前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

『リーダーシップの日本近現代史』(244)/記事再録★『日本の「戦略思想不在の歴史⑮」ペリー来航45年前に起きたイギリス東洋艦隊の「フェートン号」の長崎港への不法入港事件」★『ヨーロッパでのナポレオンの戦争の余波が<鎖国日本>にも及んできた』

   

 

記事再録  「 日本外交史➀(幕末外交)」などによると、

1808年10月4日(文化5年8月15日)朝、長崎奉行の松平庚秀は、「ドーン」「ドーン」という二発の大砲声に目を覚ました。

与力の林三英が慌てふためいて「エゲレス(イギリス)船が、オランダ商館を攻撃しています」と告げにきた。当時のヨーロッパにおけるナポレオンの戦争の余波が極東の日本にも及んできた事件であった。

 当時のヨーロッパはフランスのナポレオン皇帝の全盛期。1793年、ナポレオンはオランダを占領し、オランダ国王のウイレム5世はイギリスに亡命した。

その後、オランダは革命派が支配していたが、1806年にはナポレオンの弟ルイ・ボナパルがオランダ国王に就任し、フランスによるオランダ王国(ホラント王国)が誕生した。海外のオランダ植民地はフランスの影響下に置かれた。

しかし、このオランダ敗北については『阿蘭陀風説書』でも日本側に知らされていなかった。

1808年5月、ナポレオン皇帝率いるフランス軍はスペイン侵入し、ポルトガルにも進撃してイベリア半島全域を占領する勢いをみせた。

イギリスは1803年からフランスと戦争状態で、亡命してきたオランダ国王は海外植民地の接収を英国に依頼した。

しかし、オランダ東インド会社にあるバタヴィア(現ジャカルタ)はフランスの支配下の植民地となったため、旧オランダ貿易商たちは中立国のアメリカ船を雇って長崎との貿易を続けていた。

一方、イギリス東洋艦隊は南インドからアモイに至る海面でのオランダ植民地を占領、封鎖し、航行中のオランダ艦船を追跡し次々に捕獲していた。

このため、イギリス東洋艦隊の「フェートン号」は早朝、日本の官憲を欺くため、オランダ国旗を掲揚して長崎港外に入港した。

フェートン号は出島の奉行所検使の乗艇が同艦に接近するや、端艇をおろして検使の乗艇に近づき、オランダ商館員二名を抑留し本船に引揚げた。

奉行の松平康秀は驚いて、なすところを知らなかった。とりあえず当年の警備当番であった肥前藩の聞役に異国船渡来変事を伝達、さらに長崎奉行の職権によって、薩州、筑前、肥前、肥後、長州、対馬、平戸、大村、小倉など長崎にいた十四藩の聞役を召集し、異国船打ち払い令による早便を出して急を伝え、守備兵を集めるように命じ、長崎の町は大騒ぎになった。

「フェートン号」の海兵隊員は、長崎港内、オランダ商館などを捜索したが、オランダ商船が停泊していないことを確認した。

 奉行の松平康秀は、通訳を連れてフェーント船に乗り込んでペリュウ艦長と談判したが「日本と事を構えない。薪と水と食糧を補給しくれれば日本と闘う気はない」ことがわかった。

 

松平康秀はさらに、拉致されたオランダ商館員2人の釈放を求めたが、拒否された。そのため、イギリス側の要求に応じ、薪、水、食糧をフェーントン号に運び込んで、それと引き換えにオランダ人2人が釈放された。17日にフェーントン号は長崎港を去った。衝突、実際の被害はなかった。

結局、オランダ人2人が釈放された段階で、松平はフェートン号を襲撃、焼き討ちを実行しようとしたが、文化5年の年番だった肥前藩はオランダ船が渡航してこなかったこと、経費節減のため守傭兵をすでに撤退させていたことにより、松平奉行の命令にも対応できず、長崎守備兵全部を合わせても、フェートン号の乗員に及ばない。

同号は巨大大砲を六門を備えているとの情報で、勝ち目はないと判断しオランダ商館長ドユーフの助言もあり、同艦への焼き討ち攻撃を見送った。

フェートン号の出発後、肥前国の大村藩の大隊をはじめ、筑前、肥前両藩の派遣軍などが到着したが、間に合わなかった。

十七日夜、長崎奉行松平図書頭は「エゲレス艦の不法侵入に対して、なすすべもなかった」と五ヵ条からなる結末書を書いて自刃した。

幕府は鍋島藩家老も切腹、また警備の年番であった佐賀藩の藩士16名も切腹、佐賀藩主の「鍋島斉直」も処分した。

この事件で鎖国の祖法を守り、「海の守り」「防衛能力ゼロ」の「徳川鎖国日本」の姿が改めて露呈され、イギリス船、ロシア船などが頻繁に来航してきた。

このため、幕府は、長崎港の外国船入港の検査を強化し1825年に「異国船打払令」を出した。

沿岸に近づく外国船を、ためらわず打ち払うよう命じたことから「無二念打払令(むにねんうちはらいれい)ともいわれる。

 – 人物研究戦争報道現代史研究

 - 人物研究, 健康長寿, 戦争報道, 現代史研究

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

『Z世代のための日本スリランカ友好史』★『 日本独立のサンフランシスコ講和条約(1951年)で日本を支持したジャヤワルデネ・スリランカ大統領』★『同大統領ー感謝の記念碑は鎌倉大仏の境内にある(動画)』

2014/11/30 記事再編集 瀬島龍三が語る『日本の功績を主張したセイロンの …

no image
終戦70年・日本敗戦史(82)大東亜戦争の真実「ドイツ依存の戦争実態」<他力本願の軍首脳部の無能ぶり>②

  終戦70年・日本敗戦史(82) 敗戦直後の1946年に「敗因を衝くー軍閥専横 …

no image
日本興亡学入門①日本没落の20年、平成不況から世界同時大不況へ転落か!?

                     …

no image
日本リーダーパワー史(446)「安倍外交を検証する②」再録「小泉元首相の終戦の日の靖国参拝問題を論ず(2006年/09/01)

 日本リーダーパワー史(446)   「安倍靖国参拝外交を検 …

『オンライン天才養成講座/エジソンの発明術を学ぶ』① 『エジソン、福沢諭吉からの警告』★『天才、リーダーは学校教育では作れない』★『秀才、優等生よりは、落ちこぼれ、落第生の方が天才になれるのよ』 

2014/07/17     2018/ …

no image
『「申報」『外紙』からみた「日中韓150年戦争史」(64)『(日清戦争開戦50日後)-『ロイターと戦争報道』

『「申報」『外紙』からみた「日中韓150年戦争史」 日中韓のパーセプションギャッ …

no image
速報(125)『孫正義氏「自然財団」理事長にスウェーデン・エネ庁長官』『福島原発周辺居住の45%の子供が内部被ばく』

速報(125)『日本のメルトダウン』      『 …

no image
知的巨人の百歳学(151)ー 東西思想の「架け橋」となった鈴木大拙(95歳)―『禅は「不立文字」(文字では伝えることができない)心的現象』★『「切腹、自刃、自殺、特攻精神は、単なる感傷性の行動に過ぎない。もつと合理的に物事を考へなければならぬ」』

東西思想の「架け橋」となった鈴木大拙(95歳) 前坂 俊之(ジャーナリスト) J …

no image
★『明治裏面史』/ 『日清、日露戦争に勝利した明治人のリーダーパワー, リスク管理 ,インテリジェンス(52)『宇都宮太郎は、思想的には大アジア主義を唱えていた。』★『孫文や黄興ら中国革命家たちを支援した犬養木堂、頭山満ら玄洋社の支援グループの一人だった』★『『辛亥革命百年の真実』『孫文を助けた大アジア主義者・犬養毅らの熱血支援』

                                 ★『明治裏面史 …

no image
知的巨人の百歳学(127)ー禅の達人・鈴木大拙(95歳)④『1945年8月『日本敗戦』の混乱をみて <言葉を言い換えて事実の本質忘れて、無責任となる感情的な行動(センチメンタリズム)を脱せよ。感傷的でなく、もっと合理的、論理的に考なければならぬーと警告した。。

日本リーダーパワー史(279)   『日本沈没・崩壊は不可避なのか』- …