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片野勧の衝撃レポート『太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑤ーなぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』郡山空襲と原発<上>

   

片野勧の衝撃レポート
太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑤
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』

郡山空襲と原発<上>―
 
                    片野 勧(フリージャーナリスト)
 

原町女学生に学徒動員の命令
 
「戦争中のことは絶対に忘れることのできない思い出として、胸の奥にしっかりと焼きついて残されています」
 
昭和20(1945)年4月12日、原町女学校の第17回期生だった日高美奈子さんは、120名の学徒動員の女学生たちとともに日東紡績富久山工場で働いていた。彼女は1929(昭和4)年12月生まれで、現在82歳。
 
防空頭巾と救急袋を肩に、麻袋の前掛けをかけ、支給された制服と地下足袋で毎日、軍歌や愛唱歌を歌いながら、耐火レンガの原料を一輪車で運んだり、成型されたレンガを窯の中に積んだり出したりしながら、汗と油と埃にまみれて働いていた。
 
――その日の空は青く、よく晴れていた。正午近くだった。食事前の手洗いのとき、突然の空襲警報に空を見上げると、キラキラに輝いていたB29が10機編隊で工場の中心部に爆弾を落とし始めたのである。あたりは一瞬にして暗くなり、悲鳴が上がった。
 
「怖くて防空壕に入りましたが、防空壕も爆風で崩れそうになったので、工場の外へ逃げました。しかし、どこまで逃げても爆弾に追いかけられ、爆風に倒され、生きた心地がしませんでした」
 
逃げる途中、怪我をして助けを求める人、手足が吹き飛んで死んでいる人、黒焦げになっている人たちがいた。田んぼは穴だらけだった。東北本線の線路は折れ曲がり、まさに地獄絵と化していた。
 
その日の夜、工場へ戻ると、工場は見るも無残に破壊され、聖堂には何十体もの死体が安置されていた。倉庫は赤々と燃えていた。
 
「悪夢の一夜を不安で過ごした私の目の前に、思いがけない父の顔……もしも生きていたらと父が持ってきた母の心づくしのおむすびを、友人たちと分けあい食べた、あの時の味は今も心の片隅に残っています」(会報誌『九条はらまち』No131)
 
その父も今は遠くへ旅立ち、歳月の流れはあの過酷な戦争をも記憶の中に埋め込み、忘れ去られようとしている。しかし、戦争体験者として、この記憶を次世代に伝えていかなければ、と日高さんは思う。
 
 
放射能汚染に見舞われ、避難先を転々と
 
空襲に襲われた「悪夢」から66年後の2011年3月11日。今度は地震と津波と原発事故に襲われる。南相馬市原町区橋本に住んでいる日高さん宅は津波被害に遭わなかったが、原発事故による放射能汚染に見舞われた。福島第一原発から20キロ圏内。事故の翌日、緊急時避難区域に指定された。
 
「4年前に主人が事故でなくなり、私は一人暮らし。避難生活を余儀なくされ、会津若松から茨城県石岡市、東京・国分寺市へ転々としました。親戚の家とはいえ、そう長くもおれませんし、本当に困りました」
故郷を失うとは何を意味するのか。住み慣れた土地を失うだけではない。隣近所とのコミュニケーションを失い、対話がなくなることを意味する。
 
「畑があるのに、自分が食べていける作物もつくれないなんて、悲しいです。洗濯物も外では干せません。放射能を浴びるからといって、庭木も切りました。本当に落ち込んでしまいます」
 
落ち込むのが当然で、落ち込まない方がおかしい。大地にしっかりと根を張って生きてきた日高さんにとって、食べる作物をつくれないのだから、これほど苦しいことはないだろう。しかし、私は日高さんの話す一言一言に、絶望の果てにも人間が人間らしく生きようとする姿の中に「希望」を見る思いだった。
 
絶望をくぐり抜けた「希望」は、どんな言葉よりも重く、我々の心に響く。日高さんはそれを私に教えてくれた。いや、日高さんだけではない。福島で出会った多くの人々に、「希望」を与えてもらった。
 
 
文集『学徒動員から40年―郡山空襲の思い出』
 
 
「今から70年前。自然を友に川で魚をとったり、水泳ぎをしたり、草や木の実で遊び道具をつくり追いかけっこしていた」――。
 
日高さんと同じ学校の同級生であった阿部信子さん(84)は、二度と同じ過ちを子や孫に繰り返させないために作った文集『学徒動員から40年―郡山空襲の思い出』にこう綴っている。さらに続ける。
「青春時代の真っ只中であった私たちは、昭和17年4月、原町高等女学校に入学するや、戦争のため学校の授業をつぶし勉強どころではなく、出征兵士の農家の田植えや稲刈り、麦刈り、塩作りなど何でもやりました」
 
戦時中、女性を動員した最たるもののひとつは軍需工場への動員だった。大東亜戦争開始直前の昭和16年(1941)11月22日、14歳以上25歳未満の未婚の女子に年間30日以内の勤労奉仕活動を義務付ける「国民勤労報国協力令」が交付された。
 
その協力令に基づいて昭和19年1月19日、14歳から25歳までの未婚女性を軍需工場に動員した。しかし、勤労から逃げる女性に対して、東条英機首相は「婦道に恥じよ」と叱責した。そのために女学校の学生は一人残らず、学業を捨てて勤労に参加することになったのである。
 
敗戦時、徴用された女子の動員は47万2000人、その他の女性労働者は313万人に達したという(若桑みどり『戦争がつくる女性像』筑摩書房)。
 
さらに阿部さんは文集に綴っている。
 
「とうとう私たち現役の在学生にも学徒動員が敷かれ、昭和19年(1944)10月、郡山の日東紡績富久山工場に行くことになりました。工場の寮に入った私たちは、12、3人ずつ部屋割りと職場の割振りをしてもらい、せんべい布団に身を休めました」
 
阿部さんの職場はロックウール(岩綿)を仕上げるところ。板にしたロックに寒冷糊で貼り付け、乾燥室で乾かし、防音用に使用するというもの。
当時、日東紡績富久山工場の労働力不足は深刻だった。それを補うために阿部さんら女学生は一人残らず軍需工場に動員されたのである。もちろん、これは志願ではなく、国家権力によって駆り出された国策だった。
 
無垢な魂を戦争へと駆り立てた東条英機を始めとする政治・軍事指導者たち。未来を担う若者たちにむけては硬直した皇国論と精神論を繰り返した。その傲慢で威圧的な言動は若者たちの心を蝕んだ。
 
昭和17年、「欲しがりません 勝つまでは」という標語が生まれた。この標語は大政翼賛会と在京新聞社3社が主催して募集したものだが、実際は国が関わっていたもの。国家の強制である。
 
さて、阿部さんの空襲体験から。
「ドシーン」。空襲警報が鳴ると同時に、爆弾の雨あられ。阿部さんはあわてて防空壕に入った。
「ドシーン、ドシーン」
たちまち防空壕は崩れ落ち、下敷きとなった。やっとの思いで這い上がってみると、工場は火の海。周りには血だらけの人が泥まみれでうめき声を上げていた。焼け残った寮では、会津若松の耶麻女学校の犠牲者の通夜が行われていた。
 
4月12日の郡山空襲は県内最大の被害だった。保土谷化学204名、日東紡績富久山工場92名、横塚22名、方八町30名を中心に460名もの方が爆死した。
 
「大本営」の虚偽・誇大報道
 
この最大の被害を出した郡山空襲について、当時の新聞はどう報じていたのか。私は福島県立図書館へ行って調べた。当時の新聞は2ページのタブロイド版。空襲については1面の左下、サード扱い。「昨朝B29約百五十機 帝都郡山に来襲 低辺行動、工場地帯狙う」という見出しで、記事は30行ほど。中身はまったくの無味乾燥の記事である(『朝日』1945年4月13日付)。
 
いかに、戦中の報道統制がすさまじいものであったかが分かるだろう。それは郡山空襲に限らず、全国の空襲についても同様の報道統制だった。
 
たとえば、作家・高見順の『敗戦日記』。これは東京大空襲についての記述である。
 
「昨日の来襲に関する大本営発表を新聞で見る。新聞にはこれ以外にはほとんど何も書いていないので、どこが、どのくらい被害があったか一切不明」(1945/3・5)
 
「大本営発表」は華々しい戦果を喧伝する。しかし被害は一切、発表しない。そして市民がいくら焼死し、爆死しようと知らぬ顔。これが空襲下の日本政府の一貫した態度だったのである。
 
「大本営発表」の虚偽や誇大報道は国民の知る権利を愚弄し続けた。保阪正康『仮説の昭和史・下』(毎日新聞社)によると、3年8カ月近く続いた太平洋戦争で「大本営発表」は846回行われた。1カ月平均にすると19回になる。しかし、その内容は真実からほど遠く、虚言、言い換え、偽善を繰り返したという。
 
本来、連合軍との戦争によって軍事的にどうなっているのかを国民に知らせるべきなのに、それがことごとく虚偽、誇大となれば、国民の知る権利はどうなるのか。
「大本営発表」は国民にとっては、戦況を知る唯一の手段。それを日本の指導者が意図的に虚偽の情報を与えたとすれば、その責任は厳しく問われなければならない。しかし、この国ではまったく問われたことはない。
 
戦況が悪くなると、表現を言い換える。たとえば、アメリカ軍の猛攻撃に対して日本軍が「撤退」したにもかかわらず、「転進」と称したように。それでも現実をかばいきれなくなると、公然と「ウソ」をつく。
 
この構図は戦後社会においても温存されたといってよい。福島第一原発事故に伴う政府や東電の情報開示の操作は、大本営発表がかかえていた「国民の生命と財産を守る」よりも、「政」と「官」の面子を守ることに似ている。
 
 
                                                                                                                                    (つづく)

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