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片野勧の衝撃レポート(31)太平洋戦争とフクシマ④悲劇はなぜ繰り返されるのか「ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」➍

   

  片野勧の衝撃レポート(31

 

太平洋戦争とフクシマ④

≪悲劇はなぜ繰り返されるのかー

★「ヒロシマ・ナガサキからフクシマへ」➍

 

片野勧(ジャーナリスト)

 

 

人間の強さと鮮烈な人間ドラマ

 

戦争は人間が起こし、人間が殺し合う極限の状況を指す。特に原爆投下の犠牲となったヒロシマ・ナガサキの人々は、想像を絶する極限の状況に叩き込まれた。また原発事故による「核の脅威」で今も16万人もの人々がふるさとに戻れずに苦しんでいる。

そういう状況の中で人間はいかにして人間の尊厳を取り戻すか。私は被爆体験を持つ永尾大勝さんに、人間の強さと鮮烈な人間ドラマを見た。

 

年の瀬の2013年12月24日。私は朝6時に立川の自宅から車で福島へ向かった。福島第一原発の1~4号機が立地する福島県大熊町から会津若松市に避難している女性に会うためである。塾教師の木幡ますみさん(59)。「大熊町の明日を考える女性の会」代表。

会津若松は晴れていた。しかし、田園は真っ白い雪に覆われていた。松長近隣公園応急仮設住宅の集会場に彼女は待っていた。時計の針は午後1時を少し回っていた。ストーブを背にインタビュー。

――3・11。その時、どこにおられましたか。

「大熊町にいました。友達4人と喫茶店でコーヒーを飲みながら、おしゃべりしていました」

友達の中には東電の寮で働いている人もいた。彼女は寮の管理人だった。

「もし、原発事故があったら、この町には住めないよね」と木幡さんが言ったら、彼女は「そうだよね。原発は危ないよね。原発はとめなければね」と返事。さらに「この町には女性の町会議員が一人しかいないのもおかしいよね」。

「そうよ、おかしいよ」と別の女性が返事をした、その時、揺れが始まった。午後2時46分。

建物は揺れ、窓カラスは割れ、ピアノは倒れそうになった。天井は崩れた。90歳のおばあさんを必死に支えた。家族が迎えに来てくれて、おばあさんは助かった。

 

道路は寸断され、建物は倒れ……

 

余震は続いていた。喫茶店の向こうの家の石塀が「ドーン」と崩れて、その瓦礫が玄関の中にまで入っていた。揺れが始まってから約30分。「静かになったかな」と思って、家に帰ろうとしたが、道路は寸断され、倒れた建物で道路は塞がれ、車は一向に進まない。

「喫茶店から家まで、いつもなら10分ほどで行くんですけど、約1時間かかりました」

ますみさんは自宅に戻った。山沿いの野上地区。約30世帯の集落だが、ほとんどの家は被害なし。そのあと役場へ。

「うちのお父さんは町議会議員を務めていましたから、役場にいると思って……」

夫は役場にいた。ちょうど議会の委員会が終わったところだった。郡山出身のますみさんが大熊町に嫁いだのは昭和52年(1977)だった。

「お父さん、一緒に町内を見てこよう」

ますみさんの運転する車で2人は町の中心街に行った。「えっ!」。とんでもない騒ぎになっていた。自分らの集落とは被害が全然違う。建物は壊れ、ひと目でわかる地割れ。人は右往左往。双葉病院近くに来たとき、異様な光景に出くわす。

福島第一原発の方向から逃げてくる作業員らしい制服を着た人たちがコンビニ(ファミリーマート)に次々と入っていく。急ぎ足だった。

「押しかけて行く感じ。皆、何か買うんだけども、まともにお金を払う人は少なかったね」

停電してレジが使えず、店員は自分の電卓でパチパチ計算していたが、間に合わない。それを尻目に商品を持ち去っていく。

「日本人は礼儀正しく、整然としていると世界が称賛したでしょ! しかし、全部とは言わないまでも、それは絶対、ウソ。人間は浅ましいものですよ。真面目に払うのはバカバカしくなってくるんでしょうね、きっと」

 

「3・11」次の日は大学入試の日だった

 

――3・11の夜はどうしていましたか。

「次の日、次男の大学入試の日だったんで、よく眠れませんでした。お父さんは試験はないよ、と言いましたが、私は心配で東北大学の仙台に行きました」

東北大学には電話を入れても通じない。携帯もダメ。仕方なく、12日朝早く出発して仙台へ。しかし、浜通りは通れないから、中通りから入った。案の定、試験はなし。その日の夜、帰ってきてそのまま休んだ。

3月14日。ますみさんは家族と共に30キロ離れた田村市の総合体育館へ。飼っていた犬と猫も一緒に連れて行こうと思ったが、ダメだという。8時30分に家を出て、9時すぎに体育館に着いた。

2千人くらいがひしめいていた。ほとんどが大熊町民だった。中へ入ろうと思ったら、「人がいっぱいだから、どこかへ行きなさい」って。同じ大熊町民なのに、「何で入れてくれないの? どこへいったらいいの?」。

すったもんだの末、ますみさんはズタズタと入っていく。息子たちは車の中で過ごすと言っていたが、友達から「きなさいよ」と言われて体育館の中へ入る。

 

「泣く子を黙らせろ!」誰かが怒鳴る

 

体育館での避難生活にますみさんは苛立った。

「赤ちゃんが泣いたりすると、男の人が『うるせい、黙らせろ!』。また別の男の人が『どこかへ連れていけ!』」と怒鳴るんです」

言葉が熱を帯び、手振りが次第に大きくなる。お母さんは泣きながら、赤ちゃんを癒している。しかし、子どもは苦しいから、ますます泣く。そのとき、年老いた女性がつぶやいた。

「戦争中とおんなじだ。防空壕で怒鳴る人がいたんだ」

私はますみさんから、この話を聞いていて、68年前の沖縄戦の光景が浮かんだ。私は平成16年(2004)1月から2年数ヵ月、沖縄にいたことがあった。各地を取材して回った。沖縄本島中部の、とある小さな村。赤ちゃんを殺さざるを得なかった苦しさを、ためらいながらも伝えようとする、ある母親の話。

――1945年4月1日。沖縄の慶良間諸島の占領を終えた米軍は、その村に上陸を始めた。村人たちはガマと呼ばれる壕に避難した。恐怖に耐えながら、身を沈めた。

赤ちゃんの泣き声に、だれかが「黙らせろ!」と怒鳴る。泣きやまないと、米兵に見つかって殺されるから、赤ちゃんの口を塞ぐ。そのうち息が絶えた。この光景は、体育館で泣く赤ちゃんの光景と似てはいないだろうか。

 

寝たきりになった人、人……

 

ますみさんの苛立つ話は続く。

――突然の避難指示で何も持たずに逃げた人は多い。看護士は薬を持たずに避難した。体育館の中は寒い。夜の8時ころになると、ストーブの火は消える。

「寒いって、なかったね。底冷えのする寒さだった」

あまりの寒さに、あるおじさんは立ち上がった。その途端に「ドーン」と倒れて、まもなく死んだ。

「腎臓の悪い人も真っ黒い顔になって、寝たきりになった人を何人も見ました。病院へ連れて行けと言われても、医療機関として成り立っているところはありません。透析をやっている人は電気と水がないと死んでいきます」

 

家も仕事も失い、極限状況の中で暮らす福島県民。浜通りの大熊町は会津若松市、富岡町はいわき市、浪江町は二本松市、楢葉町は会津美里町、広野町は田村郡小野町など県内に分散。親戚を頼って、県外に出た県民も多い。

原発事故から3年が経つ。しかし、家族はバラバラに分断され、いまだに生まれ育ったふるさとを追われ漂流を続けている。再び、ますみさんの証言。

「私たちが一番、心配しているのは、放射能はもちろんのこと、それを口にできない辛さ。それに地域の人と人との絆が分断されたことです」

 

「放射能が怖い」という一言すら口にすることを許してくれないこの社会。極端な例では、原発によって夫婦関係が壊れてしまったこの信頼の絆。それをどう立て直していくか。

「それは自分で考え、流されずに行動していくこと。それが復興にもつながっていくのだと思う」

 

大災害は人間の本性をあぶり出す

 

――そのほか、避難生活で思ったことは?

「町議会議員や町長のだらしなさでしょうかね。何もできないのよ。おにぎりを運んだり、味噌汁をつくってくれたのは皆、住民ですよ。いざという時、やはり強いのは住民です。町議会議員は酒ばかり飲んでいました」

大災害は人間の本性を図らずもあぶり出す。優しさも卑しさも露呈させる。戦時中も戦局が悪化し、危険を感じると、真っ先に逃げたのは住民を守る立場の軍人だった。官は国民を守らない――。それとよく似ている。

体育館には子供たちもいた。あるとき、子供たちからこんな言葉を聞いた。今でもますみさんの脳裏から離れないという。

「空から黒い雨が降ってくるよ」

驚いたますみさんは外に出て見たら、確かに黒い墨のようなみぞれだったという。この話は1965年に出版された井伏鱒二の小説『黒い雨』を思い出させた。広島原爆――。一瞬の閃光に街は焼けくずれ、放射能の雨のなかを人々はさまよい歩く。そして“黒い雨”に打たれただけで、体が蝕まれていく井伏鱒二の寓話は、原発事故で住民が逃げ出し、いつ帰るかもわからない忍苦と不安を強いられている人々の姿を象徴していないだろうか

 

2世帯に1人働く原発城下町

 

福島県大熊町。かつては産業が乏しく、出稼ぎが暮らしを支えていた。しかし、43年前の1971年、営業運転を始めた福島第一原発は雇用と財政を潤し、町は発展。住民の2世帯に1人は原発関係に働く原発城下町だった。大熊町民の人口の1割、約1100人は第一原発関係の人たちだった。

その原発が巨大地震と津波に呑まれ、制御不能になった原発はメルトダウン(炉心溶融)を起こし、放射能を撒き散らした。

逃げてきた作業員の中には、ますみさんの塾の教え子も何人かいた。彼らにコンビニでばったり会った。

「どうしたの? そんなに急いで」

作業員の一人が言った。

「先生、ここを逃げろ! もう、配管はめちゃくちゃだ。全部、壊れているよ」

津波が来る前だった。ますみさんは語気を強めた。

「東電は電源喪失を地震ではなく津波といったでしょ。それは違うと思う。だって、現場で働いていた作業員が言うんだもの。『津波が来る前に壊れていた』って。東電は隠しているのよ」

政府の事故調報告書もいまだに電源喪失が地震段階なのか、津波段階なのか不明のままだ。ただ、黒川清さん率いる国会事故調は地震段階で電源喪失していたと判断しているけれども。

さらに言葉を継いだ。

「原発事故で問題なのは、誰が責任者なのか、その名前が出てこないことです」

日本社会は責任者が出ることを嫌う。資料を隠蔽し、本当の責任者を明かさない。太平洋戦争でも、破局に至るとわかっていても、突き進んだ。その結果、300万人を超す犠牲者を出した。約30万人の避難を招いた今回の原発事故でも、誰も責任を取っていない。それを究明しない限り、また同じことが繰り返されるだろう。

 

父は広島にいた

 

ますみさんは体が弱かった。子供の時から皮膚がんや大腸がんを患っていた。足も悪かった。30歳の時、肺がんになって、いわき市の病院に入院した。医師からこう言われた。

「お父さんかお母さんが広島にいませんでしたか」

ますみさんはすぐに父親に電話した。父親は元小中学校の教師だった。

「お父さん、昔、広島にいなかったですか」

父親は「何を聞くんだ、いきなり。いないにきまっているだろ!」とすごい剣幕で怒鳴る。

「なんで怒るのだろう。入院していて大変なのに。その時、私は疑ったんです」

2012年4月、父親は亡くなった。亡くなるちょっと前、ますみさんは「あした東京へ行くから、私が帰ってくるまで元気でいてね」と声をかけた。その時、父親は小さな声で「ますみ、ご免な」。「なぜ、ご免なの?」と聞くと、「私は広島にいたんだ。悪かったな」と言って、自分が広島で被爆したことを初めて明かしたのである。

それは外部被爆ではなく、原爆が落ちた2日後、遺体の片付けのために軍の命令で広島に入って被爆した、いわゆる「入市被爆」である。父親がそれまで黙っていたのは、ますみさんの体が弱かったのは、自分が被爆したせいだろうと思っていたのかもしれない。

私は取材を終えて、仮設住宅の集会場をあとにした。ますみさんは駐車場まで送ってくれた。帰りがけに言った言葉。

「大熊町の自宅に帰りたいけど、帰るのは無理かも」

震災から3年――。朽ちゆく家。帰郷は見果てぬ夢か……。ますみさんの表情に悔しさがにじんでいた。外は冷たい風がビュービュー吹いていた。

 

片野 勧

1943年、新潟県生まれ。フリージャーナリスト。主な著書に『マスコミ裁判―戦後編』『メディアは日本を救えるか―権力スキャンダルと報道の実態』『捏造報道 言論の犯罪』『戦後マスコミ裁判と名誉棄損』『日本の空襲』(第二巻、編著)。『明治お雇い外国人とその弟子たち』(新人物往来社)。

 

                               続く

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