前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

百歳学入門(151)元祖ス-ローライフの達人「超俗の画家」熊谷守一(97歳)●『貧乏など平気の平左』で『昭和42年、文化勲章受章を断わった。「小さいときから勲章はきらいだったんですわ。よく軍人が勲章をぶらさげているのみて、変に思ったもんです」

      2016/07/16

百歳学入門(151)

 

元祖ス-ローライフの達人・「超俗の画家」の熊谷守一(97歳)

 明日食べる米がないという時でさえ、小鳥やネコを
飼って遊び、一晩中ローソクの明かりで時計や
カメラの組み立てに熱中し、生活のための絵は
一切描かなかった。

 

前坂 俊之(ジャーナリスト)

『画壇の仙人』、奇人画家、超俗の画家として生前も人気の高かった熊谷守一(1880-1977)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E8%B0%B7%E5%AE%88%E4%B8%80

は没後,評価はますますうなぎのぼり。その画風とともに「スローライフの」生き方に共感する人が増えている。

画家は好きなことをやっているので長生きの人が多いし、奇人、変人ばかりといっていいが、その典型の1人。その中でも極めつきが熊谷守一でしょう。熊谷守一は九十七歳で亡くなったが、早くから、「画壇の仙人」「超俗の人」「奇人画家」、伝説の人と呼ばれていましたね。

一八八〇(明治十三)年四月二日、岐阜県恵那郡付知村(現付知町)に生まれた。父熊谷孫六は岐阜市長をつとめたのち、衆議院議員に選ばれている。中学のとき画家になりたいというと、「芸者と坊主と絵かきはみんなこじきだ」と猛反対された。懇願して何とか一八九七(明治三十)年に上京、共立美術学館で日本画を学ぶ。

一九〇〇(明治三十三)年東京美術学校西洋画科に入学、青木繁、和田三造、山下新太郎、児島虎次郎

(倉敷美術館をつくった大原孫三郎からたのまれて、ヨーロッパにわたり、印象派の作品や多数の絵画、美術品を収集し、その収集品が同美術館の建設の基礎になった)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%90%E5%B3%B6%E8%99%8E%E6%AC%A1%E9%83%8E

らが同級生でいた。

熊谷は小さい時から、先生が『えらくなれ、えらくなるんだ』と生徒に訓示するのに異和感を覚えた。なんでも観察するクセはこの頃から人一倍強く、小学校時代、先生の話など聞かず、雲の流れや木の葉がヒラヒラまい落ちる様子などをじっと眺めていたので、よく叱られた

。先生はいつも「偉くなれ、偉くなれ」というので、「みんなが、偉くなったら、偉い人ばかりで困るのではないか」と内心思った。「そのころから人を押しのけて前に出るのが大きらい」と自伝的エッセー『へたも絵のうち』で回想する。

美校時代に日暮里の踏切で、人が電車にはねられて死んだところに通りかかり、交番に届けもせず一心不乱に写生、駈けつけた巡査のカンテラまで描いてその写実精神を賞賛されたこともある。

美校卒業後、農商務省の樺太調査隊に参加し、約二年間地形および海産物のスケッチに従事。一九〇八(明治41)年、第二回文展に初入選。翌42年の第三回文展で「蝋燭」が入賞したが、母の死を契機に郷里に帰り、岐阜の木曽山中できこり同然の生活をしながら六年間を過ごした。

モンペ姿は木曽山中に閉じこもり、木樵(きこり)になっていた頃からのスタイルで、トウモロコシの長いパイプをくわえた姿もこのころからだった。

6年後、再度上京の時には昼間は雨戸を閉めて寝てばかりで〝閉古ノ画伯″とアダ名され、気が向けば、友人を訪ねて時計の修繕をしてやったり、一向に絵を描かなかった。

寡作で貧乏しているくせに、援助を一切受けず「着物は体を包む風呂敷、飯は尻へ抜ける肥料」と豪語したというのはどうやら作り話らしいが、「深夜独り鏡に向って、自分の顔を写していると、キリストの顔にも匹敵する、その美しさに打たれる」と有島生馬(画家。有島武郎の弟、里見弴の兄)

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9C%89%E5%B3%B6%E7%94%9F%E9%A6%AC

に話したというから、相当の自信家でもある。

大正十一年、熊谷は42歳で秀子夫人と結婚した。24歳の秀子夫人は変わった人と聞かされていたので、貧乏覚悟の上での結婚だったが、一緒になると想像以上だった。

明日食べる米がないという時でさえ、小鳥やネコを飼っていたり、と思えば、一晩中ローソクの明かりで時計やカメラをバラバラにして組み立てに熱中したりで、生活のための絵は一切描かない。窮乏生活が続き、翌年、長男が生まれたが、子供に着せるものがないと、『風呂敷に穴をあけてかぶせとけ』といった具合でまったく描かない。子供が病気になっても医者に見せる金もない。

昭和三年、次男陽(三歳)を疫痢で、昭和七年、三女(一歳)も肺炎で、さらに昭和二十二年に長女(二十二歳)と愛児三人を連続して亡くした。陽が亡くなった時には、この世にこの子を残す何もないことを思って、棺の中で花に埋もれたわが子の死顔を夢中で描き続けた。描いているうちに自分が嫌になって三十分ぐらいで止めた。

『陽の死んだ日』と題したこの絵は熊谷の代表作となった。

子供が病気になっても、生活に困った時でも、絵を描いて金にかえるといぅことは出来なかった。秀子夫人や周囲から「なぜ絵を描かないか」と責められたが、守一は「四十年も過ぎた今になっても、胸のしめつけられる思いですが、あのころはとても売る絵はかけなかったのです」と自伝で回想している。

東京 にある熊谷の家は昭和七(1932)に建てられた。老朽化し雨もりがひどいので、49年夏は屋根瓦をふきかえた。それまでは家の中にバケツを置いて何とかしのいだ。

木門をはいると、すぐ庭で真ん中が築山となっており、クリ、モモ、カキ、クルミ、ねむの木、などが生い茂っていた。ここが雑木林、今でいう小さな里山となっており、中央に小さな池がある。

縁台には小鳥の鳥箱が置かれ、年中、庭に集まってくる鳥のサエズリ、ハーモニーがにぎやか。春夏秋冬と四季折々で、樹木はその姿を180度変える。水飲み場があるので集まる鳥も昆虫も年中、バラエティに富む。生物多様性のある小宇宙であり、大自然でもある。

熊谷は暖かくなった時期には庭にゴザを敷き、木のまくらで昼寝をする。夏には木陰で休む、手製のパイプを吸いながら、ゴザの上で昼寝もしながら半日過ごす。何時間でも木々や葉々を眺め、鳥のさえずりに耳を傾け、地面に動き回る昆虫やアリの動きを画家の眼で見つめた。

アリの動きをゴザで横になって水平に近い真横から近接してみるとまったく違う。「蟻の歩き方を幾年も見てわかったんですが、蟻は、左の二番目の足から歩きだすんです」

「雨、軒からの雨垂れ、雨の一滴。その雨を、何年も何年も見つめます。単純化の極致の熊谷の絵の1つに、「蟻」があるが、あくなき観察から生れた。庭の植物や動物、風物への愛情のこもった作品は、こうして生まれた。

昭和四十二年、熊谷は文化勲章受章者に内定したが、断わってしまった。宮内庁が再三にわたって説得したが、「めんどうで煩わしい」と聞き入れない。「小さいときから勲章はきらいだったんですわ。よく軍人が勲章をぶらさげているのを見て、どうしてあんなものをべたべたさげているのかと思ったもんです」

「欲しがっておられる方に差し上げてくださればよい」と最後まで固辞した。世間の損得などを超越して、無関心な熊谷は静かな日々は失われることを恐れ、無心に創作三昧の日々を選んだのである。

熊谷は勲章もきらいだが、ハカマもきらい。晴れがましいこと、かしこまることも一切きらい。だから正月もきらい。結婚式に招かれてもハカマは着ないで、モンペで通した。

その翌年、ある新聞で、熊谷は淡々と次のように語っている。

「…犬が横になって寝るのも、猫が病気になると地べたに寝ころんで眠るのも天の

理。私はゴザをしいて庭に寝ころんで眠り、アリが走ればそれが絵になる」 「絵を上手に描こうとは思わない。上手になってどうするんだ。絵は描いているうちにどうなるかわからない。そこがおもしろい。腹が減ったら食う。食うときが旨いので腹がふくれればおわりだ。いまはなにも欲はない。しいて欲しいと思うのは、いのちだけだ」

 

「私は生きていることが好きだから、他の生きものもみんな好きです」でも・・・。「犬はあまり人間に忠実なので見るのがつらくて飼ったことはありません」、猫の方が好きなのだ。

 - 人物研究, 健康長寿, 湘南海山ぶらぶら日記 , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『オンライン講座/日本/明治大正昭和/150年興亡史』★『憲政の神様/日本議会政治の父・尾崎咢堂が<安倍自民党世襲政治と全国会議員>を叱るー『売り家と唐模様で書く三代目』②『総理大臣8割、各大臣は4割が世襲、自民党は3,4代目議員だらけの日本封建政治が国をつぶす 』

  日本リーダーパワー史(236)記事再録」 『売り家と唐模様で書く三 …

no image
★『最強の日本人伝説』―宮本武蔵の終焉の地(パワースポット)を訪ねるー熊本の「霊巌洞」「東の武蔵塚」「など4ヵ所

     ★★『最強の日本人伝説』―剣聖・宮本武蔵 …

<日本の秘境をめぐる巣ごもり動画の旅>★『宮崎の自然美の高千穂峡と平家の落人伝説と悲恋物語の舞台・鶴富屋敷をめぐる旅

  2014/05/22  <日本の秘境、渓谷美を …

no image
『オンライン講座/日本戦争報道論①」★『ガラパゴス国家・日本敗戦史』⑫「森正蔵日記と毎日の竹ヤリ事件⑤まきぞえをくった二百五十名は硫黄島 で全員玉砕した』★『挙国の体当たり―戦時社説150本を書き通した新聞人の独白』森正蔵著、毎日ワンズ)は<戦時下日記の傑作>森桂氏に感謝します』

  2014/10/09 記事再録 120回長期連載中『ガラ …

no image
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変③』- 『ドイツ、ロシア、フランス、イギリスらの清国侵略に民衆が立ち上がった義和団事件が勃発』★『清国侵略の西欧列強(英国、ドイツ、フランス、ロシアら)の北京公使館は孤立し、敗北の危機に陥り、日本に大部隊の出兵を再三、要請した。日本側は三国干渉の苦い教訓からなかなか出兵に応じず・』

 明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変③』- 7月6日、日本政府は「 …

『百歳学入門(187)再編集』★『「長崎原爆の平和祈念像」を創った彫刻家・北村西望(102歳)の偉業』★『ノーベル平和賞を「日本被団協」が受賞、北村彫刻が再脚光された』★「いい仕事をするには長生きをしなければならない』★ 『たゆまざる 歩み恐ろし カタツムリ』

『日々継続、毎日毎日積み重ね,創造し続けていくと、カタツムリの目に見えないゆっく …

『オンライン/国難突破力講座』★日本リーダーパワー史(39)『日本敗戦の日(1945年8月15日)、森近衛師団長の遺言<なぜ日本は敗れたのかー日本降伏の原因を追究する必要がある>

  2010/02/10 記事再録  前坂 俊之( …

no image
日本の「戦略思想不在の歴史」⑷『日本で最初の対外戦争「元寇の役」はなぜ起きたか④』★『 文永の役はモンゴル軍の優勢のうち、『神風』によって日本は侵略から助かった』

 文永の役はモンゴル軍の優勢のうち、『神風』によって助かった。  1274年(文 …

no image
『リーダーシップの日本近現代史』(10)記事再録/「日露戦争・戦略情報の開祖」福島安正中佐④副島種臣外務卿が李鴻章を籠絡し前代未聞の清国皇帝の使臣謁見の儀を成功させたその秘策!

日本リーダーパワー史(554)   2015/03/13&n …

『リーダーシップの日本近現代史』(339)-<国難を突破した吉田茂の宰相力、リーダーシップとは・・>★『吉田茂が憲兵隊に逮捕されても、戦争を防ぐためにたたかったというような、そういうのでなければ政治家ということはできない。佐藤栄作とか池田勇人とか、いわゆる吉田学校の優等生だというんだが、しかし彼らは実際は、そういう政治上の主義主張でもってたたかって、迫害を受けても投獄されても屈服しないという政治家じゃない。』(羽仁五郎の評価)

日本リーダーパワー史(194)<国難を突破した吉田茂の宰相力、リーダーシップとは …