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日本リーダーパワー史(86)日本最大の英雄・西郷隆盛の最強のリーダーシップとは何か』(下)

      2015/10/30

日本リーダーパワー史(86)
日本最大の英雄・西郷隆盛の最強のリーダーシップとは』(下)
 <数々の名言とエピソード>
  前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
西洋の文明は覇道主義
●『文明とは道の普く行はるるを賛成せる言にして、官室の荘厳、衣服の美麗、外観の浮華を言ふには非ず』(『南洲翁遺訓』)
これは『南洲翁遺訓』の中の1節である。 この『南洲翁遺訓』は、西郷を敬愛してやまない庄内藩士・菅秀実、三矢藤太郎、石川静正らが、西郷の言動を記録した「聞きがき」。はじめは筆写されてたが、これが広まり、明治二十三年(一八九〇)に印刷刊行された。
この『遺訓』あとに、西郷は「今の世間は文明、文明と声高にいうが、なにが文明で、なにが野蛮なのか、少しもわかっていない。私は西洋のほうこそ野蛮だと思う」と述べている。
なぜなら、西洋が本当に文明というなら、アジアや未開の国にたいして、武力で持ってむごく残忍に命を奪い、自己の利益のためだけに植民地にするのではなく、慈愛をもってゆっくり説得しながら開明に導くべきではないか。
 佐久間象山、横井小楠らと同じく「東洋の道徳」や「仁政」「王道」を理想とする西郷にとって、西洋列強の帝国主義、植民地主義は「覇道」そのものとしか映らなかった。「文明とは道の普く行はるる」の「道」とは、万民の幸福を実現することだが、その「道」を行うもの政府や政治家は、「聖人」、「賢人」でなければならないのだ。
そう考える西郷の『遺訓』ではくりかえし、明治新政府や指導者のあかたをきびしく非難している。新しい政治が始まったばかりなのに、万民の上に立つものがりっぱな家に住み、美服をまとい、美しい女をはべらし、ひたすら私財を殖やすことに汲々としているようでは、とても維新の大理想は実現できない、と。

流罪2回、生死を超える
●『幾たびか辛酸(しんさん)を歴(へ)て志はじめて堅し、丈夫は玉砕、せんぜんを漸(は)ず 一家の遺事、人知るや否や  児孫のために美田を買わず』
これは西郷が沖永良部島での流罪を回想して詠んだ詩の1節だが、最後の<児孫のために美田を買わず>のくだりが有名になっているが、西郷の革命精神の原点は『幾たびか辛酸(しんさん)を歴(へ)て志はじめて堅し』にある。
西郷は二度にわたって流罪の苦しみをあじわった。最初は31歳の安政六年(1859)から文久二年(1862)までの四年間、奄美大島ですごした。これは流罪というよりは藩命による亡命で、大島の政治に介入して悪い役人を追放したり懲らしめていた。
二度目は34歳で文久二年(1862)四月から元治元年(1864)二月まで、徳之島、沖永良部島ですごした。薩摩藩主・島津久光の怒りに触れての流罪で、死んでしまえという厳しい処置であった。
沖永良部島の流罪地は海岸から五十mほどのところに粗末な小屋を建て、西郷は閉じこめた。沖永良部島へ流罪は藩のためにやったことが裏目に出て、島津久光の逆鱗に触れたものだ。絶海の孤島で閉じこめられたまま死ぬ運命に陥った。藩も自分の死を待っている。 島役人の土持政照は、西郷に生きる勇気を出してもらおうと誠意をつくしていたが、西郷はこれを拒否した。ここで死を覚悟した時、死中に活を求める。「いや、生きる、生きねばならぬ」と決然とした志が死を断ち切って、確固たるものになってきた。
 「幾たびか辛酸を歴て - 」の詩は、慶応二年(1866)のころ、西郷が実質的に薩摩藩を背負って立つ地位についたこの時期に詠まれたものと言われる。かつて西郷に「死」を覚悟させた島津久光でさえ、いまは西郷をたよらねばらなくなっており、時が死を悟ってよみがえった英雄を最南端からカムバックさせたのである。
隆盛は監獄での苦労をその人物を判定する場合の有力な材料にしていた。
●ある時、一人の書生が、勝海舟の紹介を持って、東京からわざわざ鹿児島まで行って、西郷南洲に謁した。その書生のつもりでは、南洲にたよって何かに使ってもらいたい下心だったのである。その時、南洲は「あなたは牢に入れられたことがありますか」と聞いたが、書生は驚いて「私はまだ何の罪も犯しておりません。ですから牢に入れられたことはありません」と答えた。
南洲がまた「東京から鹿児島までお出なさるのに、旅費はどれだけかかりましたか」と聞くと、書生は「三十円とはかかりませんでした」と答えた。すると南洲は「牢屋の苦しみも知らないような人を、使うわけには行きません。東京へお帰りになったら、そのように勝さんに話して下さい」と三十円の金を渡して帰らせたという。
政は文を興し、武を振ひ、農を励ます
●『政の大体は文を興し、武を振ひ、農を励ますの三つに在り。其の他百般の事務は、皆この三つの物を助るの具也。この三つの物の中において、時に従ひ勢に因り、施行先後の順序は有れど、此の三つの物を後にして、他を先にする更に無し。』(『南洲翁遺訓』)
 【立雲先生日く】 文武の両道といふことは、昔から人がいつとるが、文武農の三道としたところは、流石に南洲先生ぢや。智、仁、勇の三徳に配したところぢやのり。百姓は国の宝で、これを度外において、国の政治が成り立つものぢやない。昔から百姓を粗末にして栄えた政治家は一人もありはせぬ。
 南洲翁の偉いところは、口でいふばかりでなく、いやしくも自分でいつたことは、必ず自身で実行したところにあるのぢや。常に徳を磨き、武を練り、用がなければ国へ帰って百姓をして居られた。知行合一の英雄とはこのことぢや。お上への御奉公がすんだら、華族でも、大官でも、サツサと郷里へかへって、百姓をすることぢやヨ。南洲翁は、いつも口癖のやうに「百姓が一番正直でええ」 といってゐられたさうぢや。
買値でしか売らず、物欲を超越
 西郷隆盛は東京の蠣殻町に邸宅を構えていたが、征韓論が破裂し、東京を去って鹿児島に起居することになったので、その邸宅を売却することにした。執事の奔走で、ある金満家に元の価の数十倍で売却することに、ほぼ話がまとまったが、買い主が隆盛に面会するに及んで「代金はいかほどで戴けるでございましょうか」と尋ねると、無雑作に「250円です」と答えた。買い主は「へえ、幾坪が250円でございましょうか」と聞くと「全体です」と答える。買い主は驚いて「このお屋敷は、今では大層な価値となっております。捨て売りにされても一万円(今の10億円i以上か)の価があります。それを二百五十円では戴き兼ます」というと、西郷はどこまでも「もと二百五十円で買ったのだからそれで結構だ。私は商人でないから元のままにしてくれ」といって止まなかった。
伊藤博文、大隈重信の人物比べ
 【立雲先生日く】 西郷は経済の解らん男ぢやといふ者があるが所謂経済の解らんところが、西郷の大きな経済ぢや。伊藤や井上や大隈なんどの算盤(ソロバン)のケタには掛らんかも知れんが、西郷の算盤は伊藤らの算盤とは、大ぶんケタが違うとる。
中江兆民といふ男は、却々(なかなか)鋭い頭の男ぢやったが、或る時、ある人が中江に、「伊藤と大隈との人物はどれ程違ふかや」と聞いた。
すると中江がいふには、「白紙一枚はどの違ひぢや」といふから、ある人解し兼ねてその訳を尋ねると、中江の返詞が面白い。
 「伊藤は才子の中の才子で、才子の絶頂にある男だ。大隈は豪傑の中の一番尻の豪傑だ。才子の上等の人間と豪傑の下等な人間ぢやから、其間白紙一枚の差ぢや」
といったさうだが、穿つとるテ。そこへ行くと西郷は豪傑の中の豪傑で、無策の大策で行く大豪傑ぢやった。伊藤や大隈なんぞとは、まるで人間の位どりが違うとる。
大久保の立派なサーベルを書生にくれてやる
 【立雲先生日く】 此の詩は、大久保利通が堂々たる西洋館の新邸を作ったときに、南洲翁がこれを諷せられたものであるとも聞いてゐる。いづれにしても、「児孫の為めに美田を買わず」とは、千古の名訓ぢや。誰れでも、功成り名遂げた暁には、美しい衣を着け旨いものを食ひ、立派な邸宅に住ひたいといふのが人情ぢや。あの人は偉いと人にはいはるれるくらゐの人傑でも、とにかくこの辺の道には迷ひたがるものぢやテ。
 かういふ話がある。大久保甲東(利通)がある時、イギリスに軍刀を註文して、金色絢爛たるえらい立派なものをこしらへた。それが評判になって、つい南洲翁の耳にはひつた。
一日、南洲翁はブラリと大久保を訪はれた。話の序でに翁がいはるるには、
 「大久保どん、おはん此の頃えらい立派な軍刀をこしらへさつしやったといふことぢやが、どれでごわすか」。
 大久保は床の間に飾ってあつたのをとつて見せる。成程ピカピカしてゐて、大さうなものぢや。つくづくと見とれてゐた西郷は、何と思ったか、ちょっと
 「おはん、これを一寸おいどんに貸して呉れんか」との相談である。大久保も、妙なことをいひ出しをつたなとは思ったが、外ならぬ西郷の頼みだ、厭(いや)だともいへないから貸してやったもんだ。ところが西郷がそれを借用に及んで、持ち帰ったはよいが、さて何時まで経っても返さない。フト思ひ出して見ると随分長くなる。始めの間は大久保も、西郷のことだからそのうちに返すだらうと思って、催促するのもをかしな話だから、そのまゝにしてゐると、待てども待てども音沙汰がない。大礼服などを着用する場合などには差し当り必要に迫られたりするので、さうそう黙ってもをれなくなり、或る時西郷に、

 「おはんが借りて行ったあの軍刀は、早く返してくれんと、時々困ることがあるでのり……」
 思ひ切って催促した。すると西郷は、「ああ、あれでごわすか……」
 忘れてしまって居ったといった調子で、「あれは書生どもが来て、あんまり綺麗(きれい)ぢや、きれいじゃというて、欲しさうな顔をするもんぢやから、いつぞや書生に呉れてしまうた」
と平気なものである。
あの六ケかしやの大久保のことだから、真赤になって怒ったといふが、こゝが南洲翁の考への深いところぢや。翁の心中を割って話をするならば大久保甲東ともいはれるものが、子供だましのやうな軍刀をこしらへて、金ピカを鼻にかけるのは見つともない話ぢやないか。殊に軍刀なら、イギリスあたりに註文しなくても、日本の水で磨ぎ澄まし
た名刀がいくらもあらう。そんなことをしては人に笑はれるぞヨ。塵溜(ごみため)にでも捨てるか、書生にやればよいのじゃ
 
 

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