前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

世界が尊敬した日本人①米国女性が愛したファースト・サムライ・立石斧次郎

      2015/01/15

 

2004、11,1

前坂俊之
1860年(万延元年)6月16日。ニューヨークは日本からのサムライ使節団を一目見
ようと市初まって以来という約50 万人の市民たちがマンハッタンを埋め尽した。
日本人を乗せた馬車がくると、女性たちが一斉に「トミーはどこなの?」「トミーはどの
人?」と大声で叫び興奮はピークに。馬車の条約箱の後ろに陣取ったトミーが現れる
と、「トミー!こっちを向いて!」「トミー、バンザイ!」と大歓声。トミーは笑顔で手を振
って応えた。『彼があの中で一番ハンサムね」とため息や悲鳴が上がり、ジャパンフィ
ーバー、トミー・コールが続いた。(『ニューヨーク・ヘラルド』1860 年6 月17 日付)
ペリーが黒船で来航し、日米和親条約(安政元年=一八五四年)が結ばれてから今
年でちょうど百五十年。万延元年(一八六〇年)二月、幕府遣米使節団=新見豊前守
(正興)正使ら計77 人=は日米通商条約を米ホワイトハウスで批准するため咸臨丸
とともに米軍艦の蒸気船『ボーハタン号』で太平洋を渡った。アメリカ議会は一行を国
賓待遇で迎えたが、その中で一人、人気が集中しアイドルと化したのが、トミーこと最
年少の十六歳の通詞見習い立石斧次郎である。

イケメンの〝ファースト・サムライ〟トミー(立石斧次郎)は、全米に一大旋風を巻き起
こした。女性からラブレターが殺到し、彼をたたえる「トミーポルカ」という歌までできた。
ヤンキースの松井選手やイチローの人気どころか、アメリカで最高にモテた仰天の日
本人だった。
一行は太平洋を二ヵ月間かかってサンフランシスコに到着、ワシントンへ行き、ブキャ
ナン大統領に謁見、ホワイトハウスで正式に条約批准書に調印。ボルチモア、フィラ
デルフィア、ニューヨークと回った。使節団はいく先々で、圧倒的な歓迎を受け、各都
市では盛大な歓迎祝典の行事が繰り広げられた。
米政府は鎖国を解いたアジアの大国・日本が米国と最初に通商条約を結び、使節団
を派遣したことを歓迎し、メディアもはじめてくる日本人に興味津々で、特派員を派遣

して大々的な報道合戦を繰り広げた。ホワイトハウスの訪問や調印式、ニューヨーク
のパレードなどは大特集で数ページにわたって驚くほど詳細に伝えている。中でも使
節団の一行よりも、トミーにスポットライトを当てて報道した。
『ニューヨーク・ヘラルド』紙(1960年六月十七日付)は「トミーは、若き日本の美しい
代表である。一行の主だった人々は、冷たい威厳のある態度であるが、トミーはそれ
と対照的で、ざっくばらんで明るい。」
『ハーバース・ウイークリー・ニュース』(六月二十三日付)はトミ-の写真を掲げて、ワ
シントン滞在中の動静を伝えているが、『婦人たちの間で大変なお気に入りとなった。
気立てのやさしく、人柄もかなり良く、その上新しい状景や珍しい同席者に自分を適
応させる道を心得た若者である』
「トミ-は記者に対して、この国で適当な妻を見つけて、その人と永久に和やかに暮し
たいので、日本に帰りたいなどとは決して思わない、と打明けた。』(トリビューン)など
その一挙手一投足にスポットライトをあて、センセーショナルに報道した。

トミーは米国人とすぐにうち溶け、英語を積極的に覚え、他のメンバーがしりごみする
中、ただ一人、客車から蒸気機関車にのり、汽笛を鳴らしたり、消防士に交じってホー
スで放水したり、コミュニケーションを深めていった。フィラデルフィアでは「ピアノの伴
奏で日本の歌とアメリカの歌を歌って婦女子の喝采を浴びた」 (フィラデルフィア・イ
ンクワイヤラー)と報じられているが、この時の日本の歌は『お江戸日本橋』であった。
米国の少女に恋をして自分の髪を切って与えたとも報じられた。米国人女性とキスを
した最初の日本人もトミーである。

トミーの人気を決定づけたのが、『ニューヨーク・イラストレイテッド・ニュース』(一八六
〇年六月二三日付)で、第一面にトミーのイラスト全身像の写真とともに記事がドデか
く掲載された。「トミー、日本人の陽気な男」と題した長文のトップ記事はこんな調子で
絶賛した。

『良き一団には必ず随行する陽気なお供がいるもので、日本使節もその例外ではな
い。一行にはトミ-がいて、何人も楽しませ、婦人たちや美しい少女たちに、一目でも
あいたいとおもわせる名物男で、しかも彼ほどの男は他にいない。彼ははしゃぎまわ
る、陽気な男で、その素敵ないい顔立ちはまんまるで、ふくよかだ。彼は不滅であり、
この国の歴史のなかで今後もずっと永遠にトミ-である』と書いている。

今、ヤンキースの松井選手やイチロー選手のように米メディアでも大きく取り上げられ
ているが、この150 年間でみてもトミーはほど米女性にもてた日本人はいない。
トミーは異文化コミュニケーションのスキル(技術)を自然と体得していたのである。
長い鎖国が続いたので、使節団が異文化を理解できなかった中、ただひとりトミーは
異文化コミュニケーションに成功し、人気者になった。
異文化コミュニケーケーションでの言葉の占める割合は意外と低い。最も大切なの
は、外国人と積極的に交流しようという気持ち、積極性、友好心、言葉以外の顔の表
情、笑顔、米国人のような陽気な性格(はしゃぎや魂)、アイコンタクト(目配り)、ジェス
チャー(身振り)といったさまざまなボディーラングウエッジ(肉体言語)であり、根本は相
手文化への尊敬、その文化を理解しようとする熱意、情熱である。
トミーの成功の秘訣は誰からも教わることなく、人権尊重、レディーファースト、個人主
義の理念などの西洋文化をいち早く理解したその異文化コミュニケーションスキルの
高さにあり、それを実践できたことだが、このような国際交流術を身につけたのは天
性の資質があったのであろう。

 
これだけ人気を博した日本人は、日米150年の交流史の中でも例がない。ただ、日
本の研究者の間で評価はそれほど高くはない。咸臨丸で同行した福沢諭吉や勝海舟、
小栗上野介らは研究し尽くされているが、トミーについては若くて人気者になった道化
役、トリックスターとして取り上げられることばあっても、異文化コミュニケーションにた
けた先駆的な人物という視点でこれまで評価されたことはなかった。

日本では立石は成功しなかった。帰国後は明治政府から目をつけられ長野桂次郎と
名を変え岩倉派米使節団に同行して、再び訪米し、その後、工部省の役人や、北海
道で開拓史になったが出世せず、役人をやめハワイに渡って移民監督官になったが
うまくいかず、2年で帰国。47歳で大阪控訴院の通訳官などをして73歳でなくなった。
海外留学生の多くが明治政府下で出世した中で、立石その卓越した異文化コミュニ
ケーションの能力を活かされることはなかった。
日本のその後の英語教育は英語の読み書きのみに最重点がおかれ、異文化コミュ
ニケーションへの視点が欠けていた。現代人がトミーから学ぶことば多いのではない
だろうか。

(前坂 俊之=静岡県立大学国際関係学部教授)

 - 人物研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本リーダーパワー史(288)<山本五十六海軍次官のリーダーシップー日独伊三国同盟とどう戦ったか? >

  日本リーダーパワー史(288)     <山本 …

『オンライン/日本の戦争講座④/<日本はなぜ無謀な戦争を選んだのか、500年間の世界戦争史から考える>④『明治維新直後、日本は清国、朝鮮との国交交渉に入るが両国に拒否される』★「中華思想」「華夷序列秩序」(中国)+「小中華」『事大主義』(朝鮮)対「天皇日本主義」の衝突、戦争へ』

    2015/07/22 &nbsp …

『オンライン講座・吉田茂の国難突破力➅』★『 日本占領から日本独立へ ,マッカーサーと戦った日本人・吉田茂と白洲次郎(1)★『黒子に徹して吉田内閣を支えた男・白洲次郎』

前坂俊之(ジャーナリスト)                            …

no image
『オンライン/新型コロナパンデミックの研究』ー『感染症を克服した明治のリーダーたち②』★『後藤新平と台湾統治と中国のねじれにねじれた100年関係』(5月15日)

後藤新平と台湾と中国                    前坂 俊之(ジャーナ …

『Z世代のための  百歳学入門』★『日本超高齢者社会の過去から現在の歴史』★『来年2025年は昭和終戦(1945)から80年。明治時代〈約45年間),大正時代(15年),昭和戦前(20年 )まで約80年間の平均寿命は約40-50歳だった』

<Q1>それでは、日本人の寿命の歴史的な変遷について話してくれますか。 明治以後 …

no image
日本天才奇人伝②日本最初の民主主義者・中江兆民―兆民先生は伊藤、大隈ら元老連をコテンパンに罵倒す

日本天才奇人伝②「国会開設、議会主義の理論を紹介した日本最初の民主主義者・中江兆 …

no image
百歳学入門(96)「史上最高の天才老人<エジソン(84)の秘密>❹ 未来へのビジョンを持つ、将来に信仰を持ちなさい、前進しない

 百歳学入門(96) 「史上最高の天才老人<エジソン(84)の秘密>❹ …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(199)ー『先日101歳で逝去され中曽根康弘元首相の戦略とリーダーシップ』★『「戦後総決算」を唱え、国内的には明治以来の歴代内閣でいづれも実現できなかった行財政改革「JR,NTT,JTの民営化」を敢然と実行』★『「ロン・ヤス」の親密な日米関係だけでなく、韓国を電撃訪問し、日韓関係を一挙に改革し、胡耀邦氏と肝胆合い照らす仲となり、日中関係も最高の良好な関係を築いた、口だけではない即実行型の戦後最高の首相だった』』

中曽根康弘元首相の戦略とリーダーシップ    前坂 俊之(ジャーナリスト) 中曽 …

『日本の運命を分けた<三国干渉>にどう対応したか、戦略的外交の研究講座⑬』『「申報」や外紙からみた日中韓150年戦争史」(73)『日本は朝鮮で,アイルランド問題に手を染めたようだ」『英タイムズ』

 2014/11/05 『「申報」や外紙からみた「日中韓150年戦争史 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(114)/記事再録☆『世界が尊敬した日本人(36)ー冷戦構造を打ち破り世界平和を模索した石橋湛山首相』★『世界の平和共存、日本の対米従属から自主独立を盛り込んだ「日中米ソ平和同盟」の大構想を掲げ対米関係は岸、池田首相に任せ、自らソ連に飛んで、日ソ平和条約を話し合った大宰相』

    2015/10/11 &nbsp …