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*

★よくわかる日本原子力導入の歴史ー『日中原子力テクノロジー再考』・山口直樹(北京日本人学術交流会、北京大学)

   

 

 
第32回北京日本人学術交流会
 
原子力を考える報告会で、日中の市民を主体として原子力について忌憚なく議論できる場を作り出そうと考え、その素材を提供しようと試み。参加希望の方は、4月28日(木曜)までに連絡係の坂本(green.forest1023@gmail.comまで参加希望のメールを。
 
場所;北京大学の教室(予定)(申し込んでくれた人に詳細をお知らせします)
日時;2011年4月30日(土曜日)午後3時から午後5時半ごろまで、その後、場所を移して懇親会。
題目:日中原子力テクノロジー再考
報告者;山口直樹(北京日本人学術交流会、北京大学)
言語:日本語
参加費:10元(資料代、運営費含む)
 
報告要旨は次の通り
 
日中原子力テクノロジー再考
 
 
山口直樹(北京日本人学術交流会、北京大学)
 
 
はじめに
 
2011年3月11日、日本の東北地方を中心とする大地震が発生した。この大地震にともなって発生した津波によって、沿岸にあった福島の原子力発電所は、放射能漏れ事故を起こした。
当初は、「レベル5」といわれていたが、チェルノブイリ原発事故以来の最悪の「レベル7」となった。
原子力発電所の「安全神話」は、崩壊し、推進してきた原子力の専門家たちの中には、次々に「国民に多大なご迷惑をおかけした。」と謝罪している人もいる。世界中のメディアが、日本の原子力発電所の状況を報道し、世界中の人々が、日本の状況を見守っている。
そして事故の発生から一カ月以上たった現在も日本列島は、放射能の恐怖に包まれている。世界中のメディアは、日本の原子力発電所の様子を連日報道しているが、原子力発電所の問題は、現在の文脈だけで理解されてよいのではない。原子力研究の歴史的な文脈を無視しては、原子力発電所について十分な理解を得ることは難しいだろうと報告者は考える。 
 
われわれは知っておく必要がある。日本列島が放射能の恐怖に包まれ、世界中から注目されるのは、決してこれが初めてではないのだということを。
1954年3月1日、南太平洋のマーシャル諸島のビキニ環礁でアメリカは、当時開発していた水素爆弾の実験を行っていた。このとき近海でマグロ漁を行っていた日本のマグロ漁船、第五福竜丸が、「死の灰」を浴び被爆した。日本にとって広島、長崎につぐ三度目の被爆であった。この出来事によって日本の漁業は大打撃をうけた。「水爆マグロ」や「ガイガーカウンター」という言葉が流行語になった。女性の水着の「ビキニ」や日本人なら誰もが知っている怪獣ゴジラもこの出来事から生まれている。この第五福竜丸の被爆には世界中が注目し、世界的に反核運動が盛り上がることになった。
 
こうした歴史を踏まえ、報告者の出発点とする問いは、以下のようなものである。
「日本は、原子爆弾をアメリカに二度落とされた国である。さらに第五福竜丸の被爆で三度目の被爆を経験している。世界でこのような国は、日本以外には存在しない。その日本で50基以上もの原子力発電所が建設され稼動するにいたったのはなぜなのだろう。」
 
1、   日本における原子力研究のはじまり
 
そもそも世界で原子力研究がはじまるのは、原子力発電所でタービンをまわすための原子力研究のためではなかった。それは、軍事研究を明確に念頭においたものであった。
日本では第一次世界大戦後に理化学研究所が設立され、それ以前に設立されている植民地「満州」の満鉄中央試験所でも原子力研究に役に立つ物質の探査が始まっていた。
日本で原子力研究の中心となっていたのは、物理学者の仁科芳雄であった。
岡山県に生まれた仁科芳雄は、東京帝国大学を卒業したあと、1921年から1922年まで原子力研究のためイギリスのラザフォードのところに留学し、その後、1923年から1928年までデンマークのニールス・ボーアのところで原子物理学を学んでいる。
デンマークから帰国した仁科は、1931年に理化学研究所のなかに仁科研究室を設立した。
日本で量子力学や原子物理学の本格的な研究がはじまったのは、1931年から1932年のことである。中国とのかかわりで注目すべきことは、ちょうどこのころから日本は、満州事変など中国を相手にする「十五年戦争」を始めていることである。
日本学術振興会も、1932年12年に成立している。この機関は、科学研究の研究費の配分と合理化に大きな役割を果たすことになる。1935年には理化学研究所内に原子核実験室が設けられ、1937年には理化学研究所で巨大サイクロトロン(加速器)の研究が開始される。
 
1937年の日中戦争開始の年までに日本の物理学者の何人かは、国際的な名声を得るようになっていた。仁科芳雄は、当時としては民主的な研究室運営で知られる人物だったが、仁科研究室では、1933年から宇宙線や核物理研究に関する研究に対し、日本学術振興会から多額の助成金が得られるようになっていた。
そうした状況の中で原子力研究にとって決定的といってよい出来事が生じる。1938年ドイツの科学者のオットー・ハーンと が、原子核の崩壊を発見したのである。この出来事をきっかけに各国で原子爆弾開発の研究が本格化していく。
 
あまり知られていないことだが、日本においても理化学研究所で「二号研究」や「F研究」という原子爆弾開発のための研究が、行われていたのである。ところが日本においては、大学間、省庁間、海軍、陸軍の競争や不一致が目立ち大規模な科学動員は行われなった。仁科は、『科学日本』(1942年4月)において「大東亜戦争によって世界史的意義をになわされるようになった我々は、日本の科学振興の問題を今日とくに緊急かつ重大なるものと考えるのである。そこで我が国における自然科学の振興とその促進を行うにあたってまず考えられるべきものは、科学のこのような中央機関の設立である。」(38頁)と書いている。
そのような科学の中央機関である日本学術研究会議は、ようやく1945年にたちあげられたが、時はすでに遅かった。日本の原爆開発は成功しなかった。
 
2、   アメリカにおける原爆開発
 
第一次世界大戦後、世界の科学研究の中心は、ワイマール共和国のドイツであった。
物理研究や化学研究でも高い水準を誇っており、日本からも多くの科学者が留学した。
しかし、1933年に政権をとったヒトラーは、ドイツの優秀なユダヤ系の科学者を迫害し、科学者たちのアメリカへの亡命が相次ぐこととなった。
そのアメリカはヨーロッパ人からは、辺境とみなされていたが、やがてドイツにかわり世界の科学研究の中心となった。1941年、アメリカのニューヨークのマンハッタンで原爆開発のためのマンハッタン計画が開始される。この計画には物理学者や化学者、数学者も参加しており、歴史上、もっとも数多くの約12万5千人の科学者を大規模動員して行われた研究プロジェクトであった。(マンハッタン計画では、すでに人体に対する放射線影響が行われていた。)その結果アメリカは、1945年に開発に成功し、1945年8月6日と1945年8月9日それぞれ日本の広島と長崎に原子爆弾が投下される。
 
3、   占領期の日本の原爆調査団
 
1945年8月6日に広島に原爆が投下されると、日本政府は、1945年8月10日アメリカ政府対し、スイスを通して抗議を行っている。1945年8月11日の朝日新聞で報じられた抗議文には「帝国政府は、ここに自らの名に於いて、且つまた全人類及び文明の名に於いて米国政府を糾弾すると共に、即時かかる非人道的兵器の使用を放棄すべきことを厳重に要求す。」と書かれていた。しかし、その後、今日に至るまで日本政府は、一度としてアメリカ政府に正式に「非人道的兵器の使用を放棄すべき」だという抗議は行っていない。
まず広島に8月6日に原爆が投下された直後、大本営が、8月8日に広島に大本営調査団を派遣した。それは原爆の被害状況を調査するものであり、戦争の継続に必要なものであった。その調査団は、陸軍省や理化学研究所のメンバーから構成された30名ほどのものであった。
         
1945年8月15日に昭和天皇は、日本陸海軍に停戦命令を出し、8月18日には、陸軍に復員命令をだし、日本軍は連合国の降伏を受け入れる体制ができていた。しかし、陸軍医学校による原爆調査は継続されていた。8月22日にほかの陸軍医学校メンバーが、広島に向かっている。陸軍医学校と中国とのかかわりを書くならば、戦前、ハルピンにおいて中国人を実験材料として細菌の研究を行っていた731部隊のメンバーは、陸軍医学校のメンバーであった。8月28日にはアメリカの進駐軍が厚木に到着するがその翌日、8月29日、陸軍医学校を中核とする東京大学医学部、理化学研究所の合同メンバーが、広島を調査する。
これをはじまりとしてアメリカ占領軍の原爆傷害調査団(ABCC)と日本の科学者や医学者による被爆者たちへの合同調査が、はじまっていく。占領史家の笹本征男氏によれば、この合同調査団は、被爆地の妊婦や乳幼児の調査や広島の呉市に非被爆者を集め、同時に被爆者との比較調査をもおこなっていたという。(似たようなことは、アメリカがマーシャル諸島のビキニ環礁で水爆実験を行っていたときにも行われた。)
 
4アメリカの日本占領政策の転換
 
占領期の日本では、原爆についての報道が規制されていたほか、原子力研究や航空機研究は、アメリカの占領軍によって禁止されていた。原子力研究の実験施設であるサイクロトロンも占領軍によって破壊されていた。それは、日本がふたたび、軍事国家に向かわないということでなされたことであった。ところが、そうした占領政策は、1948年ごろから大きく転換していく。それは、東アジアの国際政治に大きな情勢の変化があったからである。
その情勢の変化とは,1949年の中国革命であった。東アジアではじめての社会主義政権の誕生によって本格的な東西冷戦の時代が訪れ、日本の占領国のアメリカは、日本の民主化ということよりも日本を極東における反共の砦にする政策を優先するようになっていく。そのことをつぶさに目撃したアメリカ人にトーマス・ビッソンがいる。そのトーマス・ビッソンは1900年にニューヨーク市で生まれた。
 
1923年にラトガ-ス大学を卒業し、1924年ではコロンビア大学で神学研究し、その後、北京の燕京大学で教鞭をとった。1927年の田中内閣による第一次山東出兵を皮切りにその当時、日本は、中国への侵略政策をおし進めていたためビッソンは動乱期の中国大陸で中国民族の苦しみを目の当たりにし、反日本帝国主義の立場を固めることになる。その後、1928年にアメリカに帰国したビッソンは、1938年に処女作『中国における日本』を出版する。1945年8月、日本軍国主義が、敗北するとビッソンは、米国戦略爆撃調査団の一員として日本に派遣されている。
 
ビッソンは、天皇制廃止、新憲法制定、旧財閥解体、農地改革、といった戦後日本の民主改革にかかわっていたが、マッカーサーらに敗北し、アメリカに帰国した。1948年ごろを期とした政策転換によっていったん公職追放されていた大日本帝国の権力中枢を担ったものたちは、次々と戦後の日本社会に復帰していくこととなる。
帰国後のアメリカでビッソンは、マッカーシズムの嵐に巻き込まれ、ベトナム戦争のときまで沈黙を余儀なくされることになった。
そのビッソンは、占領政策の転換によって「戦後日本の民主改革は、不徹底なものに終わった。」と述べている。
 
4、   第五福竜丸のビキニ被爆と日本における原子力テクノロジーの導入
 
1952年、日本は、サンフランシスコ講和条約によってアメリカの占領から独立し、主権を回復した。この時期、日本は戦争の混乱が収まりつつあり、日本は西側の自由主義世界の一員として国際社会に復帰していった。
その独立から二年後の1954年3月1日、日本のマグロ漁船、第五福竜丸が、アメリカの水爆実験によって被爆するという事件が起こった。日本のメディアで最初に第五福竜丸の被爆を報道したのは、読売新聞であった。この出来事をきっかけに世界的な反核運動が盛り上がっていくこととなるが、同時に注目すべきなのは、まさに第五福竜丸が、ビキニ環礁で被爆し、世界的な反核運動が盛り上がっていくまさにそのなかで日本の国会で原子力予算が、成立し戦後日本の原子力研究がはじまっていることである。1954年3月2日、国会で2億3500万円の原子力予算が提案され採択されている。
原子力予算を成立させたのは、当時、民進党の議員だった中曽根康弘氏である。
 
第五福竜丸がビキニで被爆する前年の1953年、アメリカの大統領であったアイゼンハワーは、国連総会において「平和のための原子」という演説を行い原子力の非軍事的利用を意図するようになっていた。これに日本でいちはやく反応したのが中曽根康弘だったのである。日本の原子力研究については当初、設立された当時の学者の国会ともいわれた日本学術会議さまざまな議論がなされた。日本学術会議では当初は慎重論が多かった。中曽根氏による突然の原子力予算の成立は、「札束で学者の目を覚ます」といわれたが、日本学術会議は、「民主・自主・公開」の三原則を定め政府に申し入れた。これをうけて1955年、原子力基本法をはじめとする原子力三法が成立し日本の原子力研究の体制が、かためられていくことになる。
 
5-1、ゴジラの登場と日本テレビ
 
第五福竜丸の被爆によって着想された日本における「はじまりの怪獣」といってよい怪獣は、ゴジラであった。ゴジラは、東宝という映画会社のプロデューサーの田中友幸をはじめとするいくつかの注目すべき才能によって考え出され世に出されたが、当時の人々の核に対する不安や恐怖を見事に形象化したものといってよかった。
そのゴジラは、『ゴジラ』(1954) において東京に夜あらわれ、国会議事堂を破壊し、数多くの報道関係者がいるテレビ塔を倒す。
小林豊昌は、『ゴジラの論理』(中経出版1992)のなかで「国会議事堂と背後の銀座炎上の光景のアングルを考えると、多分これは日本テレビ放送網(千代田区麹町二ノ十四)の鉄塔ではないかと思われる。」と指摘している。このゴジラのテレビ塔破壊のシーンは有名である。「MS無線短波放送」による実況放送のアナウンサーは死ぬまで職務に忠実で「いよいよ最期、いよいよ最期、さようならみなさん」と絶叫し、塔とともに落していく。
このときゴジラが、破壊したのは、戦後日本のめざすべき方向を象徴する建造物ばかりであったが、日本テレビを破壊したのも正確な認識であったと思われる。
 
この時点(1954年11月)で日本に存在していたテレビ局は、NHKと日本テレビだけであったが、民放の放送局は、日本テレビだけであった。その正式名称を日本テレビ放送網株式会社という。日本テレビが、放送を開始するのは、1953年8月28日のことである。(54年3月1日、名古屋両テレビジョンが本放送開始)
 

5-2正力松太郎の読売新聞・日本テレビと原子力の平和利用宣伝

 

 この日本テレビというテレビメディアこそは、日本の原子力テクノロジーを導入するにあたっては、極めて大きな役割を果たしたメディアである。

 
この日本テレビ放送網を構想し、実現にもっていった人物は、初代科学技術庁の長官でもあった正力松太郎であった。
今日、プロ野球の賞にも名前を残す正力松太郎は、1885年に富山県で生まれている。
1907年東京帝国大学法科大学に入学し、1911年に東京帝国大学卒業し内閣統計局に入っている。そして、1912年に高等文官試験に合格し、警視庁に入庁している。
 
警視庁に入庁した正力松太郎が行っていた主な仕事とは、労働運動や学生運動の取り締まりといったようなことであった。ところが正力松太郎は、1923年思わぬことから警視庁を辞めざるをえなくなる。1923年10月、難波大助が、虎ノ門で昭和天皇をステッキ銃で狙撃したのである。このときの警備の責任者が、正力松太郎であった。正力松太郎は、このときの責任をとって警視庁を辞任した。その翌年の1924年、正力は、後藤新平から金を借り、読売新聞の経営権を買収し社長に就任した。この当時の読売新聞は、まだ数万部という小部数の新聞だった。戦時中あたりから次第に部数をのばしはじめ、今日においては1000万部という世界最大規模の部数を誇る新聞にまで成長している。正力は日本の戦争遂行にも重要な役割を果たし、1940年には大政翼賛会の総務に就任し、1943年には内閣局総務に就任している。このことによって1945年12月には、A級戦犯の指定を受けて1946年には公職追放を受けている。しかし1947年には不起訴処分となり釈放されている。
 
1950年に読売新聞の社長に復帰した正力は、1951年にはテレビメディアにいち早く注目し、日本テレビ放送網構想を発表している。この日本テレビ放送網の「網」というのは、西側世界すなわちアメリカのネットワークのひとつとでもいう意味であった。
筋金入りの反共主義者でもあった正力と日本を極東における反共の砦にしようとしたアメリカとは利害は、一致していた。かつて中国文学研究者の竹内好が、「私は、反共的な立場から中国を報道するから読売新聞を購読している」と述べたことがあったが、この発言はこのことと無関係ではない。1954年3月1日の第五福竜丸の被爆によって戦後日本で最大の反米の世論が巻き起こっていた。当時の外務大臣だった岡崎勝男は、「アメリカの水爆実験に賛成する」と発言していたが、東京都杉並区の主婦たちから始まった原水爆実験反対の署名は、実に約3000万人にも及んでいた。実はこのとき中国でも「日本人民と連帯せよ」との声が高まっていた。正力は、アメリカの情報機関(国務省、国防総省、CIA、合衆国情報局)が、窮地に立たされていることを聞き及んでいた。
 
そこで正力は、自分のもっているメディアである読売新聞や日本テレビを使って盛り上がっている日本の反米世論を沈静化させる試みを行うことになる。その試みこそ「夢のエネルギーとしての原子力の平和利用」の大々的な宣伝であった。原子力発電所は正力にとっては新聞と同じで政界や財界に影響力をもつことのできるカードのひとつであった。
読売新聞や日本テレビで具体的にどのような宣伝が行われたかは、当日に報告がなされるが、この試みは大きな成功を収めた。
 
当時の人々は、核の恐怖よりも「生活の豊かさ」や「便利さ」に目をむけ次第に第五福竜丸のことなども忘れていくこととなった。こうしたなかビキニ事件もわずかな見舞金で政治決着させられることになる。第五福竜丸の乗組員の一人である大石又七氏は、『ビキニ事件の表と裏』において怒りをもってこう書いている。「ビキニの被災者たちは、日本の原子力発電の人柱にされたのだ。」と。このことは今日においてこそ忘れられてはならないことだろう。なぜなら21世紀初頭とりわけ2011年3月11日以降においては、「原子力の平和利用」そのものが世界的に問われる状況となっているからである。
 
6、中国における原子力研究の開始
 
ビキニ事件が政治決着した10日後の1955年1月14日、ソ連は、中国、東欧の五カ国に対して原子力技術や濃縮ウランの援助を行うと発表していた。このころソ連も共産圏に核のブロックを作ろうとしており、世界初の商業原子力発電所の稼動に成功していたのだった。
このころ商業的原子力発電所についてはアメリカよりもソ連やイギリスが先んじていたのである。
 
ソ連は、50年代、中国に多くの技術者を送り込んでおり、1959年にソ連と中国の関係が悪化するまで多くのソ連の技術者が、中国に滞在していた。こうしたなか中国でも1954年あたりから北京大学や清華大学の物理学者たちが中心となって原子力研究を開始する。それは原水爆の開発が主であった。国家主席の毛沢東は、中華人民共和国成立当初から国際政治の場で発言力をもつためには原水爆を保有することが必要だと考えており、そのための研究体制は、1950年代半ばから整備され、その10年後の1964年10月16日には、はじめて原爆実験に成功し、3年後の1967年6月17日水爆実験に成功する。“両弾一星”は、現在も中国共産党のスローガンのひとつである。50年代においてはソ連が、1957年人工衛星スプートニクを打ち上げることに成功し、アメリカにショックを与えた。毛沢東は、この事態を受けて「東風が西風を圧倒している」と述べていた。東西冷戦に最終的に勝利したのは西側のアメリカだったが、50年代においては東側が、西側を窮地に立たせていたことは、忘れられてはならない。
 
中国においては、軍事優先の原子力研究がされており、商業的原子力発電の研究は、1972年上海核工程研究設計院あたりからはじまり、1985年にはじめての原子力発電所、秦山原子力発電所の建設が着工している。現在、中国の全発電量にしめる原子力発電所の発電の割合は二パーセントに過ぎないが、第12次五カ年計画においては、増大する電力需要において大幅に原子力発電所を増やすことが盛り込まれている。日本の原子力研究について考えると同時にこのような中国の原子力研究についても報告を行い考えてみることにしたい。
 
7、おわりに
 
さらに原子力発電所については論じるべきことが多いが、すべてを論じることはできないので時間が許せば、以下の三点にしぼって問いをなげかけて日中共同で討論を行いたい。
まず、第一に日本において2011年3月11日以降、テレビメディアに数多くの原子力の「専門家」という人々が登場し、原子力発電所の安全性や「ただちに放射線の人体への影響はない」ということを説いた。彼らは、一般の市民が正しい科学知識を身につければ、原子力発電所についての不安は取り除けると考えているようである。しかし、果たして問題は、「専門家」が、科学知識のない一般人に「正しい科学知識」を啓蒙するということだけで解決できるものだろうか。ここでは現代科学論研究における双方向的科学コミュニケーションの問題を考える。
 
70年代にオランダの大学で始まったサイエンスショップやサイエンスカフェの試みなどを紹介し東アジアの科学コミュニケーションの未来について考える。
第二に日本の原子力村の閉鎖性について問題にする。言いかえれば「科学は誰のものなのか」という問いである。日本の原子力発電は、政界・財界・官界・学界が,一体となって推し進めてきたものである。とりわけ経済産業省の官僚、東京電力をはじめとする財界(さらにこの背景には原子力発電所を建設するために数百億という巨額の金を貸し付ける巨大銀行の存在がある。)そして一部の政治家、原子力研究を専門とする学者のみによって社会的意思決定を行う社会構造が厳然と存在している。こうしたなかでは政・財・官・学の癒着が進行する。
 
20世紀初頭のごく小規模の科学研究ならこうしたことはそれほど問題にならないかもしれないが、原子力発電所というすべての人間の生存にとって決定的な影響を与えかねない存在について地域住民や一般市民の意思が、反映されないとするならば、それは民主主義の健全なチェック機能が機能していないことになる。原子力発電所の問題は、科学技術の「専門家」や政策決定にかかわる政治家や官僚のみに任せておいてよいものではない。
 
実は、前福島県知事の佐藤栄佐久氏は、1980年代から福島の原子力発電所の安全性に疑問を抱き、国策としての原子力政策に「待った」をかけ東京電力の原子炉(福島県の10基と新潟県の七基)を停止に追い込んだことがある。ところが佐藤氏は、東京地検によって2006年収賄容疑で逮捕されることになる。このと東京地検特捜部の検事は、「知事は日本にとってよろしくない、いずれは抹殺する。」と語ったという。この言葉は、たとえ知事であっても国策に待ったをかければ、東京地検の標的となることを物語っているが、原子力発電所における政・財・官・学さらには司法の問題についても考えてみることにしたい。
 
第三には日本と中国における「市民科学」の可能性についてである。
1938年、ドイツの科学者のオットー・ハーンとシュトラースマンが、原子核の崩壊を発見した年、日本の群馬県に一人の男児が誕生していた。その男児は、長じてから東京大学の理学部化学科に進学し、国家の原子力関連機関に勤めてから大学アカデミズムの研究者となり、さらにはそれにも満足できず、大学を自ら辞職し、原子力情報資料室の代表を務め科学者と市民のはざまを身をもって生きようとした高木仁三郎氏である。
 
高木氏は環境分野におけるノーベル賞といわれるライト・ライフブリッド賞を1997 年に受賞している。高木氏は、自立した位置を保ちながら核化学の専門的知識を生かし、産官学が一体化して推進する科学の歪みを見逃すことがなく最後まで「希望の組織化」を訴えていた人であった。この高木氏の創始した日本の「市民科学」の伝統は、世界に誇れるものといってよい。現代科学論研究の金森修氏は、「高木氏の真摯な努力をたぐいまれなる例として市民科学の伝統を一種の制度に変える可能性をさぐることができる。」と述べている。
ここでは、高木仁三郎氏の例を紹介し、日中の市民科学の可能性について探る。
 
 
連絡先
北京日本人学術交流会代表:山口直樹( ngodzilla21@ yahoo.co.jp )
http:// j.peopl edaily. com.cn/ 96507/9 7399/66 83162.h tml
 
 

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