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日中韓150年三国志―尖閣問題ル―ツの研究(パーセプション(認識)・ギャップ―憲政の神様・尾崎咢堂の「対中国・韓国論」①

      2016/03/06

<日中韓150年三国志尖閣問題ルツの研究>
『日清戦争勃発に至る<日中思い違い>
(パーセプション(認識)・ギャップ)の研究
憲政の神様・尾崎咢堂の「対中国・韓国論」

<歴史は繰り返す、歴史を凝視し未来の道標にせよ>
私は中国旅行中、中国は無力、無秩序であるにも拘らず、中国人は尊大に構えている
誤りと、日本人の過度な中国心酔の誤りとを同時に正すには両国は一度戦って
見るより外にないと考えた。(尾崎の言葉)
 
 
前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
 
 
熱病のような支那(中国)心酔病
 政党の活動がふるわなくなると、民心は国内問題よりも国外問題に向けられるようになった。中国とフランスとの間で清仏戦争になりそうだというから、私は報知の新聞通信員となって上海へ行くことになった。
 当時の日本には中国崇拝熱が頗る高かった一方、西洋崇拝熱も一部にはあったが、中国崇拝熱とは比べものにならなかつた。当時の青少年のうちには少しは英語などを学んだものもあるが、そういうものも漢学、つまり中国の古い学問を学ばなければならなかった。
私も学問の習い始めは漢学で次に国学、英学と学んだことはすでに述べた通りである。
 こういう状態であったから、日本人の頭はスッカリ漢学思想に扱われていた。漢学は自分の国を世界の中心と考える野蕃時代の中国人が立てた学問だが、日本人はこれを全く鵜呑みにしてしまった。中国人が自国を中華、中国と呼び、諸外国を異狄といえば、日本人もこれに倣って英米仏などを外夷となした。
荻生祖来のように中国に対して自ら夷と称して恥ずるところなかった学者もあった。こんな風だから、日本人は言葉を覚える前に漢学を教わり、何をいうにも漢字を借りなければならないようになってしまった。
この間の太平洋戦争は中国を相手とする事変が因となって起ったのだが、この戦争中も八紘一宇、粉骨砕身、一億一心などという大げさな漢字が頻りに用いられた。
かくいう私もやはり漢学思想にかぶれていたから、オザキユキヲという自分の名前があるのに、わざわざ草堂とか等堂などという呼名を用いて喜んでいたものだ。それが飛んでもない間違いであることを漸く八十八になって気がついたが、世間は気がつかないと見えて、揮号などを漢字で書くことを頼むのでそういう時はやむを得ず漢字を用いている。
 現在でさえ日本人は漢字を用いなければ何事も表現できないほどだから、学問といえば漢学が中心であった当時の青少年の間に、如何に中国崇拝熱が高かつたか想像されよう。幕末の頃、江戸に留学した書生は学校が休暇になって郷里に帰るに、彼等の多くは関西方面であったが「君は師の国に近づくのだから幸福だ」といわれたものだ。師の国というのは孔孟を生んだ中国のことであ
る。また当時盛んに行われた文学者などの会合は駐日中国公使を中心として関かれるのが通例であった。
 当時、日本人は西洋のことはあまり知らないから、上海あたりに出かけて帰って来れば大いに自慢したものだ。横井小楠の如き進歩主義者も見開を広めるために上海へ行ったものだ。
当時上海へ行ったものは、そこで洋服を作って来るのが通例だつたが、日本人が行くとすぐ洋服商人がホテルへ御用聞きにやって来て「ここへ来て洋服を作って帰国した日本人はみんな出世する」などとお世辞をいったそうだ。
 私も漢学で育つたから漢学思想から脱け切れなかったが、世間の熱病のような崇拝熱を冷却させなければならないと思った。そこで私は上海へ行く前、報知に執筆して「我国が初めて交わりを朝鮮・支那に通ずるにおいて、二国の文
明の日本を超越していたことはいうまでもないが、今や文明の地を換へ、我国は東洋の先進国となって支那・朝鮮は遠く後に落ちてしまった。‥‥この時に当たり進んで二国を誘導して、がその頑習俗を打破し、その知識を開拓するほ千六百年間の長恩に報ゆる所以にして、また本邦の利益にもなる。私はこの重任を以て本邦と支那学士に望みます」(現代文に改めた)と論じた。
 また私は当時漢学者が中国に心酔する余り自ら卑下しているのを不快に感じていたから、これについても「支那学士は一度支邦人と対すれば、戦わずして既に降旗を樹つ、署して東夷と云わずといえども、その胸憶を振れば誰か東夷を以て自ら陥り、彼に譲るに中世中国の美称を似てするは何ぞ、余輩実に其心酔の実に過度なるを嘆ぜずんばあらざる也」と論じた。
 ともかく仏支相争うこの機会こそ、中国の実力を観察する好期であると思った。
 
   支那(中国)の無力と無秩序
 
 私は弟・行隆を伴って8月26日横浜から出帆した。同船した新聞記者は時事新報の本田孫四郎、朝日新聞の長野一枝、北清日報の森常太の三君であった。そのほか自由党の小室信介君が一行に加った。
 中国はあれだけの大国だから、とても短日月の間に単独で直接に研究することはできないにきまっている。そこで出発前に多年中国に在住し、または旅行したことのある人々や、中国通に面会して知識を養い、向うへ行っても先輩に種々事情を聴き、その上で実際に当ったらよく分るだろうと考え、その通り実行して見た。
 ところが上海に行くと、わずか一ヵ月居るかおらぬ間に、どぅもその人達のいうことが多く間違っているような感じが起り始めた。自分は上海に来てから、まだ一ヵ月かそこらしか経たないし、耳目の及ぶところ極めて浅く狭い3年も5年も在留している先輩のいうことに間違いのあるはずはないと思い直して、さらに研究して見るけれども、どうしても自分の観た方が正しく、多年中国を見ている先輩の意見は多くは間違っているような感じがやまない。
かくて二ヵ月も過ぎる頃にはますますその感じが深くなるばかりであった。
 そこで初めて私は百聞一見に若かずなどという言葉はあるけれども、国というが如き大きなものを観るには、当にならぬ肉眼を以てしては到底真相はつかめないものであるということを悟った。
この考えはその後幾度かの洋行でいよいよ強められた。西洋に行って向うの悪い所だけを強く感じて帰って来て国粋主義者になるものや、反対に向うのものは何も彼も善いように感じて西洋かぶれになってしまうものなどいろいろあるが、事物を正しく見るということはすべての偏見を棄ててかからなければできないことであるから、殊に片乗りしやすい日本人には余程むずかしいようだ。
さて上海では中国の軍隊が出動準備で大騒ぎであった。しかし私はその状態を見て驚いた。兵隊は鉄砲を持っていたが、その鉄砲は錆だらけである上に、中には逆さにかついでいるものさえあった。
それに鉄砲だけでなく、めいめい雨傘を背負ったり、提灯をぷらさげたりしていた。また無数の旗や鼓を携えているなどその騒ぎは大変なものである。にぎやかではあるが、これでは戦争は出来るはずはないと思った。
 しかもこの兵隊を率いる将軍は七十歳ぐらいの老将軍が駕籠に乗っていた。ところがこの将軍の立派な駕籠の後に二、三台も駕龍が続いているから、あれには誰がのっているのかと聞くと、将軍の妾がお伴をするのだということだった。これには驚くより、あきれてしまった。
この時はフランス軍艦により福建省のある造船所が攻撃されただけで、別段大きな戦争にはならなかったが、私の素人目にも中国には全く戦闘力がないことがハあッキリと判った。
 mたこの日、張楓(立つ編)輪(糸へん)、何如(王へんに章)両大臣の福州の戦況報告が新聞に載っていた。見ると舞文曲筆甚しく、一読噴飯に堪えなかった。空中に楼閣を築く小説家の文章でも恐らくこれほどのデタラメは書けまいと思った。すべて耳目の見聞によらず、想像に基いて文を綴るのを得意としている。一、二尺に足りない白髪を三千丈と誇張して書くなどその一例である。
 中国人は文字を使用することが巧みであるから、地名人名その他文字に現れたものを見ればまことに美しく、うるわしいような気がするが、事実は全く違っているのが通例である。六尺の小巷を名づけて大街といい、溝の上にかかっている小さな橋を北香花橋と称し、古池のほとりの破れ茶屋を湖心亭と呼ぶなど、中国人の美辞を用いて事実を粉飾する二、三の例だが、この習癖は風物の描写に限らず、人事百一般に及ぶのである。
私は中国旅行中、中国は無力、無秩序であるにも拘らず、中国人は尊大に構えている誤りと、日本人の過度な中国心酔の誤りとを同時に正すには両国は一度戦って見るより外にないと考えた。
そこでこの意見を当路の人々に向って述べて見たが、誰一人真面目に受取るものはかった。当時華北にあって中国の実地調査に当っていた福島安正大将-当時は中尉か大尉Iと偶々帰途に同船したから、私はこの意見を述べたが、彼はビックリしただけだった。彼も中国崇拝者の一人であったためか、中国を実地に調査しても私と同じ結論はもたなかった。
               <以上は尾崎行雄『民権闘争70年』(読売新聞社 1952年)>
                                           つづく

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