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日本リーダーパワー史(384)児玉源太郎伝(6)インテリジェンスから見た日露戦争ー川上操六の活躍」

      2016/03/05

  日本リーダーパワー史(384

児玉源太郎伝(6

  5年後に明治維新(1858年)から150年を迎える。1819世紀の欧米各国によるグローバリズム(帝国主義、植民地主義)に対して、『明治の奇跡』を興して、軒並み植民地化されたアジア、中東、アフリカの有色人種各国の中で、唯一独立を守り通したのが<明治日本>なのである。

  世界的歴史家のHG・ウエルズヤアーノルド・トインビーは『明治日本の躍進は世界史の奇跡である』として賞賛しているが、肝心の日本は自国の歴史を知らず、自画像を喪失している情況である。

  <明治の奇跡>が<昭和の亡国>に転落していく<日本の悲劇>のダイナミズムを知らずして、明日の日本、未来像は見えてこない。

 

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

「インテリジェンスから見た日露戦争」

 

戦争勝敗は偶然ではなく、「戦略論」「インテリジェンス」によって決まります。「小が大をやぶる」必勝策が戦略、インテリジェンス論です。「インテリジェンス」の基本は余の東西を問わない。「敵を知り、己を知れば百戦危うからず」(孫子の兵法)によって「日清・日露戦争」はかろうじて勝ったのであり、太平洋戦争では「敵を知らず、己を知らざれば百戦百敗」。惨敗につぐ惨敗で、世界史に例のないくらいの完敗を喫したのです。

開国してわずか30年、日本人には最も苦手な『戦略思想』「国家戦略プロジェクト」を組立て、敢然と実施した戦略家がいたことが「坂の上の雲」の奇跡を生んだのです。この十数年間の決められない政治家のリーダーシップの欠落と経済沈滞を体験した者には身をもって感じることです。国が興るも亡ぶもトップリーダーのインテリジェンスにかかっているのです。

その意味で日清、日露戦争での『インテリジェンス』は誰によって構築されたのか。『日清戦争は川上操六が起こした戦争』であり、『日露戦争は児玉源太郎よって辛うじて勝った』といって過言でない。

 

もともと、明治天皇は「日清戦争は朕の戦争にあらず」と開戦に反対の意向をもっており、日露戦争でも敗戦を危ぶみ最後まで外交交渉に望みをかけて開戦の詔勅を遅らせたほどです。

当時の政治家、軍人、国民の多くはアジア第一の強国中国、世界の一の軍事超大国ロシアを勝てるはずがないと『恐露病』にかかっており、世界の見方もそうであった。

では、日本になかった「戦略思想」はどのようにして生まれたのかー

そのためには、明治初期の日本軍の編成はどうだったをかんがえねばならない。鎮台(ちんだい)という名前のしめす通り、国内の内乱を鎮めるのが主目的だった。
しかし、西南戦争(明治10年)を最後に内乱はなくなった。逆に大陸に出兵させる危機は年ごとに増大、ロシアは虎視眈眈(こしたんたん)と満州、朝鮮を狙っている。朝鮮が脅かされれば日本の横腹にドスをつきつけられた形となり、鎮台から機動本位の師団編制が急務となった。 
陸軍は幕府以来のフランスの陸軍将校を顧問として、着々兵制の建設を行なってきたが、明治16年(1883)にドイツ式に一挙に切り替えた。

なぜか。江戸末期のころのヨーロッパはナポレオンの天下である。ヨーロッパ全土を支配下におさめフランス大帝国を一代で築き上げたのがナポレオンである。その作戦指揮は、天才的なヒラメキ、戦術で天馬の空を駆けて行くように臨機応変に指揮して連戦連勝した。

しかし、軍事的天才のワンマンプレーなので、ナポレオンに何かあった場合はすべて国家もともに滅んでしまう。 このナポレオンの英雄的、「一人の天才」の戦略に対して、「凡人の集団」で分担していく参謀本部を作り上げたのがプロシアの大モルトケで、普仏戦争1870年、明治2年)で、ナポレオン3世をやぶり、大ドイツ帝国を築き、一躍世界の注目を浴びた。

モルトケの戦略は①鉄道を利用で馬車よりもスピーディーに大量の兵員、軍需物資を輸送②電信(有線電話、無線通信)による情報通信の活用③情報将校を敵地に送り込み敵状偵察、地図の作成、情報収集④開戦前までに用意周到な作戦計画の練り直す⑤銃砲火器の開発と精度の向上で、これに歩兵砲兵を一体化した。

 

兵站、ロジスティックス、これらを統合したシステマチックな作戦計画を参謀が策定するため優秀な参謀本部を国軍の中軸に設置して、総合的な戦略立案に当たるのがモルトケ参謀総長の戦略で、現代の組織論、近代マネージメントの基礎となった。

日本陸軍大改革のため明治17年2月、大山厳陸軍卿(陸相)は、桂太郎、川上操六ほか俊英17人を引き連れて、ヨーロッパ各国、世界中を1年かけて回った。この視察で①将来の陸軍の編成、軍政の研究②部隊の演習の実地調査③最新の軍事知識の吸収④ドイツから陸軍大学教官の1人派遣してもらうーことなどで、ドイツ参謀総長モルトケの推薦で参謀少佐クレメンス・ウィルヘルム・ヤコブ・メッケル(42歳)を日本に招致した。

メッケル小佐は陸軍大学校の教官として明治181月に来日した。この時の日本陸軍は総兵数はわずか三〇三四二人で、これを、兵力百万を超え世界一の陸軍大国・ロシアと戦うことのできる陸軍に20年後に育て上げていくために、思い切ってドイツモルトケ戦略に切り替えたのが桂(軍政)、川上(参謀本部)、児玉(陸軍大学校校長)の俊英コンビであった。

桂、川上は少佐で同年齢の36歳、児玉はその後輩に当たり32歳。

ドイツ視察で川上ははじめてモルトケに会い、ドイツ参謀本部の組織に驚嘆した。当時、日本では参謀部は陸軍省の一部にすぎず、内乱用だけであるかないかわからないような存在だった。ドイツ参謀本部の組織は第一総務課、第二情報課、第三鉄道課、第四兵史課、第五地理統計課、第六測量課、第七図書課、第八図案課まできちんと整備され、常時、情報の収集と分析を怠らず、いざ戦争となれば百万の軍隊がたちどころに動員できる体制が整っていた。
川上はヨーロッパから帰国すると少将に昇進、参謀次長になり、明治201月、モルトケ戦略を徹底して研究するよう乃木希典と2人でドイツ留学を命じられた。

モルトケはこの時、86歳だったが、30年以上も参謀総長の要職にあり、世界の軍事界の頂点に君臨していた。川上は38歳で、約50歳もの年齢差があったが、ひ孫を相手に噛んで含めるように「参謀本部の組織は絶対秘密だが、極東の日本とドイツがまさか戦争することはあるまいから、例外として奥儀まで教えてあげよう」と受け入れたのである。

モルトケは自邸に川上を招いて講義することもあり、いつも講義の最後は、「はじめに熟慮。おわりは断行」と戦略の要諦を教えた。

ドイツ滞在一年有半。モルトケ戦略を徹底して学んだ川上は帰国後、参謀次長に再任され、ドイツ流に参謀本部の近代化に取組んだ。

  まず陸軍の門戸開放し、軍を牛耳っていた薩長藩閥以外からも幅広く優秀な人材を参謀に集めた。田村怡与造(山梨出身、川上の後継者、後の参謀本部次長)、シベリア単騎横断の福島安正(長野、世界的な情報参謀)、維新の賊軍仙台藩の出身で陸軍大学一期生成績トップの英才の東条英教(東條英機の父)、宇垣一成(岡山出身、後の陸相)、田中義一(ロシアに派遣し、第一のロシア通の情報参謀に育てた、のちの陸相、首相)明石元二郎(日露戦争で「明石工作」の活躍でロシア革命に火をつけた世界な大スパイ)ら川上の薫陶を得ない者はなかった。

 

  情報課を設置し、金を惜しまず、外国情報を収集し、外務省以上に世界情勢に精通した。数多くの情報部員(当時は軍事探偵)を大陸に派遣した。そのリーダー役が明治23年に上海に日清貿易研究所を設立し大陸工作を裏で支えた荒尾精だが、川上の第一の子分である。同研究所の設置費用に川上は私財を担保に資金を提供し、清国中を情報を収集させた。これが4年後の日清戦争の際には、大いに役立った。

  

  明治30年、対露戦争に備えてウラジオストックに本願寺別院を建立して僧侶に化けた花田仲之助(参謀部員)を派遣した。シベリア、満州、蒙古まで布教と称して偵察させた。花田は日露戦争では満州義軍を編成して、ゲリラ部隊隊長として活躍した。そのほか、海軍の広瀬武夫、八代六郎らモ含めて川上の息のかからぬものはなかった。

 

  モルトケの参謀本部は第三に鉄道課をおいたが、川上も兵站と輸送を重視し、鉄道の普及こそ大部隊の大陸に送り込むには絶対必要と力を入れた。明治2510月に全国鉄道会議議長に川上が就任し鉄道レール延長に国を上げて取り組んだ。

児玉が中心となって明治23年に広島宇品港に軍港を築港し、大陸へ大兵力を送り出すことになった27年春、日清戦争が風雲急を告げると、神戸から糸崎まで開通していた山陽鉄道(当時は私鉄)を広島、宇品まで伸ばす必要があり、児玉は山陽鉄道取締役・荘田平五郎(三菱幹事)に秘密裏にハッパをかけて昼夜の突貫工事で明治276月に開通、日清戦争開戦に間に合にあわせた。

  

  宇品から大部隊を朝鮮に輸送するには大型船が不可欠のため、日本郵船(近藤簾平社長)に相談して相談して、清国兵を上回る大島部隊8000人を釜山に電光石火に送り込んだ。

 

  地理統計、測量課を設置し、清国、朝鮮の戦場予想地域には情報部員を送り込んで 密かに測量し、二十万分一縮尺の地図を作った。日露戦争でのロシア側のお粗末な地図とは違って何倍も精密なものであった。

  

  モルトケはひまさえあれば敵前視察して自らも情報収集、戦略作成をしたが、川上も日清戦争1年前の明治二十六年四月、参謀本部部下の(伊知地幸介、田村怡与造柴 五郎らを随えて朝鮮、満州に旅立った。

清国、朝鮮とも鉄道が未整備で、大型船もなく、ロジスティクス(輸送網)のがないのをみてとり「支那の軍隊など全く恐るにたらん、足のない兵隊など動けない」と勝利を確信していた。この時、日清戦争で戦うことになる袁世凱にも会見したが袁世凱は「川上将軍は一世の人傑なり」と李鴻章に報告している。

 

  川上は自らの後継者に田村を決めていた。ドイツで『クラウゼビッツの戦略論』を学んだ田村に日本流に消化した歩兵法操転法をもまとめさせて、これを日清戦争で使ったのである。

  

モルトケの要諦は「はじめに熟慮。おわりは断行」だが、川上は文字通りにこれを実行し、開戦前までに徹底して調査、研究、準備し、機先を制して開戦、先制攻撃で断固実行して行為しており、これがその後の日本陸軍の作戦となったのである。

                                       つづく

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