幕時代、樺太金島を視察して北返の事情に通じていたからである。

当時、ロシア人は続々南下して、その勢いは防ぐべからざるものがあったが、明治二年六月、ロシア兵三千人がクシュンタンに上陸し、不法にも同地占領を宣言したので、岡本は直ちにこれに、退去を迫ったが露兵は応じず、やむなく上京して政府に訴えた。

 

政府当局でも捨てて置けず、同年七月、蝦夷開拓使を北海道に置いて鍋島直正を開拓使長官に任じ.更に翌3年、新に樺太開拓使を置き、蝦夷開拓使次官・黒田清隆を長官に任じ樺太駐在を命じた。

 

しかし、ロシアの侵略の手はますます伸びて、とうていわが国はこれに対抗するととができなかった。

明治4年に至り、岩倉具視が全権大使となって、ロシア・ペテルプルグに赴き樺太の境界についいて商議することになった。しかし、この談判は結局不調に経った。

元来、ロシアの樺太侵略は外交、軍事上の立場から門戸を東方に求めんとする極東政策より割りだされたものであるから、その樺太領有欲はすこぶる根強く、故に、わが国の北緯50度による南北折半設の如きは頭から拒否する態度に出たのである。

 

時に参議副島種臣は明治4年5月、外務少丞・田辺太一随へてロシア領ポシエット湾に赴いて具さに樺太半島を視察し、帰国の後、参議をやめて外務卿に任ぜられた。

副島は視察の結果、慶應二年、米国が七億円を以て、アラスカをロシアから買収した例にならって樺太買収案を立て、これを大蔵卿大隈重信に謀ったところ、大隈も賛意を表したので買収金の有無を調べると、国庫には充分余裕があるとの確証を握ったので副島も大いに喜び、翌明治五年、ロシア代理公使ピッオフを自邸に招き買収交渉を進めた。

しかし、ピッオフは断固、買収を拒み、樺太を全部露国の所有として、其の代り、カムチャツカ半島の西の占守島以西の列島即ち千島諸島を日本の所有とする交換條件を提出したが、副島はこれを容れず、ついに会見は物別れに終わった。

その後、わが政府においては、「買収か、交換か」の議論が容なかなか決せず、日にちが経過した。

 

ロシアは樺太に対する日本政府の執着が意外に強固なのを知って、漸く樺太売渡しの決意を抱くに至ったが、いったんこれを拒絶した行懸り上、ロシア公使は直接交渉を避けて浴6年8月、フランス公使バルテルシーをして、ひそかにこれを外務卿・副島種臣に告げた。

ここにおいて樺太買収が九分通り成立せんとした矢先に、突如、廟議一変し、黒田開拓使次官の意見によって.樺太千島の交換案が裁決されてしまった。

黒田の意見の大要は、『樺太の地は絶域の孤島で陰惨寒冷、内地人の居住に適さないのみならず、土地は不毛にして栽培をなし得る所でない。維新以来、政府がこの島のために費した金は七十万円に近い。

 

しかも未だ全くの利益も得ることなし、今より以後、朝廷が忍んで経費をねん出するも

数年の後にはついに財力欠乏に陥るおそれがあり、国家財政には限りあり、無益な土地に対し使用せんよりは、寧ろ同島を捨て、別に北海道の経営に使用するのが、もっとも策の得たるものである』というので、当時、国情に顧みて廟議もついにこの説を採用するに至ったものである。

<参考  蘇武緑郎編著『明治史総覧』(明治史刊行会、1939年刊)>

 

樺太・千島交換条約

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A8%BA%E5%A4%AA%E3%83%BB%E5%8D%83%E5%B3%B6%E4%BA%A4%E6%8F%9B%E6%9D%A1%E7%B4%84

 

[PDF]一九世紀樺太をめぐる 「国境」 の発見

https://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/bitstream/2065/32295/1/BungakuKenkyukaKiyo_54_04_Hiwa.pdf

 

 - 健康長寿

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
『センテナリアン』百歳めざして、社会貢献した天才老人ベスト100<60、70洟たれ小僧、80,90人間盛り・平櫛田中(107歳)②

 <まとめ>センテナリアン(百歳元気人)② 世界は順番に老いていく。そ …

『Z世代のための 百歳学入門(216)』<松原泰道老師!百歳>『 生涯150冊、百歳こえてもマスコミ殺到!』★『 その百歳長寿脳の秘密は、佐藤一斎の『言志晩録』に「見える限り、聞こえる限り、学問を排してはならない、とある。私も、いまや、目も見えない、耳も聞こえませんが、読み、書く、話すことは生涯続けたいと思います』

  2018/03/17    …

『オンライン講座/ウクライナ戦争と日露戦争の共通性の研究 ⑦』『日本・ロシア歴史復習問題』★「日清戦争後のロシアによる満州強奪』★『西欧列強のアジア植民地経営と米国の極東進出、ロシアのチベット問題の謀略』★『ボーア戦争と新疆ウイグル地区の関係』

    2016/10/15 &nbsp …

オンライン/藤田嗣治講座②』★「最初の結婚は美術教師・鴇田登美子、2度目は「モンパルナスの大姉御」のフェルナンド・バレー、3度目は「ユキ」と名づけた美しく繊細な21歳のリュシー・バドゥ』★『夜は『エ・コールド・パリ』の仲間たちと乱ちきパーティーで「フーフー(お調子者)」といわれたほど奇行乱行をしながら、昼間は、毎日14時間以上もキャンバスと格闘していた

2008年3月15日 「藤田嗣治とパリの女たち」            …

no image
知的巨人たちの百歳学(116)根津嘉一郎東武鉄道初代社長(79)「克己心」「己に克つ」ことこそが健康長生法

  知的巨人たちの百歳学(116) 根津嘉一郎(79歳)の「克己心」ー …

『オンライン入門講座/シルバーYou tuber(前坂俊之チャンネル)になる方法』★『ネット動画の時代に乗り遅れる既存メディアー 情報をあまねく広げる「個人」の出現で社会が変わる』(2012年でのインタビュー)記事全文再録)

取材場所:日本記者クラブ (インタビューの聞き手:沖中幸太郎氏)   …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(68)記事再録/ 日本の「戦略思想不在の歴史」⑶日本で最初の対外戦争「元寇の役」はなぜ起きたか③『現在の北朝鮮問題と同じケース、一国平和主義に閉じこもっていた鎌倉日本に対して世界大帝国『元』から朝貢(属国化)に来なければ武力攻撃して、日本を滅ぼすと恫喝してきた!、国難迫る!』

日本の「戦略思想不在の歴史」⑶ 日本で最初の対外戦争「元寇の役」の内幕 第4回目 …

no image
★「サーフィンの聖地・鎌倉稲村崎の2年前(2017年)サーフィン動画一挙再録』/『台風18号の波はどうか、胸くらいかな(9/15)』★★『稲村ヶ崎ビッグサーフィン/上級テクニック学習動画(20分ぶっちぎり)ー台風15号接近中の稲村ヶ崎海岸』

 2017/09/19     …

『2023年【令和5年』正月の長寿お年玉プレゼントです』★『百寿者の<長寿健康名言>のクスリを一服を進ぜましょう』

   前坂俊之著「百寿者百語 生き方上手の生活法」海竜社 2 …

『倉敷美観地区動画3本付ー『100年前に利益至上資本主義を超克し、21世紀の公益資本主義を先取りしたメッセの巨人・大原孫三郎に学ぶ②』★『大内兵衛は「大原孫三郎は学問の偉大なパトロン』と大評価』★『江戸時代、明治の街並み蔵が残る』岡山県倉敷市の「美観地区」の動画』

  2019/01/02  世界/日本リーダーパワー史(96 …