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日本リーダーパワー史(289)「政党政治の父・日本最強の宰相・原敬は藩閥政治の元凶・山県有朋をどう倒したのか①

   

日本リーダーパワー史(289
 
「政党政治の父・日本最強の宰相・原敬は
藩閥政治の元凶・山県閥をどう倒したか①
<民主党は100年前の大正政変・大正デモクラシーを見習え>
 
前坂俊之(ジャーナリスト)
 
 
   原敬と鳩山和夫(鳩山由紀夫の曽祖父)は同じ年だが、政治力は雲泥の差があった
   原敬は大正政変によって、明治の藩閥政治に終止符を打って、政党政治を確立した。
   原敬は日本を滅ぼす原因の1つの軍部大臣現役武官制を廃止し、文官の軍部大臣を実現した。ワシントン軍縮会議も成功させた。統帥権をふりまわして、政治を聾断しようとした軍部をしっかり抑えた。
④ 外交面で、国際協調主義をとったこと。シベリア出兵には反対し、米国重視、中国への不干渉と通商貿易を重視した。パリ講和会議では人種差別撤廃法案を提案した。
⑤ 原敬の確立した政友会政治が昭和戦後の自民党に連綿と続いた。民主党はこれに終止符を打ったかと思われたが、鳩山由紀夫、小沢一郎(原と同じく岩手県の出身)の「2世、4世の世襲議員」が実力(世襲のために、金とカンバン、地盤はあってもリーダーシップがない)がないために、政治、官僚の旧体制を変えることに失敗した。野田もオナジである。

以下は服部之総1901(明治34年)―1956年(昭和31年))の「原敬百歳 朝日新聞社 1955 (朝日文化手帖)」である。

次の総選挙では民主党の少数転落、自民党も伸びず、既成政党への強烈な不満、日本政治の質的大転換を期待して、橋下維新党が大躍進するであろう。しかし、維新党は1年生議員の集団で変革のノ―ハウは全くない。

少数弱体政権の混乱が日本衰退に拍車をかけるだろう。日本政治の大変革、政治システムの大改革なくしては日本沈没まにがれない。その起爆剤は市民の民主的な政治意識の成熟度以外にはありえない。原敬の政治突破力を背景には大正デモクラシーの高まりが、彼を強力に押したのである。


服部之総の『原敬百歳』
 
 原敬が生きていたらこの二月九日、百歳の誕生祝をする勘定である。
(1858年(安政三)年、盛岡城外本宮村の、南部藩本番組・原直治の次男としてうまれ、1921年(大正10)年十二月、かぞえ年六十六歳で暗殺された。
 
原敬の名は「さとし」ではなく「たかし」と読むのである。ちかごろ人に教えられて鳩山一郎氏(鳩山由紀夫の祖父)の「余の尊敬する五大政治家-わが読史余論」(「改造」昭和二十六年二月号)という1文を読んでいると、「原敬先生は……私の父和夫と同齢で、私の父よりも二ヵ月ばかり先輩であった。さとしと読むのが正しい呼び名である。」
とわざわざ力点がつけてある。どうやらこの文章あたりが敬の典拠でもあろうか?
さとしが間違いでたかしが正しい呼び名であることは、原敬当時の腰越別荘いまの原奎一郎氏宅は、私の家からバスで十分ほどの距離だから、あるお天気のよい午後ききにいって、たしかめてきたことである。
 
 そのおりいろいろ見聞するところがあった。本稿を思い立ったゆえんでもある、か、さしむき名刺のことを書いておこう。
 
一八八五-一八八九(明治18-22)年のあしかけ四年は、原敬のパリ公使館在勤時代であるが、そのころの遺品でボアソナードの名刺一枚と、原敬自身の名刺一枚がのこっている。原の名刺は、
   Takashi  Hara
  Secretaire de la  Legation du Japon
 鳩山一郎氏が「日本民主党」総裁に就任したのは去冬。来書いている今朝は一九五四年十二月のはじめだからついこのあいだの十一月二十四日のことである。それにつけて思い合わされるのは、『原敬日記』にでてくる大先人鳩山和夫のことである。
 
「夜鳩山和夫来訪、過日岡崎邦輔、望月右内と内談せしも、猶は余と親しく将来を協議せんが為めなり、困て余は同人と共に外務省に居りたる事もあり政党関係を離れて談話せんと云ひたれは、彼も然らん事を望むと云ふに付
 
、進歩党に於ける彼の位地より彼は常に党中異分子と看倣さるし事、彼れの為めにも得策ならず、父大石、犬養等は常に政界の観測を誤り、常に逆境に陥る事を免かれざる事実を説き、寧ろ政友会に投ずる事、彼の為めに利益なり、政友会は決して異分子を忌まず此際決心を要すとの趣旨を友誼的に勧告せしに、
 
彼はやや決心する所ある趣にて、其心情を内話せし所によれば、彼は改革派と歩調を一にして犬養を放逐せんと企てたるも、犬養は之を察知して進んで改革派の希望を容れたれは、今日分裂を免かれ居るものなり、将来は彼の一派を率て独立し他日政友会に投ずる意思あり、其党与は二十名己上あらんと云ふに付……」
 
 1907年(明治四十)三月四日の記事である。そのとき原敬は第一次西園寺内閣の内務大臣で、すでに政友会のデファクトの党首であった。戦時中から桂太郎とのあいだで了解をとげ、筋書どおり西園寺内閣に初のタライをまわさせ、原敬が初の内務大臣に就任したのは、明治三十九年正月のことである。
 
原敬の抜群のスピード政治力(決断と実行)
 
警視庁がそれまで総理大臣と内務大臣の両属であったのを内務大臣専属にあらため、月給がクエン(九円)=食えん =と歌われていた巡査の俸給を一躍十二円に上げ、抜く手も見せず地方官大移動を発表して、くさりきった内務人事を刷新しながら、山県有朋が二十年つちかった「大御所」の大権力機構をいっそう集中化し、新鮮化した内容で、そっくり手中に収めるのに原敬はわずか七カ月を要しただけであった。
 
 
 このときから死ぬ日まで原敬のあの巧妙自在なたたかいー山県にとっては手も足も出ぬたたかいがつづくのだが、大方の原敬評伝は、それをもって原敬が「民主主義者」だった証拠とする。「平民宰相」という誤った冠詞も、この誤った評価と無関係ではない。
 
 今日、『原敬日記』全巻を精読してみたまえ、原敬に民主主義者だった痕跡は、爪の垢ほどもない。かれは、民主主義者として偉大だったのではなく、「太政官政府」いらいの絶対主義者山県有朋の両手から、警察および軍部という二大権力機構の指揮権をそっくりうばいとったところの新絶対主義者-帝国主義段階の絶対主義者として、偉大だったのである。
 
 政党内閣をぜったいに認めようとしなかった山県にたいして、原敬は明治三十九(1906)年から大正十(1921)年にいたる十六年の闘争を通じて、名実兼備わった日本さいしょの政党内閣を、ついにつくりあげた。「日本さいしょの政党内閣」は明治三十一年の隈板内閣だったとすべての憲政史にうたってあるが、あれは「隈板内閣」であって憲政党-犬猿のあいだがらなる板垣自由党と大隈進歩党が合体した「憲政党」の内閣ではなかった。
 
組閣大命は伯爵大隈重信と伯爵板垣退助の両個人に降ったのであり、軍部大臣桂太郎と西郷従道は勅命によって入閣したのである。
これにたいして大正七年の原内閣は、名実ともに政友会総裁原敬が組閣した。陸軍大臣田中義一と海軍大臣加藤友三郎は政友会員ではなかったが、山県有朋のこぶんではなくすでに原敬のこぶんであった。
 
 なぜ原敬にそれができたか?
 そのはなしはわたしの「明治の政治家たち(原敬につらなる人々)」にゆすって、原敬が政党政治を理想としてもっていたからそれができたのだ-という通説にたいして言ってみるならば、原敬が政党政治を手段として駆使したからそれができたと、こたえることができる。ところで、第一次西園寺内閣の与党政友会は、絶対過半数には足りなかった。山県の声がかりで、大浦兼武が番頭で操っていた大同倶楽部もとの帝国党が、桂=原了解事項の線上で準与党としてうごいていたあいだは、憲政本党=もとの進歩党=もとの改進党は、手も足もでなかった。
 
 内相就任一年めに原が提出した都制廃止案は、積年の山県内務人事の最下部機構を原式に奪取するための、長期戦略であった。
たまりかねた山県、大浦が大同倶楽部と貴族院に号令して反撃に転じたとき、隈板内閣瓦解いらいひやめしをくいつづけてきた進歩党が二つに割れて、それも政友会の「原=松田」にたいして「大石=犬養」とうたわれてきた主流コンビが分裂して、大石以下の「改革派」はあの機敏な犬養毅があっというまに大隈総理を弊履のごとく追出して、大同倶楽部とともに新党をつくろうと目論んだ。原敬は闘志をもやし轟手段をえらはず大同倶楽部・進歩党のからめ手を攻略した。暮夜ひそかに、二十余名の手勢を土産に、進歩党領袖鳩山和夫が原内相私邸を訪れたのは、そのけっかと知れる。
 
鳩山和夫とは原は外務省に共にいた
 
法学博士早稲田大学長鳩山和夫は美作国勝山藩士(岡山県内)鳩山博房の四男、幼にして穎悟、大学南校を出て米国に留学を命ぜられ、明治十三年帰朝して東京大学講師となる。十五年罷めて代言人となり東京代言人組合長に推され、東京府会議員となる。

 十八年再転して鹿鳴館の主人井上馨の外務省に入り、権大書記官取調局長となる。「余は同人と共に外務省に居りたる事もあり」というのはこの年のことをさしているのである。
 
その年十月、原敬はパリ公使館に赴任してさきの名刺の主人となる。翌十九年鳩山は翻訳局長に転じたらしい、或は取調局が翻訳局と名を変えたのかもしれぬ。小村寿太郎の伝記を見ると、小村は十九年三月、翻訳局長鳩山の下に次長となっている。長男一郎は、宿望の総理大臣になって今朝の新聞が改めて載せた略歴によると明治十六年生れとあるから、そのころ三、四歳の可愛盛りである。

 その年外務省を罷めて東京法科大学教授に転じ、二十一年法学博士、二十三年辞職してまた弁護士となる。二十五年衆議院に東京から選出され改進党にはいる。三十年衆議院議長、三十一年隈坂内閣外務次官。その後早稲田大学長弁護士進歩党領袖としてその夜にいたる。
 
 
鳩山和夫が政友会に鞍替えすることを原敬に申し込む

「……其党与は二十名己上あらんと云ふに付、余は他日にては政友会の感情は如何あらん、明年の総選挙を見込んで入会するが如き外観あらは、彼入会後重をなさず、寧ろ此際入会して政友会を過半数たらしめる事は政友会の為めにも彼の為めにも得策なりと云ひたれは、彼れは然らば何か問題を見付けて断然投会せん、
 
さりながら何分にもさる問題目下之なきを憾む、実は……と物語れり。余を訪問する事は腹心の老(福井三郎、田村維昌其他二名)には漏らし置きたり、之には諮らざるべからすと、又彼の腹心の者は入閣の成否を問ふならん、其辺は如何と云ふに付、夫れは今日約束する事は出来得ず、又約したりとて其実行は如何あらん、共時の事情にては如何ともする事能はざる訳なり、去りながら君も余も政党に入らずとも内閣に入るべき資格は之ありたるものなり、他日決して望みなき事にあらず、只之を内約する事は今日に於て出来得ざる訳なりと云ひたれは、彼も其事情を諒して帰れり、要するに彼は到底進歩党に在りては将来の望なきを悟り内心多少決するものゝ如くなりき」

『原敬日記』中、鳩山和夫に関する記事はこれをいれて四ヵ所ある。二度めはこの年十一月四日、「鳩山和夫内々にて会見を求め来りしにより面会せしに……」以下、

 
三度めは翌明治四十一年一月十八日、「此日鳩山和夫進歩党を脱して政友会に入会せり……」以下。
 
最終は明治四十四年十月三日、「鳩山和夫今春来病気なりしが今朝死亡せり。彼も病気ならずば或は入閣をもなしたるならん、惜むべき事なり、午後弔問したり、未亡人具に臨終の情況を物語り且つ遺骸をも一覧せり」。

 田口卯吾の『大日本人名辞書』増補頁には、「尋で同(早稲田)大学長と為り四十二年に至りて罷む、晩年進歩党を脱し政友会に入る時、人之を異む爾来意気旧時の如くならず四十四年十月三日病で卒す享年五十六」とある。

山県閥と死闘を演じて勝利した原敬の政治力は歴代ナンバーワン
 

 鳩山一郎「余の尊敬する五大政治家」 に戻ると、「私が明治四十年の春東大を卒業して、父と同じ弁護士になると同時に、東京市会入りをした頃、先生(原敬)は第一次西園寺内閣の内務大臣として、あの郡制廃止法案をひっさげ、当時の朝野をおさえていた山県有朋会二系のいわゆる官僚諸氏と、まったく火の出るような議会闘争に没頭していた。
 
先生ときに五十一、二、実に英気諷爽、人物の放つ光輝が四辺にまばゆきばかりの頃であった」
 ついでにしるす。「余の尊敬する五大政治家」は、原敬、ウイルソン、クレマンソー、ビスマルクおよびチャーチルであった。この一文は、『私の自叙伝』に収録されているはずである。
政友会入党後の鳩山和夫の晩年が「意気旧の如くでなかった」のは、かれが見棄てた進歩党に、ほげしい復活の気合がかかったためでもある。さきに触れた明治四十一年の進歩党「改革派」事件は、山県、大浦の大同倶楽部と一緒に桂新党をつくろうとする筋書だったが、原敬の1押しで流産してしまった。この妨害の作者は山県でなく桂でなく、大三菱の政治係豊川良平であったから、原もなかなかの苦戦である。
 
こんどは明治四十三年三月、第二次桂内閣の第二十七議会のさなか、絶対多数を擁する政友会にたいする非政友各派大合同が成功して、「立憲国民党」がうま
れた。れいの「改革派」を先頭とする進歩党の全勢力が中心になり、自由進歩両党のはみだし名士の寄合だった又新会(河野広中、島田三郎)と無名会(坂本金弥)、御用党別派戊申倶楽部(中村弥六)、以上四派合計七十名の勢力で、農商務大臣大浦兼武の手兵中央倶楽部(旧帝国党=大同倶楽部の直系)は、満を持して待機の姿勢をとった。
 
 このときの立憲国民党宣言書は、いま読んでちょっと興味がある。日く軍備一新、日く人口問題のための外政刷新-MSA軍備の完成と憲法改正を大呼しつつ吉田内閣打倒の名乗をあげている、先年の芦田・鳩山の航跡そっくりではないか。この勇ましい名乗に耳をそばだてる相手がすこしちがっていただけで、当年の聴手は大三菱と、軍隊警察の旧元締のお歴々だったというわけである。
 
絶対多数の原敬政友会の背後には、財閥では三井・住友・古河、加えて原敬自身が、さいしょの大臣(明治三十三年伊藤内閣逓信大臣)をやめたときから銀行家の経歴を身につけていたことを忘れてはなるまい(北浜銀行頭取)。
 
内務省にはもう抜くべからざる勢力をうえつけている。その末端では、毛細管現象のように、全国の実力派地主土豪が、原敬政友会の血肉となって絡んでいるのである。
 
武者ぶるいした原敬は、無言で、絶対多数の大だんびらに、そりをうたせた。
狐のような桂はー後世の政治家で桂に肉薄したものは、吉田ただひとりであるがー「時機がわるい」と感悟した。そこで、新党劇の大詰の揚幕うらからやにわに奈落へひきかえし、くらいところで西園寺をだまして(だましたと彼は考えた)、やおら舞台に出て政友会との「情意投合」を発表した。「立憲国民党」の作者演出者は舌うちをしたが、そんなことであきらるようなやつではなかった。
 
それは明治四十四年二月二十九日の出来事であった。この年十月に死んでいる鳩山和夫が、政友会に走っていらい意気あがらなかった理由はざっとそんなものであろう。
  明治大正の代替りにさいしていったん宮中に入った桂が、とたんに出て第三次桂内閣を組織したのを、桂のあくなき権力欲と見ることは、そのことにまちがいはないが、なんの説明にもならぬ。明治四十一年いらいの座附作者にとっては、こんどこそいわゆる三度めの勝負にあたっていたのだ。
 
 世論のごうごうたる非難を尻目に、組閣後一カ月め桂新党覚書が発表された。国民党は二つにわれて、往年の改革非改革の因縁を再演し、政友会と国民党非改革派および無所属有志二百九十九名の内閣不信任案が上程され、尾崎行雄の有名な弾劾演説がぶたれたあと、反対演説をしたのは島田三郎であった。
その三日のち、桂新党「立憲同志会」が、九十余名の願頭をならべ、「なんら主義政見なくして組織」された。(植原悦二郎『日本民権発達史』)
 
 あの尾崎演説が桂内閣にとどめをさしたというのは伝説であって、伝説が含む真理の含有率しかもってはいない。立憲同志会創立委員長桂太郎ほ、立憲政友会総裁に就任した日の伊藤博文と同じ自得の絶頂にいた。
 
 明治十年代の絶対主義に抵抗しっつ生れた人民の栄誉の自由党を売って、大権に隷従する「総裁絶対主義」の政友会をつくらせた作者演出者は、終世日本ブルジョアジーの弁護士だった「怪傑」星亨であった。

そもそもの自由党は若き日の日本ブルジョアジーが、農民と全人民の自由のために起ち上ったという点だけで、後世の日本共産党に対比さるべきものであり、事実当年の岩倉、伊藤、山県の太政官政府は、「火つけ強盗自由党」の合言葉をまきちらし、加波山、群馬事件、秩父事件、飯田、名古屋、静岡事件のあの純一な政治犯被告たちを、ことごとく殺人、強盗、放火犯をもって処置してしまった。

 
 ブルジョアジーの自由民権にはある限度が厳存して、ある段階とりわけ帝国主義時代にいりこむや、ことごとく人民をうらぎって昨日までの敵旧権力と握手する。怪傑星亨はその良心において、階級としての日本ブルショアジーをけっしてうらざらなかったのである。
 
 さてそのようにそもそもの自由党が共産党だったとすると、そもそもの改進党は、「吾党は自由党の過激をこのまない財産家・学者・老成家を網羅し、別働隊を組織して、他日会同一致の素地をつくる」(結党式上の副総理河野敏鎌の演舌)と称した改進党は、社会党と異るところただ一点、「一線を画し」ながら「画す」といい切らなかった点にあるだろう。

そのようないわれの改進党=進歩党=憲政本党=立憲国民党を、あの自由党=憲政党=政友会のひそみにならって、六年越しの苦心さんたんのすえ、桂立憲同志会に仕立直した作者演出者は、豊川良平、大石正巳であった。星とちがってうごきが陰性だから、初耳のような気がするかもしれぬ。
                    
                                                                 つづく

 

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