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 片野 勧の衝撃レポート⑤「戦争と平和」の戦後史⑤『八高線転覆事故と買い出し』死者184人という史上最大の事故(上)

      2016/11/22

「戦争と平和」の戦後史⑤

  片野 勧(フリージャーナリスト)

八高線転覆事故と買い出し ■死者184人という史上最大の事故(上)

 

8・15。終戦直後の大変な食糧難の中で買い出しのための殺人的な混雑の列車を見たというような経験話を直接、聞ける機会もほとんどなくなった。

当時、20歳の人で、生きておれば、現在90歳以上。しかし、そうした方々は亡くなっていたり、高齢のために話ができなかったりと、取材が難しいからである。

 

しかも、わたくしは現在、フリーの立場であり、伝手(つて)もない。取材の当てもない。そんな状況の中で、八高線の買い出し列車の転覆事故を体験した人を探し出すのは至難の業。

 

そこで、出たとこ勝負で「八高線買い出し列車転覆事故」の周辺を徹底的に歩くしかないだろうと思って、自宅のある立川市から車を走らせた。2016年9月2日――。まず、訪ねた先は日高市立図書館へ。

ここで担当者にお願いして、八高線の買い出し列車転覆事故に関する資料を出してもらった。『埼玉県史』(埼玉県)や『日高市史』(日高市)、『図説 埼玉県の歴史』(河出書房新社)、久保田博『鉄道重大事故の歴史』(グランプリ出版)など5、6冊。  八高線列車転覆事故の概略について。『埼玉県史』にはこう書かれている。

「昭和22年(1947)2月25日午前7時50分ごろ、入間郡高麗(こま)川(がわ)村(日高市)大字上鹿山の国鉄八高線東飯能―高麗川間で下り高崎行き列車(6両編成)が脱線して転覆、死者184人、重軽傷者497人を出すという、当時としては国鉄はじまって以来の大事故が発生した。

事故が起きた場所は下りの急坂で「魔のカーブ」と呼ばれる地点で、2両目と3両目の連結器がはずれて後部4両が脱線、3・4・5両目の3車両が約5メートルの土手下に転落、6両目は転落をまぬかれたものの線路わきに横倒しになって大破した」 戦後はヤミ米運搬路となっていた  八高線は東京・八王子と群馬県高崎を結ぶ線路で戦前は軍事目的に利用された高崎線迂回路だった。戦後は埼玉、群馬両県の米どころと東京の消費地を結ぶヤミ米運搬路となっていた。そのために、「ヤミ列車」。あるいは「買い出し列車」と呼ばれていた。

 

事故を起こした八高線の列車は、農家へ米や甘藷、馬鈴薯などを買い出しに行く人々で超満員。定員の約4倍の2000人以上がデッキなどに鈴なりの状態で乗っていた。ひしめき合って、押しつぶされそうな混雑ぶり。そこへ悪いことに、当時の列車は木造客車のきゃしゃな構造になっており、それが一層、事故を大きく悲惨なものにした、と言われている。

食糧の買い出しには自分自身のために行うものと、闇ブローカーとして行うものの2種があった。とくに東京は食糧事情が悪化していたので、鉄道の沿線に買い出し人が殺到した。そんな真っただ中で起こったのが、戦後鉄道史上最大の事故と言われた「八高線買い出し列車転覆事故」――。

それから70年を迎えようとしている今、遺族はどんな思いでいるのだろうか。私は図書館で調べた後、向かったのは八高線の高麗川駅(埼玉県日高市)。若い駅員に尋ねた。  ――終戦直後、この駅周辺で買い出し列車が脱線したといわれていますが、どのあたりかご存知ですか。

「何かお調べになっておられるのですね」

「はい」と言って、わたくしは取材の趣旨を伝えた。「そのことなら、車で5、6分のところに慰霊の碑が立っていますから」と言われて、その場所へ向かった。なるほど、5、6分、走ったあたりに、見えてきたのが「八高線事故慰霊碑」だった。

 

車を降りて、空を見上げると、入道雲がかかっていた。台風が過ぎ去った後の秋の気配が漂っていた。周辺の畑には梅の木が数本、植えられていた。慰霊碑には菊の花が2、3本、生けられていた。コップには水が供えられていた。 33回忌に建てられた慰霊碑

この慰霊碑が建てられたのは、33回忌に当たる昭和54年(1979)2月25日としるされていた。碑の裏には建てた遺族の名前が刻まれていた。わたくしは、この慰霊碑に合掌した後、脱線事故を目撃した人がいないかを探した。

慰霊碑から歩いて2、3分のところに小さな工場があった。「㈲西村鉄工」である。看板には「マシニングセンター NC旋盤加工」と書いてあった。

「事故を目撃した人ですか? それなら、うちの親父も当時、この近くに住んでいましたから、よく知っていますよ。今、病院にいますが、これから迎えに行きますので、少し待ってもらえますか」

30分ぐらい待っただろうか。「西村鉄工」の代表取締役の西村英樹さん(54)が帰ってこられた。車の助手席には父親も乗っていた。しかし、西村さんは車を降りるなり、「親父は痴ほう症が進んでいて、とても話ができる状態ではない。取材は無理だと思います」といった。

そこで私は「父親から聞いた話の範囲で結構ですから、お話を聞かせてください」と、お願いした。それなら、と言って西村さんは快く応じてくれた。

 

父親の名は西村惣吉さんという。昭和10年5月生まれというから、現在81歳。事故当時は小学5年だった。取材には惣吉さんの妻・スミさん(78)も加わった。英樹さんは言う。

「当時、住まいは線路の向こう側でしたが、朝、学校に行こうと思ったら、キーキーというものすごい金属音が響いていたそうです。

 

そしてドガーンと地響きがして、土煙が上がったと言っていました。また土手に上ってみたら、下の畑に客車が落ちていたそうです。線路にはタバコの箱が散乱しており、遺体も転がっていたそうです。土手の下にも転がっていたと言います。もう怖くなって、気を失いそうになったそうです」

 

近くにあった火の見ヤグラの半鐘が鳴った。半鐘とは火事などの異変を知らせるために、火の見ヤグラの上などに取り付けた小さい釣り鐘のこと。その半鐘の音は隣の飯能まで聞こえたという。  英樹さんの話は熱を帯びてきた。と、その時、母親のスミさんが「もう一人、この事故について、よく知っている人を呼びましょう」と言って、電話をする。「もしもし、八高線の事故のことで聞きたい人が来ているので、ちょっと来てくれる?」

 

数分もしないうちにワイシャツを着た年配の方がいらっしゃった。西村弘さん(82)である。弘さんは惣吉さんと同じ小学校に通う仲間だった。弘さんの話。

「私は小学校5年でした。線路の向こう側に住んでいて、学校へ行く途中でした。昔の蒸気機関車は石炭で燃やしていました。私たち学童は線路の向こう側で10人ぐらい、集まっていたんです。そして誰かが叫んだんです。『今日の客車と蒸気機関車は速いぞ!』って。よほど、スピードが出ていたのでしょうね。そのうちに、客車が倒れたんです。

 

直接、この目で見ましたよ。みんなも見ていました、でも、怖くて、見ていられなくて」  客車はすし詰めの超満員。沿線の農家へ食糧の買い出しに行く人々でごった返していた。高麗川駅まであと1キロという地点に来たとき、事故が起こった。急勾配の下り坂で、線路は急カーブだった。

「急カーブでスピードも出ていたので、遠心力のために連結器が壊れてしまったのでしょうね」

キーッ、キーッ、キーッ。線路と車輪がこすれるものすごい音。6両編成の列車のうち、後部4両がカーブから吹き飛んで築堤から転落。5メートル下の麦畑でバラバラに砕け散った。

さらに、もう一人の目撃証人―-。関根静江さん(77)もスミさんに呼ばれて、この取材の輪の中に入った。

 

関根さんは当時、小学1年(6歳)。関根さんの話。

「いつもは汽車がきても、止まんないで、学校へ行ったのに、その日に限って、虫が教えてくれたのか、汽車が来るのを友だちと2人で見ていました。そしたら、向こうから茶色っぽい砂煙を上げて、汽車が回転しながら来たんです。

 

直接、見ていて、怖くなって逃げようと思っても、足が動かない。転んでは起き、起きては転んで、やっと家に着いたの。その時は、家が本当に遠く、感じましたよ」

『人間記録 戦後民衆史』(毎日新聞社・1976年6月刊)という本がある。筆者は元毎日新聞特別委員で、現在「東京夢舞いマラソン実行委員会」理事長の大島幸夫さん(79)である。

大島さんは戦後30年目に当たる1975年、週刊誌『サンデー毎日』に年間企画として、「戦後民衆史の現場を行く」を35回にわたって連載。それを単行本化したのが、この本である。

この本に大島さんは「八高線買い出し列車転覆事故」のことも取り上げている。タイトルは「“魔の八高線”トリプル大惨事――血ぬられた鉄路」。ここに静江さんの父親のことも載っている。父の名前は関根源次郎さんといった。もう故人になられている。享年86歳。事故の一瞬を目撃している源次郎さんの証言。

 

「牛舎に油を差していたら、キ、キ、キーッと鉄がすれる音がして、その直後、耳をつんざくほどの音が聞こえた。振り返ると、あたり一面の砂煙で、土手を何人もの人が転げ落ちるのが見えたんです。あんまりスゴイ砂煙に、最初は、あっ、火事だッと思いましたね」

 

源次郎さんは真っ先に現場に飛んでいった。列車が横転していた。車体が逆さになって、木造部がバラバラになってしまっている車両もあった。車体の下敷きとなった乗客は何人いたか分からない。とにかく大変な人数だ。悲鳴。うめき。下敷きとなった乗客のうごめきに、車体までがうごめいている感じさえあった、という(大島幸夫『前掲書』)。

 - 人物研究, 現代史研究

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