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日本リーダーパワー史(287)タフネゴシエーターの大隈重信①英国のパークス公使と堂々と対決して、議論に勝った30歳の大隈

   

日本リーダーパワー史(287
 
<外交ディベート、タフネゴシエーターの大隈重信
 
『早稲田雄弁会、松下政経塾出身の『沈黙の政治家』が日本を潰す。
野田首相は「早稲田の父」大隈重信を見習い、対米、対国際
外交力を堂々と発揮して、『大声で明白に主張せよ』①
 
                         前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 大隈重信<1838(天保9)~1922(大正II)>は天保九年二月六日、鍋島藩(佐賀県)物成120石の佐賀藩士・大隈信保・三井子の家に生まれた。幼名八太郎。七歳で佐賀藩の学問所弘道館に入門、十三歳のとき、父の信保を亡くした。信保は藩の石火矢頭入(砲術長のこと)をつとめていた。
 
 当時の佐賀藩の武士の生き方を支えていたのは「葉隠れ精神」。その根本精神はは「武士道とは、死ぬことと見つけたり」である。
 弘道館では隠れ精神を基に朱子学の伝統を守って若者の指導を行っていた。そのため黒船が日本に来航するという時代の流れからとり残されることになる。
 
 重信は十六歳のとき、藩校弘道館の内生寮に入ったが、頑固者、暴れん坊で手がつけられなかった。「もっと、時代の動きに目を向けよう」と考えた重信は、同志を募って弘道館の改革を目指すが失敗し弘道館を追放されてしまう。
 
 「これからは蘭学こそが本当の学問だ」と考えた重信は、藩の蘭学寮に入学する。その後,藩の命令で長崎へ江藤新平と共に留学した。
ところが「大隈家の大切な息子に毛唐人(毛唐人=外国人)の真似をさせるとは何事か」と親戚連中が押しかけてきた。
その時、母三井子は少しも騒がず「八太郎は自分で決めたことをやり抜いています。私は八太郎を信じています」と、きっぱりとはねつけたという。
 
長崎ではアメリカ人牧師兼教師フルベッキから独立と自由の精神を学ぶ
 
1965年(慶応元年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:フルベッキ)教頭格となって指導に当たった。
 
長崎ではアメリカ人牧師兼教師フルベッキから「これからはオランダ語より英語だ」と教えられて、アメリカ憲法と独立宣言の精神である「自由と権利」の思想をたたき込まれた。葉隠れ精神で育った重信にとって、天地がひっくりかえるような驚きであった。
 藩主・直正の前で重信は西洋事情につき「オランダ憲法にある王室」という内容の進講を行った。そのすばらしい講義内容が認められて、藩主から蘭学寮の教授を命じられた。
 
 
 万延元年(一八六〇年)水戸の浪士が江戸城の桜田門外で大老井伊直弼を暗殺した。重信は藩主の鍋島閑叟(なべしま-かんそう)を説得して勤皇方にしようと、長崎から自費で江戸へ海路大阪経由で上ったが、途中で捕まった。
 もとも肥前は農業のほかに産業がなく、藩財政は窮乏の一途だった。大隈は経済観念も発達しており、江戸、大阪では、米や酒の値段が高いので、九州の安い米や酒を買い占めて、江戸や大阪へ送って大もうけし、藩の経済指導者となった。
 
 幕末の長崎には、大隈をはじめ、全国の十六藩から代表が集まっていたが、大政奉還後は長崎奉行が姿をくらまし、大混乱していた。英語の達者な大隈はリーダーとなって、毅然として外国人に対応した。
この最中にキリスト教をめぐるゴタゴタが起こった。鎖国で禁止されていたキリスト教も開国と同時に復活、横浜や長崎には天主堂を勝手に建立した。信者たちも公然と礼拝をはじめた。
ところが、慶応3年(1867)、幕府の九州鎮撫総督・沢宜嘉は攘夷派の人物で、キリスト教に対して徹底した弾圧を加えた。
浦上のキリシタンたちを呼び出して改宗を説得したが、改宗の意思が無い事から「中心人物の処刑と一般信徒の流罪」と言う厳罰の提案を新政府に提出し、『浦上四番崩れ』事件を引き起こした。
隠れキリシタンとして、ひそかに信仰を守ってきた浦上村の村民たち数百名が捕まって激しい拷問を受けた。当時、長崎の浦上地区は福岡藩の預かり領でありキリシタンたちは船、陸路で福岡に送られ、源光院に設けられた収容所に移された。その後、それらのキリシタンたちは長州に移送されている。
江戸幕府のキリスト教禁止政策をひきついだ明治政府の手によって村民たちは流罪とされたが、このことは諸外国の激しい非難を受けた。欧米へ赴いた遣欧使節団一行がキリシタン弾圧が条約改正の障害となっていることに驚き、本国に打電したことから、明治6年にキリシタン禁制は廃止になり、259年ぶりに日本でキリスト教信仰が公認されることになった。
英国のパークス公使や各国の公使たち連合して「明治新政府は不法なり」と糾弾の火の手をあげ、抗議を申し入れた。
 
一方、大隈は薩摩の小松帯刀の推薦で明治元年(1868)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられていた。
 
英国のパークス公使と堂々と対決して、議論に勝った
 
太政官政府は大あわてで、長崎の事情通で、英語のできる大隈を起用し、折衝にあたらせた。時に大隈は30歳、参与に任ぜられ、外務出仕を命ぜられた。このとき、外務官僚としての大隈の方向が決まった。
 
明治元年(一八六八年)四月三日、会議がはじまった。場所は、大阪東本願寺の大広間。一方の側に山階宮、三条実美、岩倉具視、伊達宗城、木戸孝允、大久保利通、後藤象二郎、井上馨、伊藤博文ら、ときの太政官政府の高官たちがずらりならんで坐った。他の側には、公使団の代表イギリスのパークスが通訳その他をひきつれて席を占めた。
 
パークスは倣岸不遜のイギリス人として、日本人からひどく恐れられていた。
パークスは、開口一番「名もなき白面の書生と英皇帝代理の私が折衝出来ると思うか。無礼だ」と怒鳴っり、出席者は震え上がった。
大隈は直ちに、毅然として口を開いた。「私はここに出席の岩倉公から政府代表の地位を与えられている。そちらが皇帝代表ならこっちも天皇の代表だ。いやならこれまでの抗議を撤回したとみなす」と英語で反撃した。
 
ここに明治初期を代表する外交ディベイト(外交駆け引き)大会が、英語コミュニケーション競技がおこなわれ、明治のトップリーダーはかたずを飲んで見守った。
 
出鼻をくじかれたパークスが不承不承、交渉を始めた。『西欧の文明先進国には思想、宗教の自由がある。キリスト教を弾圧して、宗教の自由を禁止しているのは野蛮国である』と怒鳴ると、

「キリスト教の禁止について、各国から苦情が出ているようだが、禁止する、しないは日本の法律で決めることだから、国際法上、なんらの違反でもない」大隈はさらに声を大きくして反論した。
 
「あなた方は、日本人のキリスト教徒を許し、自由に布教できるようにしてくれといわれるが、これは国家にとって重大なことだから、そんなに簡単に決めことはできない」
 
一座の者が固唾をのんで見守るなか、40歳のパークスの顔には、若い大隈と日本国を軽べつする表情が浮かんだ。

「日本は世界の情勢をよく知っていない。欧米の文明国では、どこでも信仰の自由を国民に与えている。にもかかわらず、日本ではキリスト教徒にだけ弾圧を加えている。やっぱ。野蛮国ですな。もし、わたしの忠告を聞き入れないならば、われわれはみんなで日本を野蛮国あつかいにするだけだ」
 
「なにをいうか。外国人のいうことをなんでも聞き入れたら、そのときこそ国が亡びるときです。そんなことでだまされる日本人ではありませんぞ」
と大隈は一歩も引かない。これには居並ぶ太政官政府高官たちも思わず溜飲を下げ、大隈株は一挙に上がった。

午前十時からはじまった会議は昼食もとらず、激しい議論の応酬となり、午後4時まで六時間ぶっ通しで行なわれた。結局、交渉物別れで散会した。
 
大阪東本願寺の会談で大隈に煮え湯を飲まされたイギリス公使のパークスは、それからまもなく日本の外務省の嘱託をしていたシーボルト(英国人)に会い、嘆息まじりにこう言った。
 
「日本へ来て数年になるが、大隈重信のような外交官に出合ったのは、はじめてだ。あの男はなかなか勉強しており、一筋縄ではいかない」
 
パークスを感心させるほど大隈に英語力と勉強があったわけではない。もともとハッタリと度胸と雄弁とタフ・ネゴシエイターでは当代一流の大隈である。フルベッキについて英語を習った時の知織を継ぎはぎして、堂々とパークス公使とわたり合わせたのだ。大隈の外交能力はこれによって認められ、外務大臣の道を歩むことになる。
 
<参考文献 大隈秀夫「明治百年の政治家」(潮新書、1966年)、渡辺幾治郎「大隈重信」( 時事通信新書 1958年)>
 
 
 
 

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