日本リーダーパワー史(111)初代総理伊藤博文⑦ロンドンで下関戦争を知り急きょ帰国ー『国が滅びる』
日本リーダーパワー史(111)
初代総理伊藤博文⑦ロンドンで下関戦争を知り急きょ帰国
<このままでは『国が亡びるに相違ない』と止めに帰ってきた大英断>
前坂俊之(ジャーナリスト)
伊藤博文ほど自らの体験を気楽に国民に話した総理大臣はいない。明治のあの時代に元老から憲政を擁護するため政友会総裁となり各地で政談演説会を開き、講演会も数多くやって、当時の雑誌にも数多く登場した。
これは1897年(明治30)3月20日に経済学協会で『書生の境遇』と題した講演録で、自らのイギリス密航や維新の志士として活躍して、鎖国論を打ち破って開国を成し遂げたかーをザックバランに語っている。
20代の若き伊藤のイギリス密行の経過を活き活きと語っており、「開国か、攘夷かーの論議」は当時は「開鎖の議論」といわれていたこと、強硬論、大声のいけ猛々(たけだけ)しい攘夷論の背景には、もし開国論を本当にする者があると、立ち所に暗殺されるテロを恐れて誰も開国論をいえなかったこと。
そうした声高の強硬派をどうやって鎮めたかーなどそのリーダーシップの手の内を平易に語っている。
この話を聞くと、混迷する現在の政治は150年前とちっとも変っていないとつくづく感じる。『開国か、攘夷か』の不毛な対立が、現在のFTA,TPP加入問題、移民、外国人労働者の受け入れ問題などでも延々と続いている。日本は鎖国から脱していないのだ。
民主党のごたごたをみるにつけ伊藤らが命をかけて切り開いていた日本の民主主義を、お前らはぶち壊して日本を鎖国の状態に引き戻すのかーそれは間違いなく『日本沈没』につながる。伊藤の生命をかけたとんぼ返りが日本を救ったのでsる。
伊藤博文の演説『わが書生(学生)の境遇』
4ヵ月かけてイギリスに渡航
それへ大きな方の井上(馨)と私が乗せられた、どう云う所に乗せられたかと云ふと、船に舳(へさき)がある、其舳先の側にちょいとした水夫の部屋がある。東側にちょいと二段になって居る所がある。そこへ二人押し込れたが、もとより我々を待遇する所には尋常の厠(トイレ)はなし。
用あるときは舳先の地の横に桁が出て居る、そこで皆厠の代りをすることであるが、激浪の時には身体、潮水に湿れて実に困り切った、それから後との三人は一週間余り遅れて外の船に乗った為に、なんでも中等の船客位の扱ひを受けて食事する時なども食堂に出て一緒に食はされたようである。
我々の方は船の乗込みの者が食うた後とでなければ食はせない、勿論、水夫と一緒には食はせなかつたが、船乗りにでもなるものとでも思ったか、水夫からでも教へる積であったか、雨の降ったり、何うかすると水夫の手が足りないと、綱を引く手伝いなどを水夫と共にさせられた。
さうして朝寝でもして起きていかぬと、水夫が綱の先きを持ってピシャピシャ尻のあたりを打って、日本人起きろと云って来る、大変苦んだこともある。それで当時はまだスエズの掘割(運河)を通るといふやうな訳にいかぬで、喜望雌を回って行くというような有様で、上海を出て以来ロンドンのドックに入るまでの間、どこへも着いたことがない。
ほとんど四ヵ月近くの歳月を海上で費した、それで土地に沿うて行ったかち喜望峰の土地も見えれば、彼のナポレオン一世の流されたセント、ヘレナの如きも皆目の前に見える、けれども寄れば日数も掛るし、入費も要ることであるから寄らぬ、唯頗る難儀をしたのは水である。
水は天水を取って居る、桶をならべて天水を取って居るのであるが、雨の降らぬ時は飲用水に困難をする。食物は何だと云ふと、乾からびたビスケットで、中にウジのわいて居るものと、それから樽詰の塩牛の角に切った、それを食ったり、一週間に一遍、豆の汁を吸ふが最上の馳走である。
そこで乗組みの人や何かの話しに、英語を覚えなければちっともいかぬと云ふし、まだ其時分は二人は英語が分らぬから、この航海中に苦し紛れに堀辰之助の字引によって頻りに研究した。その為にロンドンに着いた時には多少、水をくれ、湯をくれといふやうなことは楽に言へるやうになった。さて船はまもなくロンドンのドックに這入ると、向ふに運上所(入国管理事務所)の役人が居って、それが来て一切の荷物より小さな手回りのものなどを残らず調べる。
乗込入の方は一人も残らず上陸せしめた。さうして船は全く運上所の役人の保管となった。これは所謂禁制品などが隠しちやないかといふことを調べる為であったと思う。井上はその朝、船の炊夫と共に上陸した。私は共時一人で残って居った。所が出て行ったのは宜いが、晩方になっても帰って来ない。追々、腹は減って来るし、茶を呑むことも飯を食ふことも出来ない。
こちらを見れば運上所の役人が、きつと容儀を正して居るのみで誰も居らぬ。まさか運上所の役人に空腹を訴ふることも出来ず、困ったものだと思って居る中に、予ねて日本に来て居った英一の持船の船長が私を迎に来た。それから直ぐとタワー、オブ、ロンドンという所に行って、「アメリカン、スクエアー」に旅宿をした。ここはおもに船乗りの泊る場所である。
翌日其人が風呂屋へ案内して呉れて、ちっとは身なりも奇麗にしなければならぬからと云って、理髪店に連れて行かれ、仕立屋へも連れて行かれ、それから靴屋へも連れて行かれて、ようよう一人前になった。
まだこの時まではあちらに日本の書生といふものは居らなかった、我々が書生(学生)として行ったのが一番初であった。そこで英一の書記が其後「プロフエッショナル」などの所へ連れて行って、どうだいお前の所へこの日本人を預って世話をしては呉れぬかといふと、何分日本人は初めて見た位であるから様子が分らぬと云って段々受付けられぬ所もあった。
ロンドン大学の化学教授の世話になる
しかし、とうとう仕舞ひにロンドン大学の化学専門の教授をしておるドクトル、ウィリアムソンという人の世話になることになった。井上と山尾は別にある画工の家に行くことになった。私はそこにおった所が、毎日のようによく世話をして呉れる。ウィリアムソンの妻君も能く世話をして呉れて、学校の先生だから朝に晩に来て教へて呉れる。
さうして日々、学校に行って、あるいは電気の世話をしたり、それから管を吹いたり色々のことをやる。その間に一方では算術を教へて呉れ、一方では言葉を教へて色々の物を書かせるけれども、なかなかタイムス新聞を読むといふ理屈にはいかぬ。
所が家内の中で新聞を読む者があって、お前日本はどこだといふから、長州だと言ふと、長州といふのは下の関ではないか、下の関では外国船を砲撃した、そうすればお前の所だらうと言ふ、どんな事が書いてあるかと思って、井上にお前もう一遍能く読むが宜いと云ふと、是れはなかなか容易ならぬ本当だ、「バアリヤメン」(野蛮人)でもどうしても征伐しなければならぬといふ議論があると云ふ。
そこで熱々考へるに、ヨーロッパの形勢を見ると非常な開け方である、日曜の休みの時などにキエウガデンの天文台や、グリンニッツチの大砲製造所や、軍艦製造所とかいふやうな、大概、ロンドンのさう云ふやうな大きなものは見せられた。
「きっと国が亡びるに相違ない』の危機感から
そこでこれはどうもこの文明の勢であるのに、長州などが攘夷を無謀にしようというのは以ての外だ、思ひもよらぬ、これは此有様で打捨てて置くと、取り返しの出来ぬことが起る。きっと国が亡びるに相違ない。我々はかりにここで学問をして居って、業成るも自分の生国が亡びて何の為になるか。
これは我々の力を以て止め得るや否やは分らぬが、身命を賭けても止める手段をしなければならぬといふことに井上(馨)と私と二人が決心して、それから直ぐに山尾に鉄道、井上と遠藤の三人に向って貴様等三人は残って居って我々五人がヨーロッパに学問をしに来た志を継いで学業を遂ぐるが宜いと、固く約束して私と井上は分れた。
然るにウィリアムソンはなかなか心配してやかましいことを言ふ、聞けば、もっとものように聞えるが、お前達ちはまだ青年の身分であって国へ帰った所が何程の効果はない。詰りお前達は学問をするのが嫌やになって、さういふ口実を設けて帰るのだらうと言ふけれども、そんな勧告でやめられるべき筋ではないと云って、断乎として帰ると言ひはなった。
そんなら仕方がないから帰るが宜いと云って、また船に乗せて貰って喜望峰を回って帰って来たから、思ひの外に日数が掛って、上海に着いたのが子年であって、最早その頃にはちょっと話しは出来るから、段々様子を聞いて見ると、近日、馬関へ砲撃に行くらしい、そりゃお前達連も帰っても間に合わぬといふ話だ。
しかし、折角帰る積でここまで来たからどうでも帰ると云って、長崎には船が寄らないからその船で横浜に帰って来た所が、あに図らんや長州邸は焼かれ、長州人は東京の屋敷を追い払はれて、長州人と言へば、広き日本国中を歩くことも出来ぬといふ有様であった。
もちろん二人は帰途船中で頻りに談じて、帰ったらどうしようか、こうしようかと語り合って、先づ当時日本の識見家である佐久間象山、あれが信州に居るから、あすこへ行って一と面会をして我々の所見を談じようといふことに決して、横浜に帰って見れば、なかなか容易ならぬ形勢で、日本人が船から出たと云ふやうな事が知れては一身が危険であるから、ハリソンと云う人が英一の関係から知って居るから、其人に頼んで西洋人の泊る宿屋があるから、そこに泊めて貰うた。
さうした所がそれに通ふに便が日本人であるから、ハリソンの言ふには、どうもお前達日本人と云っては危ぶないから、ポルトガル人と言ふが宜からう、さう云ふ事にしよう、併しポルトガルというたばかりではおかしいからなんとか名字を付けなければならぬと云って、私にデポナーと云ふ名を付けた。
イギリスの公使に泣きつかう
井上はなんと云ふ名だったか覚えぬ、さうしてその宿屋に泊って居って色々考へたが、どうしても陸路では長州まで帰ることが出来ぬ、出れば必ず捕へられるに相違ない。金は少々は持って居ったが、金は何んの用もなさぬ、去りとて海路を取って行くの便なく、殆んど策に窮して居った。
そこで段々様子を聞いて見ると、最早十日を出ずして各国の軍艦が下の関を砲撃に行くという話である。軍艦は幾艘かときくと、十八艘だといふ、是れは到底仕方がない。
それならイギリスの公使に泣きつかう、身をイギリス公使館に投ずるより仕方がないと覚悟をした。その時は横浜に公使館があったので、直ぐにウオルコックといふ「ミニストル」の許に行って頼んだ。
この時は今のサトウも、シイボルトも、ラウダも、皆居って大概、日本語を知って居った人のみだから誠に宜かつた。ウオルコックの所に行って、実は私等ほ「プリンス」から言い付けられて、ヨーロッパに行って居ったが、この度戦争が始まると云ふことを聞いて容易ならぬ事と考へて帰って来たが、この戦争を止める積りである。
私共、其位の言い分は貫くから、どうぞ私共を長州まで送って呉れぬかとこう頼んだ。所がそれはお前達が帰った所がちっとも長州の勢は止らぬ、最早こちらでは大概極めて居るからと云う論であったから、マーどうぞ私ども折角ヨーロッパからその為に帰って来たのである。
私共きっとこの戦争は止めて御目に掛ける積であるから、是非どうか御依頼を申したいと懇々言った所が、それでは待って呉れ、一つフランス、アメリカ、オランダの公使にも相談しょうといふことになって、この各公使とそれから、イギリス、フランスの水師提督なども会合して、こう云ふことが起ったが、どうであるか、是れを送ってやるかどうかといふ評議になった。
アーネスト・サトウも一緒に長州に入る
その評議でさう云ふ訳なら強て戦争を好む訳でないから送ることにしようと云ふことになって、その席へ来いと云ふから其所に行った、さうするとお前達は送って呉ろといふから送ってもやらうが、船は何地に着けようかと言ふから、海図を出して長州の海岸へは砲撃の虞あれば、船が着けられぬから豊後の姫島に着けて呉れと頼んだ、宜しい着けてやる。
そんなら其返答をするに何日掛るかと言ふから、何日と云ふても其地から山口に行って、また姫島まで帰って来なければならぬから、どうしても往復の日数が掛るから、どうぞ二週間待って呉れ、評議もしなければならぬからと言った。所が一週間より待たれぬ、待って呉れ、待たれぬと云ふのでとうとう十二日間待つと云ふ約束をして、乃ちイギリスの軍艦一般とフランスの軍艦一般と都合二隻で送られた。
サトウもこの時一緒に行った、さうして姫島に着いてから私共両人は漁船を雇うて周防の国の戸海と云ふ所に行った、三田尻の直き近辺であるが、船着きだからそこに着けて呉れと言って戸海に上陸した。ところが長州はその時は攘夷論の極点に達して居る時で、男子は勿論、婦女に至るまで白鉢巻で袴をかけて長刀を使ふと云ふやうな騒ぎである。
ところが我々は散髪であって、漸く人に頼んで横浜で単物を一枚買って貰ったきりで、大小を差したり袴を着けたりするやうなことは出来ぬ。それから戸海から三田尻といふ所まで二里ばかりあるが、そこに代官をして居った湯川平馬といふ男を知って居るから、早駕籠で行って実は斯ういふ訳で帰って来たのだから、山口まで急に行かなければならぬ、それまで身体が安全に保てぬと困るから、どうぞ貴様に頼む、やって呉れぬかといふと、それならやつてやらうとなって、そこで袴羽織に着物と大小を借り集めて揃ったが、山口に這入るには途中に関門があってなかなか厳重だ。
(つづく)
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