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日本作家奇人列伝(39)日本一の大量執筆作家は誰だー徳富蘇峰、山岡荘八、谷崎潤一郎、諸橋撤次ら

   

日本作家奇人列伝(39
日本一の大量執筆作家は誰だー
徳富蘇峰、山岡荘八、丹羽文雄、谷崎潤一郎、武者小路実篤、
諸橋撤次、田中貢太郎、折口信夫
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
 
 国文学者で歌人の折口信夫(一八八七-一九五三)は大阪出身らしくケチで通っていた。たくさんの贈りものがアチコチから届いたが、居間の床の間につみ上げて放っておいた。果物などから腐って、変なニオイが充満しても、内弟子が捨てようものならカンカンに怒った。
夜おそく、居間で物音がするので弟子がみに行くと、折口は腐った果物を使って手製の果実酒、ワインをせっせと作っていたのでびっくり。
                                                                              
 生涯独身であった折口は家事一切をお手伝いさんにまかせていたが、家計にはことのほかうるさかった。少しでも赤字を出すと、細かいところまで説教し、折口の言うことがなくなると、弟子に代わって説教させた。弟子が遠慮して手心を加えると「もっとちゃんと叱れ」とドナった。
 
 
文芸雑誌「群像」の編集者Kが結婚することになり、仲人武者小路実篤一八八五-一九七六)がつとめることになった。武者小路は新婦と知り合いであり、Kも武者小路の担当であった。
 
 結婚式は銀座の風月堂でカクテルパーティ形式で行われた。武者小路があいさつを行い、新郎新婦の紹介となった。新婦を「こちらの寿美子さんと…」と言ったあと、絶句する。よく知っているのに名前が緊張したのか名前が出てこない。しばらくして、こっそり新郎に対して「君、なんていうの」と聞いた。
驚いたのはKの方で一瞬、「エッー」といったまま武者小路を見つめていた。武者小路は落ち着いた調子で「君の名前は何ていうの」と再び確認した。
 「K、Kです」とKが言うと、武者小路は客の方に向かって「K君と結婚することになりました」と続けた。
 武者小路はKの名前を忘れたのだが、動じることなく、堂々と聞いたのである。
 
 
酒仙作家は多いが、その一人が実録ものに筆をそめた田中貫太郎(一八八〇―一九四一)である。田中は人と話す時、酒がないと落ち着かなかった。男の胸の中には女にわからない〝酒塊“に注ぐものというのが、田中の持論であった。
酒を飲む場所は道場であり、田中の茶の間には柔道場と同じ縁なしの畳が敷いてあった。台所には四斗タルが置いてあり、タルが空になると、近所の酒屋から腎寄せ、勘定がいくら増えても、毎月一定額しか払わなかった。
 
 「酒を飲まない男は俗物じゃ」と相手が酒を断わると叱った。井伏鱒二は田中の酒の弟子であった。田中は酒好きというよりも、酔中のおもむきを愛する人であった。田中は大正十四年に刊行した『十五より酒飲み習ひて』の序文で、「希くぼ酒を摂して万巻の書を読破せんかな」と書いてある。
 
田中の友人の松崎天民が三男を亡くした時、貫太郎は衿なしの着流しでやってきた天民に「葬式は出せるか」と開いた。
「どうにか出せる」と答えると、田中は「待っちょれ」「待っちょれ」と言ったまま姿を消し、夜現われた時は三百円入りの紙づつみを天民に渡した。
中央公論社にかけあって、原稿料を前借りしたものだが、金を渡し、焼香を終えてから天民の妻にそっと「申し訳けないが、その中から三十円ほど下さい。酒を飲んでくる」と言った。
 
その酒仙作家が胃かいようで倒れ、死の直前に見舞にきた榊山潤に向かって
 「昨夜は久しぶりに女と寝た」と話した。榊山が心配すると「何、胃とは距離あるけん、大丈夫じゃ」と笑った。そして間もなく亡くなった。
 
 
三十五年間の歳月をかけ「大漢和辞典」を完成させた言語学者の諸橋轍次(1883-1982)は昭和の塙保己一であった。
「大漢和辞典は字数五十二万余語を収め漢字辞典としては中国の「康無字典」、「侃文韻府」を上回り、国語、英語で字数を上回るのはわずかに米国の「新ウェブスター」(五十五万語)のみであった。
 同辞典の活字は昭和二十年二月の東京大空襲で灰じんに帰したが、諸橋はわずかに残っていた薄くて、目に見えないような校正版を元に苦労しながら書き上げた。
諸橋の目は校正を始めたころから漸次悪化し、ついに盲目となった。それでも執念で弟子に漢字のつくり、へんを読ませて校正を続けて完成にこぎつけた。
 この世界的な大学者は日常生活はまるでダメで、ガスや電気の栓一つつけられなかった。記憶力抜群と思いきや、全く逆で〝物忘れの天才〟だった。
 
 諸橋は研究の合間に散歩をするのが趣味だったがある時、散歩に行く途中でたまたま顔見知りの人に会った。ニコニコしてあいさつするので、こちらも答えた。
その人は一緒に歩きながら、さかんに時候のあいさつや世間話をする。諸橋は何者か思い出せない。相づちを打ちながら、とうとう家の前まで来て、言わないでもいいのに「ここで失礼しますが、お宅はどちらでしたか」とたずねると、「私はお隣りですよ」とその人はゲラゲラ笑い出した。
 
下駄、帽子、ネクタイ、羽織まで間違えて、人のものを持ち帰ることはしばしば。先輩教授宅に届けものを持参して、降りの家に誤って持っていったり、嘉納治五郎を訪れた時、用件をすませて表に出るとどうも頭が寒い。帽子を忘れた。とって返すと、先生はまだ玄関におり「どうした」「イヤ、帽子を忘れまして」と言うと、先生は笑いながら「君、手に持っているじゃないか」
 
 
一時、 世界で一番著述の多いのはボルテールの全集七十巻といわれるが、わが国ではどうか。一九八〇年代の初めのことだが、現存するのなかでは山岡荘八や、松本清張、司馬遼太郎らが多作の代表選手であろう。ただ、誰れがトップになるかは今後の作家活動によって変わってくる。
 
一昔前では『近世日本国民史」で知られる徳富蘇峰一八六三-一九五七)で、『近世日本国民望(一〇〇巻)の政治論、人物評伝、史論、随筆など三百冊は書いており、著述の総計は四百冊に達する。蘇峰が明治以降では最多量の作家ではないか。
 
 この蘇峰の旺盛な執筆力と長寿の秘訣の一つは禁酒であった。蘇峰が六歳の時、大酒飲みの父敬一が腎臓を患い、病に伏せた。蘇峰は神社に拝うでて「私は一生酒を飲みませんからどうぞ父の病気を直して下さい」と願をかけた。
 父の病気は直り、九十三歳の長寿を全うした。それ以来、蘇峰は一滴も酒を飲まなかった。「トソだって酒ですから、たとえ正月でも一滴も飲みません」
 
 戦争を賛美し、日本の軍国主義のイデオログの旗手だった蘇峰は敗戦後の昭和二十一年八月十五日に自ら戒名をつけた。「百敗院頑蘇泡抹居士」
 
 蘇峰は女秘書の八重傑東香(本名祈美子)が昭和十八年にガンで死亡するまで、百四十七日間に連続百三十通のラブレターを送った。八十一歳の時である。
 「言いたいことは山程あれども、いざ面会ともなれば何も口には出ず候、私も察しますから女史もお察し下さい」
 
 最後の手紙は -。
 「Oh my dear Kimiko・How are you remember me・Love forever」
 
 この書簡集が『蘇峰と病床の女秘書』と題して出版されたが、蘇峰は「世間では私を理屈ばかりこねる人間だと考えているので、世間のプロテストする意味で書いた」と答えた。
 
 
ところで、日本一の長編小説は山岡荘八(一九〇七-一九七八)の『徳川家康』(全二十六巻)である。四百字の原稿用紙で一万七千四百八十二枚。字数で六百九十九万二千八百字。完成までに十八年かかり、昭和六十一年末までに四千八百万部部を売ったという。わが国最大のベストセラーである。
 
 この山岡は感情の起伏が激しく、感極まると、原稿を書いていても、人前で講演していても大声をあげて泣いた。
 目撃した作家の戸川幸夫は「突然泣き出し、大粒の涙が前の人に飛び散った」と驚き、〝射精″にちなんで〝射涙″と名づけた。執筆は鉛筆を軽くにぎって書いた。これを奥さんが清書する。山岡本人の机と奥さんの机が書斎に並び、資料調べの秘書が一人住み込み、お手伝いと合わせて、あの大量の歴史小説が生れた。
 仕事に熱中すると、家の中は静まり返り、降りで清書している夫人の鼻息がうるさいと言って「息をするな」とドナリながら、書きまくった、という。
 
 
 
丹羽文雄の速筆多作も有名。年平均三千枚を書き、二十五年間の作家生活で七万枚、三百冊を越す著作をものにした。
 二十四時間に百四枚書いたという記録の持ち主。中央公論社内ではー時「一に犀星、二に文雄」という言葉が通っていた。犀星はもちろん、室生犀星(一八八九 ― ―九六二)、文雄は丹羽文雄である。予定した創作の狂いが生じると、室生か丹羽のところにかけ込めば、何とかなるというわけ。
 
三日間で五十枚とか二日で三十枚の無理をきいてもらえる。犀星はカワラのように浅黒く四角ばった顔でしばらく考えこんだ末、「中央公論では仕方がない。とっておきの材料を縮めて三十枚でやりましょう」とひき受けた。そして、必ず締め切り日には書き上げた。
 
 
では逆に遅筆家ナンバーワンは誰か。
 
谷崎潤一郎(一八八六-一九六五)である。谷崎はせいぜい原稿用紙二枚もかけば、それ以上は精神的にも肉体的にも疲労して書けなかった。
 谷崎はその理由を、若い時分からの糖尿病のせいで、根気が続かないためと書いている。
 原稿用紙に向かってもタバコを吸うとか、湯茶を飲むとか、小用に立つとか、十分か二十分おきに一息入れて気分を変えないと、思考が集中しない。
 
 たまたま一カ所に行き悩むと、これがますますはん雑にくり返される。行き悩みが激しいと、原稿が谷崎をバネ返しているように感じられ、あお向けに寝ころがって、天井をみつめたまま、三十分や一時間は空費する。この習慣がひどく、若い時分は一日十枚というレコードもあったが、年とってからは一日、三、四枚、ついにはいくら気拝はあせっても二枚以上は書けなかった。
 
 「私の貧乏の最大の原因はこの遅筆にある」と谷崎は書いていた。
 その谷崎が丁末子と離婚して、昭和十年に森田安松の二女松子と結婚した。松子と恋愛におちた当時、松子が二十七、八歳、潤一郎は四十四、五歳の男盛りであった。
 潤一郎は恋文を数多く出し、会うたびごとに、自分を偽り、夫人を偽ることはできない自分は同時に二人の女性を愛することはできない、と三角関係の悩みを打ち明けた。
 潤一郎は潔癖な性分で、丁末子夫人に二人の関係を告げるまでは、松子と夫婦関係は結ばなかった。
 
 谷崎は大変な照れ性で、それが身近な人ほどひどく、家族に言葉をかけるのにも、いつももじもじして照れていた。娘や弟妹に小遣いを渡す時も身を小さく縮めて、くしゃくしゃにして渡していた。
 
 谷崎はシャレが好きで言葉遊びをよくした。俳優のジャン・マレーのことをジャム・マーマレード、ラナ・ターナーをダンナ・サーマ、ロナルド・コールマンをドナルト・オコルマンとよび、ジャン・ギヤバンのことをハサミの落ちる音の人と言って、家族の者を笑わせた。

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