前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『オンライン講座・帝王学の研究』★『英国・エリザべス女王の国葬に慣例をやぶり天皇、皇后両陛下が参列された』★『国葬の中継を見ながら、ちょうど100年前の昭和天皇の皇太子時代の『ヨーロッパ青春旅行』を思い出した。』

   

 

  2018/12/20の記事再録 

知的巨人の百歳学(135)ー昭和天皇(88歳)-『皇太子時代のヨーロッパ青春の旅で、広く世界に目を開き、人格・思想形成の原点となり帝王学の基礎となった。』

イギリスのエリザべス女王の国葬が9月19日、ロンドンのウェストミンスター寺院で営まれ、天皇、皇后両陛下が参列された。外国王族の葬儀には、皇族が参列するのが通例だが、今回は女王が昭和天皇、上皇さま、今の陛下の3代の天皇と70年にわたって親交を深めたことなどを考慮し、日本政府が両陛下に参列を要請した。国葬の中継を見ながら、ちょうど100年前の昭和天皇の皇太子時代のヨーロッパ青春旅行』を思い出した。

昭和天皇は皇太子時代の大正十年(一九二一)三月から、約半年間にわたってヨーロッパ旅行に旅立った。日本の天皇が外国旅行したのはこの時が初めてである。

お召艦「香取」に乗船された皇太子は横浜港を出航、まずイギリスに到着、フランス・ベルギー・オランダ・イタリアの計五カ国を訪問した。ヨーロッパは第一次大戦後で、戦争の混乱から立ち直っていなかったが、各国の王室や国民から温かい歓迎を受けた。それまで、まったく〝カゴの鳥″であった皇太子は、この旅行で広く世界へ目を開かれ、立憲君主制の精神を身をもって体験した。

の外遊を、強い反対を押し切って実行したのは、原敬首相であった。将来、天皇になる皇太子に対して「国際的な視野と見識を身につけてほしい」と期待からであった。もし万一のことがあれば責任を取る覚悟で 原首相は出発前に自ら〝遺書″をしたためるほどの決意でのぞんだ。

お召艦「香取」、供奉艦「鹿島」に随行団はそれぞれ分乗して、大正十年三月三日に横浜港を出港、約二カ月余の航海を終え、英国ポーツマス港に着いたのは五月九日。英国皇太子プリンス・ォブ・ウェールズも桟橋で待ち受けていた。

お召列車に同乗された両皇太子は歓迎一色のロンドン・ビクトリア駅へ到着。ここには、わざわざ英国皇帝ジョージ五世が出迎えるという最上級の歓迎ぶりであった。

同夜、バッキンガム宮殿で百二十八人の王族・名士を招待して晩餐会が催され、東洋の“日の出ずる国のプリンス″を一目見ようと集まった。

皇太子のスピーチは大音声で会場にギンギン響くほどであった。マイクなどない時代、「二十歳であれほどの声が出るとは、よほどすぐれた人物に違いない」とロンドン警視総監が感心するなど、出席者は度肝を抜かれた、いわれる。

この時、ジョージ5世は親身になって世話をし、「その接し方はまるで実の父親のようであった」という。皇太子に「君臨すれども統治せず」という立憲君主制のあり方を懇切丁寧に教えた。その後の昭和天皇はこの教えを生涯守ってきた。

英国訪問で皇太子に一番印象深かったのは、アソール公爵の賓客となってスコットランドの広大な領地を訪れたこと。アソール公爵は英王室に匹敵するスコットランドの大豪族。皇太子はここで三日間静養され、フィッシング・ドライブ・ゴルフ・散歩などを楽しまれた。

公爵はスコットランド名物のスカート姿で出迎え、バグパイプなどで演奏して大歓迎した。

最後の日、盛大な送別晩餐会が催されたが、ダンスが始まると近所の農民たちが普段着のまま集まり、百人をこえる踊りの輪が広がった。そこは身分の分けへだてもなくオープンな雰囲気で、公爵夫人も農夫とステップをかわした。皇太子は公爵の質素な生活ぶり、領民との平等で自由な人間関係に驚きと感銘を受けた。「アソール公爵のやり方をまねたら、日本にも過激思想などおこらないと思う」と皇太子は新聞記者に語り、生涯得がたい体験となった。

英国をあとにした一行は、フランスを五月三十日に訪れ、七月七日まで滞在。途中、ベルギー・オランダを計十日間ほど訪問されたものの、一番長く滞在した。昭和天皇は戦後の会見で、「暮らしてみたいのはやっぱりパリだね」 というほど、自由な生活を楽しまれた。

フランス訪問の目的は「エッフェル塔」「カタツムリ料理」「戦場見学」の三つであった。皇太子の強い希望で「カタツムリ料理」を召し上がられたが、有名な料理店「エスカルゴ・ドール」に頼み込んで日本大使館まで出前してもらって、皇太子が一つ一つ味わいながら五、六個食べたところでストップをかけられた。「それ以上は毒になっては……」という理由であった。

皇太子がパリで一番気に入ったものは「それは地下鉄(メトロ)さ。ルーヴルから、エリゼまで乗った。実におもしろかった」
また、第一次大戦の激戦地ベルダンをペタン元帥の案内で視察した。数千人の戦死者の十字架が見わたす限り並んでおり、「戦争とはかくもむごいものか」と語り、戦争の悲惨さ、むごたらしさを深く胸に刻み込まれた。
 
激戦地ベルダンの墓場↓↓

「香取」が横浜港に帰港したのは九月三日。原首相は涙を流して無事の帰国を喜んだ。その原首相が外遊に反対する右翼にそそのかされた少年によって東京駅で刺殺されたのは、この約二力月後である。

さて、二十歳を迎えたばかりの若き皇太子にとって、このヨーロッパ訪問はどんな意味を持ったのだろうか。昭和天皇の人格・思想形成の原点になるほど大きな役割を果たした。皇太子はこの外遊で、広く世界に向かって目を開き、本場の立憲君主制や王室のあり方を深く考えるきっかけとなったのである。

 - 人物研究, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本リーダーパワー史(876)『日中韓、北朝鮮の三角関係はなぜ、かくも長く対立、反目するのか、その根源を学ぶ③』★『本邦の朝鮮に対して施すべき政策を論ず③』(尾崎行雄の対中国/朝鮮論策、明治12年12月)★『朝鮮の独立を認め、日本を敵視せず、トルコ、ベトナム、清仏戦争の失敗に学ばねば、清国は滅亡する(尾崎の予言)』

★『本邦の朝鮮に対して施すべき政策を論ず③』 (尾崎行雄の対中国/朝鮮論策、明治 …

no image
速報(450)《日本女性のロール・モデルになるか―キャロライン・ケネディ氏》 『ソ連末期に似てきた? 習近平政権に迫る「限界」』

 速報(450)『日本のメルトダウン』   ●《日本女性のロール・モデ …

no image
日本一の「徳川時代日本史」授業④福沢諭吉の語る「中津藩で体験した封建日本の差別構造」(旧藩情)を読む④

 日本一の「徳川時代の日本史」授業④   「門閥制度は親の仇 …

no image
『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』㉖「開戦2ゕ月前の「英タイムズ」の報道』ー『極東情勢が改善されていないことは憂慮に耐えない』●『ロシアは中国に対し.いまだにあらゆる手段を用いて,ロシアの満州占領に関し協定を結ぶように仕向けようとしている。』★『日本が満州でロシアに自由裁量権を認めれば,ロシアは朝鮮で日本に自由裁量権を認めるだろうとの印象を抱いている。』

  『日本戦争外交史の研究』/『世界史の中の日露戦争』㉖ 1903(明治36)年 …

no image
日本リーダーパワー史(810)『明治裏面史』 ★『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、リスク管理 、インテリジェンス㉕ 『日英同盟の核心は軍事協定で、そのポイントは諜報の交換』★『日露開戦半年前に英陸軍の提言ー「シベリヤ鉄道の未完に乗じてロシアの極東進出を阻止するために日本は一刻も早く先制攻撃を決意すべき。それが日本防衛の唯一の方法である。』

 日本リーダーパワー史(810)『明治裏面史』 ★『「日清、日露戦争に勝利』した …

no image
日本メルトダウン脱出法(735)『日本の「受け身外交」では世界と渡り合えない–東アジアの新秩序を築くにはどうすべきか』●「世界一、寄付しない日本人が損していること カリスマ投資家がやさしく教える経済の本質」

 日本メルトダウン脱出法(735) 日本の「受け身外交」では世界と渡り合えない& …

no image
速報(369)『日本のメルトダウン』総選挙の公示>『山本太郎、石原伸晃氏の東京8区から出馬」『竹中平蔵(上)「リーダーに必要な3資質」

速報(369)『日本のメルトダウン』         <12月4日総選 …

no image
速報(420)日本のメルトダウン●『「あれだけやっても傍流だった」元ドコモ夏野氏』●『安倍首相、近隣諸国の神経を逆なで』

 速報(420)日本のメルトダウン   ●『「あれだけやって …

『新型コロナパンデミック講座』★『歴史の教訓に学ばぬ日本病』★『水野広徳海軍大佐が30年前に警告した東京大空襲と東京五輪開催の「スーパースプレッダー」(感染爆発)発生の歴史的類似性』

            明治を代表する軍事評論家となった水野広徳海軍大 …

no image
日本リーダーパワー史(511) 福沢諭吉の「日清戦争勝利後の三国干渉について」の社説を読み説く>⑤

    日本リーダーパワー史(511)& …