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*

片野勧の衝撃レポート『太平洋戦争<戦災>と<3・11震災⑦『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』郡山空襲と原発<下>

   

片野勧の衝撃レポート
 
太平洋戦争<戦災><3・11>震災
『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すのか』
郡山空襲と原発<下>
 
                片野 勧(フリージャーナリスト)
 
 
背中の傷
 
「郡山空襲のことを語るのは辛いです。亡くなった8人の顔が浮かんでくるので……」
当時、15歳の塩田良家(よしえ)さん(83)は白河高等女学校(現・県立白河旭高校)3年生だった。彼女は学徒動員で保土谷化学郡山工場の電解615(苛性ソーダ)に配属されていた。
――あの日、昼にはまだ早いと現場に戻り、長靴に履き替えようと思ったとき、空襲警報のサイレンと同時に爆弾が投下された。1945年4月12日正午前だった。
この郡山空襲で460人が犠牲になったが、そのうち同工場に動員されていた白河高等女学校の生徒160人のうち、14人が犠牲となった。塩田さんは一緒に逃げた9人のうち、ただ一人、生き残った。
 
塩田さんの証言は続く。
――防空頭巾を被り、外に出てみて気は動転した。防空壕に逃げたが、そこはすでに満員。別の防空壕にやっとの思いで頭部だけ突っ込んだ。入口の丸太にしがみつき、爆風と臭気に耐えていた。
 
急に背中に重みを感じた。振り向くと、生臭い血みどろの首のない女性の体が背中に寄りかかっていた。仰天して壕を飛び出し、爆弾が落ちる中を必死に逃げた。直後にその防空壕に爆弾が直撃した。まさに生と死は紙一重。
放心状態で爆撃直後の生々しい生き地獄の中をどう逃げたかは覚えていない。しかし、たどり着いたのは社宅らしい木造の建物だった。気がついたときには倒壊した壁の下敷きになっていた。
数時間後、消防団に救出され、病院に運ばれた。全身に傷を負い、背中に激痛が走った。爆弾の破片が左肩から脇の下へ貫通していたのである。
 
「67年たった今も痛みが走ります」
塩田さんは痛みを感ずるたびに、ともに逃げて亡くなった8人の顔が浮かんでくるという。白河高等女学校の卒業生は毎年、郡山市堂前町の如宝寺で慰霊祭を行っている。
「一日一日を大切に生きていくことが恩返しと思っています」
塩田さんの目から涙がこぼれた。
 
郡山はなぜ、狙われたのか
 
私は郡山空襲について調査研究している人物に会うために郡山を訪れた。3・11「東日本大震災」から約8カ月後の2011年11月9日だった。彼の名は荒井三夫(79)。彼は現在、「郡山地域の戦争と平和を考える会」で活動。以下、一問一答。
――なぜ、郡山空襲の研究を始められたのですか。
 
「戦後の1951年、私は保土谷化学郡山工場に入社しました。しかし、工場には空襲の残骸が残り、レッドパージが行われた跡が色濃く残っていました。平和を考えるためには、郡山の空襲を調査・研究する必要があると思ったからです」
 
レッドパージとはアメリカの占領支配のもと、政府や企業が強行した日本共産党員とその支持者にたいする無法・不当な解雇のこと。荒井さんは従業員から戦時中の体験を聞いたり、さまざまな文献や米軍資料を手に入れ、爆撃された要因を調べた。
――なぜ、郡山は米軍に狙われたのですか。
「東京大空襲後の4月から全国の重要な工場や軍事施設が爆撃されました。郡山でのターゲットは保土谷化学郡山工場でした。工場ではガソリンの性能を上げる添加剤・四エチル鉛の生産に追われていました。この四エチル鉛は、戦闘機が急旋回、急降下するのになくてはならず、航空戦略を左右する重要なものでした、空襲時には3200人もの従業員がいました」
――なぜ、四エチル鉛の製造が郡山工場で行われたのですか。
「戦前、日本は四エチル鉛の入手はアメリカからの輸入に頼っていました。しかし、1937年に日中戦争が始まると途絶してしまいました。そこで保土谷化学は独自に製造研究に着手したのです。しかし、極めて毒性が強いため住宅密集地ではできず、1938年秋に郡山工場で実験が開始されたのです」
軍部は生産の行方を重視し、海軍大臣・嶋田繁太郎、軍需局長・御宿(みしゅく)(このむ)、東久邇宮殿下、陸軍大将・土肥原(どいはら)賢二、海軍軍令部総長・永野修身(おさみ)、前総理大臣・東條英機らが次々と工場を訪れたという。
米軍は捕虜の証言などから工場で四エチル鉛を作っていると断定。空襲の2週間前の3月30日に航空写真を撮影して詳細に分析。それに基づき工場の心臓部はほとんど破壊したという。郡山空襲は東京大空襲のような焼夷弾攻撃ではなく、特定の軍事施設を狙ったもので「500ポンドGP爆弾」が投下されたのである。
 
――工場には多くの女学生が勤労動員されました。
「610人の女学生が動員され、26人が犠牲になりました。このなかで白河高女の生徒が14人と過半数を占めたのは、郡山までの通勤ができず全員工場内の寮に入っており、空襲時は食事時間のため、近くの防空壕や寮で爆死しました」
空襲による犠牲者は保土谷化学郡山工場204名、日東紡績富久山工場92名、東北振興アルミ工場47名、周辺住民も含め、計460名が犠牲になった。
さらに7月20日には2発の模擬原爆で39人が犠牲となり、8月10日にも艦載機による攻撃で29人が亡くなった。
――ところで、原発事故によって福島も大きな被害を出しました。
 
「私は保土谷化学郡山工場の研究室で有機化学関係の仕事をしていましたから、放射能に対しては強い関心をもっていました。“絶対安全”といわれてきましたが、その“神話”が崩れたわけですから、廃炉にすべきです。それでも無害化までは数十年が必要なんです」
空襲と原発という国策に翻弄され、受忍を強いられてきた郡山の被災者たち。事故を起こし原因も責任もあいまいなまま再稼働する原発と、多くの国民を巻き込んだ郡山空襲は同根と荒井氏は語る。
 
人間の尊厳を奪う原発事故
 
原発事故で今も16万人が国元に帰れない人々。終の棲家を失い、人間の尊厳を奪われた福島県の被災者たち。
私は3・11後、数回、福島の被曝被災地に取材に入った。その間、ずっと、「なぜ、こんなにたくさんの人々が被曝したのか」「なぜ、避難に失敗したのか」を考え、取材を続けてきた。
 
飯舘村。標高500メートルの村は晩秋。コスモスの花が咲き乱れていた。絵に描いたような美しい田園風景が広がっていた。
しかし、山道を走っていて、私は言葉を失った。人は村から消えていた。農民は行き場を失い、人っ子ひとりいない。汚染されているであろう川の周辺にも人影は見えない。生活する人がいて社会が成り立つ。そんな当たり前のことが、この村から消えていたのだ。
 
福島第一原発の事故による放射能という“見えない津波”によって、今なお多くの命・生活・未来が脅かされている。尊い命を守り、美しかった飯舘村を取り戻すために、どうすればよいのか。
先の荒井氏はこう言う。
「この夏、再稼働しなければ停電すると政府や電力会社は言いましたが、国民の努力で原発がなくともやっていけたじゃないですか。それなのに国が原子力政策を強引に進めていくなら、飯舘村はもとより、福島県の復興はあり得ません」
 
もう一つの「原爆」福島に落とされた模擬原爆
 
太平洋戦争末期の1945年7月20日~8月14日。米軍は広島、長崎に先駆け、原爆投下訓練を目的に長崎型原爆「ファットマン」と同じ形の容器に火薬を詰め、同じ重さにした1万ポンド(5トン)爆弾を東京や富山、滋賀、神戸、大阪など50カ所に投下した。「模擬原爆」といわれる、この爆弾で400人以上が死亡し、1200人以上が負傷した。
 
この爆弾が模擬爆弾と判明したのは1991年11月、愛知県春日井市の「春日井の戦争を記録する会」のメンバーによる調査からだった。国立国会図書館で機密扱いが解除された米軍の資料を閲覧していたときに発見したものだ。
原爆投下の実地練習としての「模擬原爆」は福島県の場合、福島市といわき市に投下された。この模擬原爆はかぼちゃのような形や色をしていたことから、パンプキン(かぼちゃ)爆弾とも呼ばれた。
 
広島に原爆を投下したエノラ・ゲイの機長だったポールW・ティベッツ・ジュニア准将の証言。
「(模擬原爆の訓練は)実際、搭乗員たちがしてきた訓練の頂点だったから、たいへんに役立った。彼らに訓練用爆弾を与え、彼らを一つのピンポイント目標に送り出し、結果を写真に撮り、われわれは彼らに目視条件のもとに投弾することだけを許した」(米軍資料『原爆投下の経緯』東方出版)
 
米軍は原爆を投下する際の各作戦、戦略について精緻な分析と戦果に直結する優秀な人材を抜擢していた。一方、日本軍は権威によって現場や優れた技術者を抑圧し、トップの考えがすべて正しいと繰り返した。この彼我の差が勝敗を決定づけたといってよいだろう。
 
模擬原爆で弟を失う
 
私は戦後67年目を迎え、人々の記憶が風化する中、模擬原爆で弟を失った斎藤ミチさん(85)を訪ねた。福島市渡利字前山。2012年8月21日午後3時過ぎ――。「ピンポン」。何度、ベルを押しても返事がない。隣の人の話だと、病気で入院したという。
それからちょうど1カ月後に携帯から電話を入れた。
 
「韓国からも取材を受け、あちこち動き回ったものですから、疲れてしまって……。もう、年ですけども、頑張らなくちゃね」
電話口に出た彼女の声は明るかった。彼女は当時、18歳。1945年7月20日の朝だった。「ドカン」。落雷のような炸裂音と地響きがした。いろりに腰掛けて地下足袋を履こうとしていた斎藤さんは、敷居まで吹き飛ばされた。母と二人で山へ逃げた。
 
5つ年下の弟・隆夫さんは自宅から数百メートルの田で除草していた。その田から黒煙が上がった。山を駆け下りた斎藤さんは言葉を失った。泥まみれで腹部をえぐられた弟の遺体を見つけた。あまりの衝撃で泣くことすらできなかった。
「たった一発の爆弾で死んだなんて、可愛そうでした」
しかし、この爆弾が人類初の原爆投下を成功させるために米軍が訓練として投下した模擬爆弾だったと聞かされたのは、終戦から随分と時が経過してからだった。
 
東京電力福島第一原発事故による放射能で汚染され、またも「原子力」で翻弄された。
「大事なことは何も知らされねえ。今も昔も変わらねえ。これではまた日本は同じ過ちを繰り返すのではないかねえ」
情報を統制した戦前の軍部と情報開示に消極的な今の東電と政府の姿勢が重なって見えたのだろう。
閑静な渡利地区は福島第一原発から60キロ。避難の対象地域には指定されなかったが、1、2カ月後に斎藤さん宅の庭を役所の人が測定すると、毎時1・7マイクロシーベルトだった。
 
私が訪れた時は、測定器を持っていなかったために、値はわからない。しかし、福島市のHP「環境放射能測定値」によると、渡利地区は毎時0・4マイクロシーベルト(2012年8月28日現在)だった。明らかに福島第一原発から飛散した放射性物質に覆われているのだろう。
 
内部被曝の恐ろしさ
 
放射性物質がもたらす内部被曝の恐ろしさ。飲食や呼吸などによって体内に取り込んでしまった放射性物質は、内側からじわじわと我々の身体を蝕む。1日24時間、ずっと低線量で被曝させ続けると、身体にどんな影響があらわれるのか。
 
日本の政府や学者はよく、「年間何ミリシーベルト以内なら健康に影響はない」「毎時何マイクロシーベルトまでなら大丈夫」といわれる。しかし、これは外部被曝の場合のこと。内部被曝は外部被曝と違って、放射性物質を体内に取り込んでしまい、1日24時間ずっと被曝し続けるという。その影響は、たとえ微量でも健康を害する可能性がアップするという。
 
体内に入る放射性物質は「それ以下なら安全」ということは有り得ないのだ。「少しでも体内に入ったら、長期的に被曝し続けるのだから、政府や学者の言っていることはウソです」と広島で被曝した医師・肥田舜太郎氏(95)は言う。
 
微量でも健康に影響する内部被曝の被害について、日本政府は無視し続けてきた。それはなぜなのか。肥田医師の証言。
「日本が降伏して米国の軍隊が占領し、GHQが統治を始めました。そして『米国の軍事機密』だとして、原爆の影響について研究したり論文を書いたり、学会で論議したりすることを禁じたからです」(『内部被曝』扶桑社新書)
 
アメリカ軍(連合国軍)が日本を占領していた約6年7カ月間(1945・9~1952・4)、日本の新聞、雑誌、放送、書籍、広告などはすべて占領軍によって検閲されていた。違反すれば、厳罰に処された。いや、銃殺に処されると脅された。だから、「原爆の被害に遭いました」などと言えなかった。
 
日本政府はアメリカの命令だから、被爆者が苦しんでいても、まったくお構いなし。ようやく1950年に被爆者の医療に関する法律ができ、本人が申し出た場合のみ「被爆者手帳」を発行したのである。
 
本物の原爆が落とされたら
 
再び、斎藤ミチさんの証言。
 
――爆死から2、3日後、弟の命を奪った爆弾の破片が見つかった。長さ約50センチ、幅約20センチ、重さ15キロ。見つけたのは父親。「息子の供養に」と近くの瑞龍寺に預けた。
 
福島市の渡利に落とされた模擬原爆は広島、長崎の原爆投下に密接に関係している。渡利に模擬原爆が投下された17日後に広島に、20日後に長崎に本物の原爆が投下された。一人暮らしの斎藤さんは電話口でこう言った。
「もし、本物の原爆が渡利に落とされたら、どうなっていたかねえ」
福島の建物は全壊し、何万人の死者が出たに違いない。さらにこう続けた。
 
「今の日本を取り巻く雰囲気は戦前の嫌な雰囲気と似ていますねえ。戦争の悲惨さを知らない若者の安穏さは危険ですよ」
だから、平和を求める声を大きくしていかなければと斎藤さんは思う。
私が訪ねたとき、渡利周辺の田畑は除染されずに荒れ果てていた。
 
いわき市も爆撃に遭う
 
郡山空襲は先に述べたように1回目は1945年4月12日午前11時7分ごろから約2時間にわたって、軍需工場だった保土谷化学郡山工場・日東紡績富久山工場などを中心にした攻撃だった。2回目は7月29日午前9時15分からの爆撃で死者は39名。3回目は8月10日午後3時7分頃の銃爆撃で29名の死者を出した。
 
しかし、2回目、3回目の爆撃は「捨て玉」空襲だった。「捨て玉」というのは、B29が鹿島灘を通ってマリアナ基地へ帰るのに爆弾を持っていると、着陸を間違えたとき飛行機自体が爆発するので、着陸する前に全部、空にして余った爆弾を投下していったことを指す。そのために平市(現いわき市)は3回も空襲に遭い、戦災者8千500名、焼失家屋2295戸、死者22人を出した。
 
そのほか、福島県で被害に遭った市町村は本宮町・小名浜・須賀川市・原町市・富岡町など。また阿武隈山系の川内村や大越町・滝根町・船引町・小野町・御館村なども被害を受けた。大越町は駅の中心街を焼失、死者は4人だったという(『日本の空襲1―北海道・東北編』三省堂)。
 
太平洋戦争による「戦災」と3・11「東日本大震災」による原発事故。どちらも未曾有の災厄だが、被害の性質がまったく違う。しかし、共通しているのは「人災」ということ。その対応や復旧・復興に大きな開きがあることだ。
これは政治家と官僚、学界などが責任の所在をあいまいにし、「拠らしむべし、知らしむべからず」という上意下達の思想からきている。この国家の体質を変えない限り、原発事故の復興は遅れるだけでなく、次にくる大災害でも同じことが繰り返されるだろう。
 
一市民による「戦災民俗資料館」
 
私は吉田昭治さん(84)の自宅へ向かった。吉田さんが独力で建てた「戦災民俗資料館」を見るためである。吉田さんの住まいは郡山市横塚にあった。吉田さんに案内されて館内に入った。吉田さんは現在、郡山市遺族会会長。
 
横塚地区に投下された爆弾の破片や焼けただれた家財の一部、郡山空襲を伝える戦災記録、当時の惨状を綴った手記などが展示されていた。しかし、失礼ながら、資料館としては必ずしも人に見せられる代物とはとても思えない。埃がいたるところにある。やはり、一民間人の手で運営することは難しいのだろう。行政がもっと手を差し伸べるべきではないのか。
 
一方、こうした戦災資料と一緒に、吉田さん方にあった古い農機具や民具(野良着)、戦前の小学校で使われた教科書や机、遊具が並べられていた。それに発動機、文政年間の土摺臼、カマドなど戦前の台所用具、祭事など400点が解説付きで展示されていた。私は聞いてみた。
 
――いつ、建てられたのですか。
「昭和38年(1963)4月です。約100平方メートルの広さで、総工費は約500万円かかりました」
郡山空襲から18年後のことである。決して目立つ建物ではない。当時の500万円を今に換算すれば、いくらになるかは分からないが、相当の金額だったに違いない。
――なぜ、私財を投じてまで資料館をつくられたのですか。
「苦しい時代を知る人は少なくなり、街もすっかり変わった。平和な時代に生きる子供たちに、辛かった戦争や戦前の暮らしを伝えたかったのです」
――大事な視点ですね。
「空襲で肉親や家を失い、地下壕の中で暮らした悲惨な戦争体験を2度と子供たちに繰り返えさせてはなりませんから」
 
横塚地区へも爆撃を加えた
 
横塚地区。吉田さんの家は江戸時代から農業を営んできた旧家。太平洋戦争末期の昭和20年4月12日、付近に軍需工場・保土谷化学郡山工場があったため、B29の猛爆を受け、同地区の約80戸のうち65戸を焼失、22人が焼死した。吉田さん宅も爆撃で焼失した。この猛爆で祖母ハルさんを失った。
 
当時、16歳だった吉田さんは横塚の自宅から約1キロ離れた畑で両親と農作業をしていた。その時、12機編隊で本宮方面へ北上していたB29の2機が突然、向きを変えて郡山に来た。頭上のところで爆弾が落ちるのを見た。慌てて畑に身を伏せた。爆弾はそばの池に落ち、煙と埃がズドーン。九死に一生を得たのである。
保土谷化学郡山工場への爆撃は、よく知られている。しかし、同工場のあおりで横塚の集落が空襲を受けたことは“陰”に隠れてしまい、ほとんど知られていない。
 
「ですから、戦災の資料が少しでも残っているうちにやっておきたかったのです。次の世代に何としてもこの郡山空襲を伝えていかなければなりません」
――今後、資料館をどのようにして保存していかれるのですか。
 
「この資料館は郡山市が戦災後、被災者のために建ててくれたバラック建ての家をそのまま残して、そこにつくったものです。郡山空襲のシンボルとして残し、当時の様子を子や孫に伝えようと思います。そのために、もっと展示品を充実させて、子供たちに“生きた社会科”を学ぶ場所として役立てたいと思っています」
 
私はこの資料館の展示品を見て、「歴史を記録する」、あるいは「歴史を語り継ぐ」ことの難しさを改めて感じないわけにはいかなかった。67年前の戦災の現実をどのように語り継ぐべきなのか。
しかし、ささやかな小さな資料館であるが、展示品の一つひとつを見て、この資料館の空間には郡山空襲で被災した人たちの無数の苦悶の声が彷徨っているように思えた。私は思った。この目に見えない“苦悶の声”を受け止めることが「歴史を記録する」、あるいは「歴史を語り継ぐ」ことになるのではないか、と。
 
昭和という時代の中で、戦争によって何も語ることなく逝った人たちの声を代弁していく――それがこの資料館の基本的な約束ごとだと私には理解できた。と同時に、郡山空襲を記録し、歴史を語り継ぐこの資料館は、どのように推移していくのか。それはこの国の、いや郡山の歴史と向き合う姿を象徴しているように思えてならない。
 
公的援助もなく
 
外はすっかり暗くなっていた。私は資料館を辞した。公的な援助もなしに、「民間」の個人の援助と郡山空襲を語り継ぐことに使命感を持っている人によって運営されていてよいのだろうか。私は複雑な思いに駆られた。
 
私も栃木県の宇都宮市に住んでいたころ、事務局長として「宇都宮市戦災を調査する会」を立ち上げ、『宇都宮空襲・戦災誌』と『あの日の赤い雨』の2冊を刊行したことがある。その際、何度も宇都宮市に資金援助を要請した。当時の新聞の切り抜きから。
 
「空襲の記録を後世に 市に資金援助を要請 調査を一冊の本に収録」(『下野新聞』1974年4月12日付)「街頭で署名運動 近く市に資金など協力要請」(『栃木新聞』1974年4月12日付)「戦災記録を残すために援助を」(『下野新聞』1974年4月26日付)
しかし、宇都宮市から資金援助の要請は断られた。国や地方自治体はこうした記念誌や記念館を残すことに消極的なのが、この国の特徴である。しかし、それは歴史の負の遺産を残すまいとする意思の表れなのだろう。
 
 
※太平洋戦争(東北地方の空襲、東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキの原爆、沖縄戦、引き揚げ等)と今回の東日本大震災の両方を体験された方がおられましたら、編集部(公評社)へご一報ください。電話03(3264)0078(代)    (かたの・すすむ)

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