戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の実像に迫る
1
卒業研究 『戦場カメラマン・一ノ瀬泰造の実像に迫る』 2003.12
静岡県立大学国際関係学部4年 水野邦弘
指導教員 前坂 俊之
序章 ・2003 年9 月7 日 佐賀県武雄市にて
・一ノ瀬との出会い
・なぜ卒業研究のテーマに選んだのか
第二章 一ノ瀬泰造の人生
第一節 一ノ瀬泰造の26 年間
第二節 死後の周囲の人々の活動
第三節 同世代の人が語る一ノ瀬泰造
・赤津孝夫 ・横木安良夫 ・石川文洋 ・馬淵直城 ・小川卓の証言
第三章 一ノ瀬泰造の写真
第一節 なぜアンコールワットへ向かったのか
第二節 今の若者が学ぶべきこと
第三節 伝えたかったものとは
第四章 人気の理由
第一節 愛すべき人間像~手紙から見る一ノ瀬の内面~
第二節 今の若者が学ぶべきこと
第三節 両親の存在・・一ノ瀬に見る親と子の在り方
終章 ・信子さんの話を聞いて
・まとめ
代表作写真紹介
参考・引用資料一覧
以下はその概略です。
2
・序章
2003年9月7 日に佐賀県武雄市の一ノ瀬jの実家を訪問した。一ノ瀬を知ったのは、「地
雷を踏んだらサヨウナラ」を見た事に始まる。
一ノ瀬の憧れていたアンコールワットに、自分自身興味があったこともあり、去年休学を
して旅をした。しかし、これが卒業研究のテーマに選んだ理由ではない。選ぶきっかけと
なったのは、イラク戦争と、死後30 年の節目としての一ノ瀬泰造ブームのためである。
第二章 一ノ瀬泰造の人生
第1節…一ノ瀬の26 年間
1947 年佐賀県武雄市にて生まれる。1963 年佐賀県立武雄高校入学、1966 年日本大学芸
術学部写真学科入学、1970 年3月同校卒業。1972 年、バングラディッシュからフリーの戦
場カメラマンとしてスタートする。
1972年カンボジア内戦、1972~1973年ベトナム戦争を取材。UPI発として写真がアメリカや
日本の新聞・掲載されたり、日本の雑誌にはストーリー付で、掲載されたりしている。
1973 年8 月三度のカンボジア入国後、11 月に「地雷を踏んだらサヨウナラ」と友達への手
紙に書き残し、アンコールワットに単独潜入したまま消息を絶つ。9 年後の1982 年に両親
により、死亡が確認される。享年26 歳。
第2節 … 死後の周囲の人々の活動
一ノ瀬の行方不明の報道がされてから、両親、カメラマン仲間、地元の人達により色々な
救出作戦が展開された。武雄市長や代議士を通して北ベトナムやシアヌーク殿下に助命嘆
願の電報を送ったり、カメラマン仲間により現地からの情報収集が行われた。
しかし、一向に消息は掴めなかった。行方不明から4 年後に一ノ瀬の撮影済みフィルムが
両親の所に戻ってきたことにより、書簡集「地雷を踏んだらサヨウナラ」の発売や、写真展
が開催された。写真展は異例の大盛況で、期日が延長されるほどであった。
5 年後には再び写真展開催、写真集発売がされ、その間にも一ノ瀬の消息を探る試みは続
けられた。1980 年頃から死亡説が流れ始め、1982 年ようやく入国した両親により死亡が確
認された。
死亡確認後も人気が衰えることはなく、両親の手により本や写真集が出版されたり、映画
3
も作られている。死後30 年の節目に、新たな写真集が出版されたり、ドキュメンタリー映画
「TAIZO」が上映されたりと、泰造プロジェクトが進行している。
第3節…同世代の人が語る一ノ瀬泰造
一ノ瀬の友人やカメラマン仲間の証言により、一ノ瀬の人物像を探る。赤津孝夫は大学
時代からの親友で、一ノ瀬の成長を読み取る事ができる。横木は大学の後輩でありカメラ
マンとして、冷静な眼で一ノ瀬を分析している。同じ戦場カメラマンであり先輩になる石川文
洋は、一ノ瀬独特の撮影方法について語っている。馬淵、小川は戦場での一ノ瀬について
語っている。またこの出会いにより、一ノ瀬の写真展や本出版に尽力する事となる。
第三章 一ノ瀬泰造の写真
第一節 『なぜアンコールワットに向かったのか』
戦場へ向かったのは、元職業軍人で写真を趣味にしていた父親の影響があり、同じ日本
人戦争カメラマンの岡村昭彦、沢田教一、秋元啓一、石川のベトナム戦争の写真を見たか
らだと語っている。
ではなぜアンコールワットだったのか。その答えは時代だと言える。10 年にも亘ったベト
ナム戦争も、アメリカ軍の従軍カメラマンだった沢田と、アメリカ軍の撤退した後のベトナム
戦争を撮影している一ノ瀬の写真では、全く異質なものに見える。
アメリカ軍の撤退した1973 年以降のベトナム戦争には以前ほどのニュースバリューがな
かった。若く、名誉欲の旺盛だった一ノ瀬にとっては、インドシナ戦争で唯一の名誉と金が
保証された被写体のアンコールワットを目指したのは、何ら不思議なことではない。
しかし、最初の動機は名誉と金であったが、カンボジアに滞在するうちに、自然や人々を
気に入り、何よりも一ノ瀬がアンコールワットに魅せられてしまったことが、長期の滞在へと
繋がっていった。
第2節 …写真の実力
一ノ瀬の知名度は「地雷を踏んだらサヨウナラ」の映画による影響が大きく、カメラマンと
しての実力について触れられることはほとんどない。では、どうだったのだろうか。結論か
ら書けば、無名なだけあり、それ程上手ではない。一ノ瀬の唯一の勲章は1972 年8 月の
UPI 月間賞のみである。
4
一ノ瀬は高校までは趣味、勉強したのは大学のみである。カメラマンとしての仕事の実績
はなく、戦場へもどこかの新聞社などの特派員としてではなく、自費で行ったのである。そ
のため、未熟な腕は自他共に認めるほどであったが、戦場生活の中で着実に進歩して行
った。
出国してから1 年半で経った時に、UPI 月間賞を取っているのがその証拠である。一ノ瀬は
知名度に比べ、実働期間2 年弱、26 歳という若さで亡くなっているが、これを考慮するとも
し死ぬ事がなければ、更に成長していき、第2 の沢田や岡村のようになったのではないか
と期待させるものがある。
第3節 …伝えたかったものとは
ベトナム戦争時の日本人戦争カメラマンと言っても、かなりの人数がいる。そしてその人
数と同じ数だけ、伝えたかったものは違うと思う。例えば、日本人最高のカメラマン沢田は、
常に「決定的瞬間」を狙っていた。そのため、沢田の写真には圧倒的に戦闘シーンが多く、
誰にでも撮れる町の写真などは撮ってはいない。
一ノ瀬は写真を撮りながらも、自分と葛藤する事が多かった。ニュースバリューはほとん
どなく金にならないのはわかりつつも、戦時下における人々の幸せの一場面を撮る事を望
んでいた。
戦争写真を撮りに行きつつ、たまの休みにはアオザイ女性の撮影をしたり、子供を撮るこ
とも多かった。一ノ瀬は戦場へ行ってはいたが、人々の些細な幸せこそが一ノ瀬の被写体
だったのだろう。
第三章・・ 人気の理由
第1節… 愛すべき人間像~手紙から見る一ノ瀬の内面~
書簡集「地雷を踏んだらサヨウナラ」は、一ノ瀬の戦地から親や友人へ送った手紙や日記、
写真で、彼の戦場での働きの日々を綴っている。一冊の本になるほど、多くの書簡を残し
ているのである。
一ノ瀬はその手紙の中で色々なことを書き残している。近況、悩み、弱気、愚痴、ボヤキ等
の他に、性生活をあっけらかんと書いていたり、親愛の情を感じる可愛らしい表現や、愉快
な表現が多くある。
5
また、次の予定を書いてくることもあり、3 度目のカンボジア入国の際や、行方不明となった
アンコールワット潜入の際に覚悟を書くこともある。それで「もし、うまく地雷を踏んだらサヨ
ウナラ!」(一ノ瀬泰造 「地雷を踏んだらサヨウナラ」 講談社 1985 年P246)と親友赤津
へ書き送ったのである。
第2節…今の若者が学ぶべきこと
一ノ瀬泰造の生き方から、同年代の人間として学ぶべきことがある。一ノ瀬という人は、実
践主義者であり、若さを最大限活用し、自分のやりたい事をやったことにあると思う。実践
主義という点では、去年海外に行ったことにより自分でもその通りだと思う。
1 度の実践は、何度もの勉強を超えると感じた。また若いうちにしかできない事も多いし、
若いからこそ失敗しても次があるのである。理想な生き方だが、若者の多くが挑戦を恐れ
たり、保守的な生き方をする。
しかし、それは若者としての特権を放棄したのと同じである。何も戦場へ行かずとも、自分
の心の声に従い、取り合えず挑戦してみることが大事だと感じた。
第3節 両親の存在~一ノ瀬親子に見る親と子の在り方~
現在、過保護な親が増え、自分ではなにもできない子供もいるとか。一ノ瀬と両親との手紙
のやりとりの中に、理想の親子の関係を見つけた。戦場へ行くというのに賛成するという親
はあまりいないだろう。
信子さんも事前に相談されていたら、反対していただろうと言っていた。しかし事後報告の
みで、一ノ瀬は旅立つ。信子さんは言い出したら聞かない性格もあったが、最大限の応援
をしている。反対する事は決してなく、忠告こそするが本人の考えを尊重した。
それは昔から何でも話し合う信頼関係の上に成り立っていた。両親の存在が、子にとって
最高の応援者になっていて、相談相手である。羨ましいと感じる程の関係が、一ノ瀬の頑
張る活力の一因になっていたのは間違いない。
(以上)
http://www.u-shizuoka-ken.ac.jp/~maesaka/
関連記事
-
-
『リーダーシップの日本近現代史』(83)記事再録/ ★『ブレブレ」『右往左往』「他力本願」の日本の無能なリーダーが日本沈没を 加速させているー 日本の決定的瞬間『西南戦争』で見せた大久保利通内務卿(実質、首相) の『不言実行力』「不動心」を学ぶ③
2016/11/02/日本リーダーパワー史(694)再録 『ブレブレ」『右往左往 …
-
-
★10最重要記事再録/日本リーダーパワー史(812)『明治裏面史』 ★ 『「日清、日露戦争に勝利」した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、インテリジェンス㉗『日本最大の国難・日露戦争で自ら地位を2階級(大臣→ 参謀次長)に降下して、 全軍指揮したスーパートップ リーダー児玉源太郎がいなければ、日露戦争勝利は なかった ーいまの政治家にその胆識はあるのか?』★『トランプ米大統領の出現で、世界は『混乱の時代』『戦国時代に逆戻りか」 に入ったが、日本の国民にその見識 と胆力があるのかー問われている」
…
-
-
日本リーダーパワー史 (22) 『世界の知の極限値』ーエコロジーの世界の先駆者だよ、南方熊楠先生は・・(上)
日本リーダーパワー史 (22) 『世界の知の極限値』ーエコロジーの先駆者・南方熊 …
-
-
★『 地球の未来/世界の明日はどうなる』< 米国、日本、東アジアメルトダウン(1063)>★「第2次朝鮮核戦争!?」は勃発するのか③ 』★『トランプは「もし何かすれば、見たことないこと起きる」と警告、北朝鮮は「日本列島を焦土化、太平洋に沈没させる」 小野寺防衛相を名指しで非難のエスカレート!』
★『 地球の未来/世界の明日はどうなる』 < 米国、日本、東アジアメルトダ …
-
-
『2018年、米朝戦争はあるのか』⑧ー伊勢崎賢治氏の『米朝開戦の瀬戸際で、32ヵ国の陸軍トップを前に僕が話したことー日本メディアの喧騒から遠く離れて』★『憲法9条を先進的だと思ってる日本人が、根本的に誤解していることー世界が驚く奇想天外な状況』★『知らなければよかった「緩衝国家」日本の悲劇。主権がないなんて…日米地位協定の異常性を明かそう』★『世界的にもこんなの異常だ! 在日米軍だけがもつ「特権」の真実ー沖縄女性遺体遺棄事件から考える』
『2018年、米朝戦争はあるのか』⑧ 2017年9月末、北朝鮮開戦が心配されてい …
-
-
『オンライン/新型コロナパンデミックの研究』-『3ヵ月をきった米大統領選挙の行方』★『米民主主義の危機、トランプ氏は負けても辞めない可能性に米国民は備えよ」(ニューズウイーク日本版、7/21日)という「米国政治社会の大混乱状況』
『3ヵ月をきった米大統領選挙の行方』 前坂 俊之(ジャーナリスト) …
-
-
日本リーダーパワー史(945)ー『日中関係150年史』★『日中関係は友好・対立・戦争・平和・友好・対立の2度目のサイクルにある』★『日中平和友好条約締結40周年を迎えて、近くて遠い隣人と交友を振り返る」★『辛亥革命百年の連載(25回)を再録する』⓵
『辛亥革命百年の連載(25回)を再録する』⓵ &nb …
-
-
日本風狂人伝(25) 日本一のガンコ、カミナリオヤジ・内田百閒 のユーモア
日本風狂人伝(25) 日本一のガンコ、カミナリオヤジ・内田百閒 のユーモアじゃ …
-
-
日本敗戦史(43)「終戦」という名の『無条件降伏(全面敗戦)』の内幕<ガラパゴス日本『死に至る病』②
日本敗戦史(43) 「終戦」という名の『無条件降伏(全面敗戦)』の …
- PREV
- 正木ひろしの思想と行動('03.03)
- NEXT
- 「センテナリアン」の研究
