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『オンライン/日本宰相論』★『歴代宰相で最も人気のある初代総理大臣・伊藤博文の人間性とエピソードについて』

   

 

   日本リーダーパワー史(270) 再録

 前坂俊之(ジャ-ナリスト)

  
伊藤博文(1841-1909)の初めの名は俊輔。天保十二年九月二日、周防国熊毛郡東荷に生まる。長州藩の最下級の武士の子として生れた。吉川松陰の松下村塾で学び、やがて尊王頒夷運動に従い、ロンドンに留学した。帰国後、藩内革新派として頭角を現わした。明治維新後、開明派官僚として諸改革を担当、岩倉使節団の副使としてアメリカ、ヨーロッパを視察した。帰国後、征韓論による政府分裂後に参議工部卿に就任、大久保利通の片腕として活躍。
 
大久保死後は政府の中心として、明治憲法制定のための憲法調査から立憲制に対応する諸制度の改革を推進した。明治十八年、最初の内閲総理大臣となり、明治二十一年から明治憲法の起草にあたった。明治二十三年、初代の貴族院議長、さらに第二次伊藤内閲を組織して条約改正や日清戦争を遂行した。さらに第三次、第四次の内閣を結成、その間、立憲政友会を創立し、その総裁となった。
日露戦争には元老として戦争指導にあたり、日露戦後には報国統監として韓国の植民地化を推進、明治42年、ハルビンで韓国独立運動の青年に暗殺された。享年六十九。この最期は劇的であった。

 

◇栗原良蔵の従卒となって起居をともにし、厳しい薫陶をうけたが、伊藤が生涯の師と敬った吉田松陰に紹介してくれた人でもあった。その栗原良蔵は、その政治意見が藩内で受け入れられずに割腹自害し、また吉田松陰も安政の大獄で刑死した。

伊藤の少年時代から青年時代にかけて大きな影響を受けた二人の人物が相次いで非業の死を遂げ、とくに、吉田松陰の無惨な姿に変り果てた死骸を江戸回向院で引き取るという体験は、伊藤の生死観に大きな影響を与えた。(中原邦平『伊藤公実録』)

 

◇伊藤と女性との関係は有名であるが、伊藤の寵愛を受けた大阪の芸妓で、のち新橋田中家の女将となった樋田千穂の証言がある。-伊藤公は東京、私は大阪と、山河を隔てて暮しておりました間に、公から頂きました手紙は何通ぐらいあったでしょうか。公はよく『おぬしに一番良く手紙を書くよ』とおっしゃっていましたが、お年に似合わぬ艶っぽい便りを頂いたことも稀ではありませんでした」 と。また、「世間では伊藤公を大変に女のお行儀の悪い人のように言われていますが、私の知る限りでは、それほどふしだらではありませんでした」 という弁明もある。(田中家千穂『新橋生活四十年』)

 

 大磯の滄浪閣(そうろうかく)といえば、当時の大官政客がお百度を踏むゼルサレムとして有名であったが、実際は大磯の伊藤邸の別棟二階建で、階下はほとんど唐本ばかりの書庫になっていた。極めて質素な建物で、食堂なども白木のテーブルが並べてあるに過ぎなかった。

この食堂で一杯きこしめすと大気焔になって、英語交りの痛快なお説法がはじまる。議員なんかは眼中になかった。(笹川臨風音「明治すきがへし」)

 

 大磯へ行く汽車の中で、同車の某夫人が自分の主人の政治上の功績を述べ立て、時機が来たら入閣させて戴きたいということまで臆面もなくいい出した。伊藤は「自分は女が政治上のことに口出しするのは嫌いです」といって一蹴してしまった。(牧野伸顕著「回顧録」)

伊藤は酒が好きで天下の銘酒を集めた。かつ飲み、かつ談じ、左手疎髭をひねり、右手杯を挙げ、古今の英雄を評し、天下の形勢を諭ずる時、雄心落々、意気堂々たるものがあった。しかるにその没後、嗣子博邦は遺愛の美酒数樽を売って金に換えた。この事は父

の没後、その遺愛の蘭花を売って温室こわそうとした岩崎小弥太(岩崎弥太郎の息子)に似ている。権貴の子、富豪の子、没趣味、無風流なることこの如きものがある。(「日本及日本人』所載「雲間寸観」)

 

 伊藤が滄浪閣におり、陸奥も同じく大磯にいた関係上、竹越三叉はこの両先輩を訪問するため、しばしば大磯に来て群鶴舘という旅館に宿泊した。ある晩七時頃、室外より「竹越は居るか」と声をかける者があるので、障子を明けて見たら、伊藤が左の肩に手拭を掛けて立っている。室内に請じて座蒲団を出し茶を出すと、「お茶はつまらぬから酒を出せ」ということで、数杯を傾け、市井の雑事より東洋の大局におよび、二三時間も話した上、群鶴舘の女将の案内で浴場に入り、一浴して帰って行った。その挙動の気軽なことは、正に清人の詩に「功名高くして後転(うた)た身を軽んず」とある通りであった。(竹越三叉著『読画楼随筆』)    

 

* 伊藤さんは、自分のお宅でも、女中を叱るなどということは、ほとんどなさいませんでした。大磯にいらしった時などは、家の庭をぐるぐる歩いて廻わって、庭先で玄関の人達が、碁や将棋をしているのを見ると、側にしゃがんで助言をするというような、親しみのある方で、大臣風を吹かすとか、殿様ぶるとか、そんなことは少しもありませんでした。

私(新喜楽きん)どもが行っても、「御飯は済んだか」といって、持って来させて一緒に食べるという有様で、威張ることなどには、もう飽きてしまったという風でした。

 伊藤さんは、金のことはちっとも構わなかった方で、私どもへの払いなども、皆奥さんの手から出ていたのでございます。お金はそっくり奥さんに渡して、「おれは金のことは知らない。家のことはどうなっているか、ただ奥さんを信じて、その方の心配などしたことがない」といっていられました。

伊藤さんの立派な生涯は、この奥さんの力によるところが、非常に大きかったのでございましょう。(新喜楽きん談-『実業之世界』明治四十二年十一月十五日号所載)

 

 明治天皇の思召しで、先帝(大正天皇)に、人君たるの道を学はしめるようにとのことで、有栖川宮(威仁親王)と、伊藤博文公爵とが、補導係という役に仰せつけられました。明治28,9年のことだったと思いますが、時の逓信大臣芳川顕正が先帝に拝謁した時に、全国に「郵便局の数は幾つあるか」というような、細かい質間があったのに、答弁に苦しんで、「委細調査の上で申し上げます」とお答えして退きました。

すると伊藤公がこれを聞いて、すぐに先帝に拝謁して、「殿下には、芳川にこういう質間があったと承りますが、果してお必要でございますか」と、お尋ね申し上げたら、「いや、必要というのではないが、その時思いついたので尋ねた」との仰せでありました。
 

そうしたら伊藤公は、「芳川は天皇の信任する大臣でありますから、もし必要とあれば、いかなることの調査をお命じになっても宜しいが、さほどお必要でないことならば、あまり細かな質問は、なさらないことを希望いたします。
陛下は、他日国家を治められる方ですから、老臣を召使われますのには、今からお心をお用いにならなくてはいけません」と申し上げたところ、先帝はお喜びで、「伊藤のいうようにしょう」と仰せられました。

伊藤公の御教育の仕方がそういう風で、陛下の他日の御風格をお作り申し上げるのに、よほど力があったことと思います。(竹越三叉著『倦鳥求林集』)

 
 
私(雨宮敬次郎)が伊藤さんに会いに行けば、伊藤さんはどんなに忙しい時でも会って、愉快に話された。もっとも私はその時には、自分一箇の敬次郎ではなくて、国家の敬次郎となって行く。一己の利害の相談に行くのでは、頭から叱りつけられるのは当然であるが、「こういう事業を起こせば、国家としてこれだけの利益があると思うがいかがでしょう」と相談する。
伊藤さんは何を尋ねても、立ちどころに意見の立つ人で、分らないことは、すぐに書物を出して来て、調べて教えられる。だから伊藤さんのところへ行って、解決の附かぬ問題などは、ほとんどなかった。しかしまた社会の実情とか、下流社会の状憩というような問題では、私の話を伊藤さんは喜んで聴かれた。多くの人は、伊藤さんくらいわ             

がままな人はないといったけれども、私の見たところでは、伊藤さんほど国家思いの人はなかったと思う。(雨宮敬次郎著【奮闘吐血録】
 
 

「伊藤公は葉巻好きだった。余(関直彦))は東京日日新聞の社長として、いつも御厄介になったし、その著「憲法釈義」1冊を、自著して贈られたので、そのお礼にと、横浜へ出向いて、洋館の煙草屋で、一本一円ほどの上等の葉巻を二箱(五十本)買って来て贈呈し

た。
それから十日ばかりして伺候したら、公は御機嫌で、「貴公もシガーが好きらしいから、よいシガーうぃ1本分けて遣ろう」といって、一本を割愛せられた。ところがそれを見ると、先日余から贈呈したものだった。公はそれを忘れて、自慢して余に分たれたので

ある。公の頭には、常に国家があるばかりだった。誰から何を贈られたか、さような小事は気に止められもしなかった。しかし余としては、進呈した品が、公の意に叶ったことが分って、大いに満足したことだった。(閑直彦書 「七十七年の回顧』)

 

日露開戦前、弾劾奉答分を衆議院議長の河野広中が読み上げ、満場一致で通過したので、誘会は即日解散になった。この筋書を書いた秋山定輔が、直ちに霊南坂上の枢密院議長官舎に伊藤博文を訪い、事の次第を報告すると、伊藤は「大隈がやったのか」と聞いた。

伊藤の頭には常に大隈の事が潜在していたらしい。「いえ」と答えると、今度は「犬養か」といった。秋山はしからざる旨を答え、全く神業でございます、といって笑った。

対談を終って秋山が廊下へ出ると、伊藤も続いて出て来たが、その時急に大きな声で天気の事をいい出した。それがちょっと面白かったと秋山はいっている。(村松梢風編『秋山定輔は語る』)

  

 

◇日露戦争中の明治三十八年三月、伊藤は奉天の戦いで勝利した報告を受けても、-それが何を以て吾等がために歓ぶべしとするのか。そもそも大陸戦を以て日露対戦の終止符を打とうと考える者があるとするなら、それはわが国を奈落の底に導くものだ」と厳しく戒めた。

そして五月二十九日、日本海海戦の勝報を聞いて初めて、伊藤は山本権兵衛に向って「山本、海軍はじつに偉いことをやったナァ」と言い、桂首相にも、「これで日本もロシアに対して初めて不敗の地に着いた。先ず安心じゃ」と言って、シャンペンを抜いて祝杯をあげ

た。(中島久万吉『政界財界五十年』)

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