『日本の運命を分けた<三国干渉>にどう対応したか、戦略的外交の研究講座④』★『日清戦争の原因の半分は朝鮮紊乱(大院君派と閔妃一派の激烈な権力闘争)とそれによる壬午事変・甲申事変と長崎事件がある』
逗子なぎさ橋珈琲テラス通信(2025/11/08am700)
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朝鮮紊乱と長崎事件
もともと、江戸時代約三百年の『鎖国日本』が一国平和・安全主義で国際紛争の圏外にあったのは、中国大陸に清帝国という強大国があり、朝鮮には李王朝が清朝に家臣の礼をとる朝貢秩序の下位国で、二国ともあえて外国征服を欲しなかったからだ。
その東アジアの安定と平和が崩れていったのは西欧列強の武力侵略と、清朝、李王朝ともに弱体化したからである。
もともと朝鮮半島はヨーロッパの歴史的な紛争、混乱、戦火の地であるバルカン半島に類似している。李王朝末期の混乱と衰亡の原因を、田保橋潔著『近代日鮮関係の研究』(1940年)はこう指摘している。
李氏朝鮮が滅亡した三大原因は・・・・・
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① 外寇(がいこう=戦争、外圧)、
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② 朋党(ほうとう=前近代の中国やその周辺地域、李氏朝鮮においては政治的な思想や利害を共通する官僚同士が結んだ党派集団、派閥のこと)
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➂戚族(せきぞく=親戚、身内)の三点がを挙げられる。
- 特に、第三の戚族のわがまま勝手なふるまい)は特にひどかった。須山幸雄『天皇と軍隊 (明治編) 』(芙蓉書房 昭和60年)では「国王の生父大院君の一派と、国王妃閔妃一派の激烈な抗争が朝鮮半島の動揺とその後の東アジアの混乱を招き、清国の衰亡を早め、代わって日本の台頭をもたらした。」と指摘している。
日中韓の争いはここから発するが、明治政府にはこの問題を解決するための海軍力が全くなかった。日本の独立と安全を護るためには、何をおいても海軍力の拡充・整備が急務であることを明治政府は痛感した。
1882年(明治15)7月23日に、李氏朝鮮の興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員ら数十人が殺害された壬午事変(じんご)がおきた。
この時、日本の海軍には艦艇は12隻しかなかった。3年後、再び朝鮮独立党の甲申事変が起き朝鮮情勢がますます緊迫してきた。このため明治政府は海軍力増強のため92隻の建造を計画したが、財政難を理由に21年までに着手したのは22隻だけだった。
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清国は大海軍強国
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陸軍参謀本部の川上操六次長はこの時、第二次伊藤内閣に国防の急務を訴え、明治天皇に奏上した結果、一八八七年三月、明治天皇は海防整備の勅語を発布し、御手許金三〇万円を建艦費として下賜した。当時の皇室費は年額二五〇万円なのでその約一割である。
一方、清国は翌一八八八年、近代海軍の艦隊整備が完了し、北洋艦隊を発足させて、国内外に大々的に発表した。この北洋艦隊は日本を仮想敵国として約一〇年をかけて完成し、母港は山東半島北岸の「威海衛」 に置いた。創設者は北洋通商大臣兼直隷総督・李鴻章(りこうしょう)で司令官は丁汝昌(ていじょしよう)。世界最大級の巨艦の甲鉄砲塔艦「定遠」「鎮遠」(共に七二〇〇トン余)など、ドイツから購入した新鋭艦四隻、巡洋艦七隻、装甲砲艦一隻で主力艦隊を形成し、日本を威圧した。
壬午事変が勃発した際、李鴻章の命令で丁汝昌は北洋艦隊を率いて朝鮮に急行し、大院君を拉致して清国に幽閉した。この結果、朝鮮には親清政権が復活し、朝鮮への日本の進出は阻止された。
完成した北洋艦隊はこれより黄海、東シナ海を盛んにデモンストレーションし、日本、朝鮮各港に寄港して圧倒的な海軍力を誇示した。この結果、朝鮮を属国支配する清国と朝鮮の独立を支持する日本が正面衝突し、対立がエスカレートしていった。2010年9月の尖閣諸島中国漁船衝突事件、尖閣諸島周辺、南シナ海での中国海軍の一大デモンストレーションと類似しており、今回の台湾有事の緊迫と同じである。
ァジア最大の軍事大国・清国は、丸腰同然の日本に対して西欧流の砲艦外交を仕掛けてきた。特に北洋艦隊は台風のための避難や給水等を口実にして、無通告で日本の港に入港するケースが多く、日本は手も足も出なかった。陸軍兵力でも、日本軍は五万四千にすぎなかったが、清国軍は一〇〇万を超えていた。
この清国の大艦隊・清国北洋水師提督丁汝昌は旗艦定遠に坐乗し、鎮遠、済遠、威遠の三艦をひきい、長崎港に寄港したのは1886年8月10日。七月中旬、「威海衛」を発し、朝鮮の仁川に立ち寄り、ロシアのウラジオストックを訪問、その帰路立ち寄った。最初から長崎を目ざしたものでなく、航海の途中、定遠の艦底が破損したため、その修理のため寄港したのである。実はこの寄港の目的は日本を威圧するためのデモンストレーションでもあった。
清国は1885年(明治18)4月、天津条約が成立すると、日本を仮想敵国とした。清国駐日公使館は前年から「日本地理兵要」を作成し、日清戦争の準備を始めていた。江蘇省の按察使(あぜちし・司法・治安・監察を管轄する地方官)応宝時も江蘇巡撫(こうそじゅんぶ、江蘇省の長官)張樹声も日本征伐を主張した。その理由は「北洋艦隊の主力艦は定遠と鎮遠で、七千トンを超える最新鋭戦艦で、日本海軍の最大級の戦艦でも四千トンで勝てるとみたのである。
また、李氏朝鮮国王高宗にとって、朝鮮は、極東最大の海軍を持つ「宗主国」清国に庇護されることが心地良かった一八八五年十月、北洋艦隊に朝鮮海峡(対馬と朝鮮本土の側の海峡)通過を依頼し、日本へのデモンストレーションを望んでいた。北洋艦隊はその期待に応えて朝鮮沖合での訓練を繰り広げ、ウラジオストックにも寄港していた。
- 長崎事件の勃発">https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%95%B7%E5%B4%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

- 1886年8明治19)8月に長崎に来航した清国北洋艦隊水兵が起こした暴動、殺傷事件。
- 定遠の艦長は英国士官のロング大佐で、英国やドイツの海軍士官多数が乗り組んで清国の士官や水兵の指導に当たっており、航海訓練とデモストレ―ションが目的の巡航だった。定遠、鎮遠共に7200トン余の巨艦で、当時このような巨艦は東洋にはなかった。航海中は英国やドイツ士官の訓練が厳しく、水兵たちも規律正しく行動せざるを得ない。しかし、上陸すれば気分は解放される。8月13日、定遠の水兵5名が上陸して酒を呑み、かなり酩酊した様子で、丸山遊郭の花街で娼婦を買おうとしたが、楼主に断られたため立腹した水兵が持っていた刀で、戸障子をメチャメチャに破損したのが騒動の発端である。
急報によってかつけた巡査が取り鎮めようとしたが言葉が通じない。やむなく乱暴した二人を派出所に拘引しょうとしたが、逃走した。間もなく水兵が十五人ばかり、士官らしい者が指揮して何かやろうとする気配が見える。
そのなかに先刻の二人がいたので、巡査が拘引しようとしたが抵抗し、刀で斬りつけてきた。巡査は重傷に屈せず応援の巡査二名と協力して取り押え、長崎警察署に引き渡した。
八月十五日、清国水兵三百名あまり、日本刀やこん棒をもって続々上陸してきた。中には士官も多数混ざっていた。四、五名から七、八名ずつ各所をはい回し、夜に入っても帰船しない。梅ケ崎警察署も長崎警察署も非常警戒体制をとり、3人1組となって市内を巡察していた。
夜に入って間もなく各所で巡査が水兵に包囲されて、殴打されたり、斬りつけられる暴動となった。はじめは傍観していた市民も、その乱暴にたまりかね、刀剣や棍棒をもって各所で巡査たちを助けようと清国水兵と格闘した。11時頃になって水兵たちほ引き上げ、自然に鎮静化した。
以上は「伊藤博文編「秘書類纂、兵制関係資料」中の長崎港清艦水兵喧闘事件中にある公文書の概要である。清国の士官二名、水兵四名死亡、重傷六名、軽傷九名、日本側は巡査の死亡四名、重傷一名、軽傷十八名、居留民の支那人も死亡五、六名、長崎市民も重軽傷者多数を出した。このため丁汝昌は日本巡航を取り止め、早々に本国に帰航してしまった。
この報が新聞で伝えられると世論は清国水兵の暴行に憤慨して、清国に厳重に談判すべしとの声が上かった。外務大臣井上馨と清国全権公使徐承祖と談判したが、清国側は己が非を認めようとはしない。結局、ドイツ公使が仲にたって斡旋の労をとり、翌20年2月8日、ようやく協定が成立した。それは事件の犯罪者はそれぞれの自国の法律によって処分し、犠牲者には自国の政府が見舞金や弔慰金を払うというものであった。
事件はもともと清国水兵の暴行から起こったもので、取り鎮めようとした巡査や、水兵によって巡査が殺傷されている。それに対して清国は謝罪しようとしないのみならず、日本側の対応を非難している。
明らかに大清国の威力を誇示した言動で日本側は清国水兵の非を追及したが、結局、押し切られた形で決着した。東洋一の老大国に対して弱小の後進国・日本は互角に談判できなかった。この報道は日本国民を激昂させた。これが七年後の日清戦争で激烈な敵慌心となって現れた。
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