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片野勧の衝撃レポート『太平洋戦争<戦災>と<3・11>震災⑳ 『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』


   

 片野勧の衝撃レポート

 

太平洋戦争<戦災>と<311>震災⑳

『なぜ、日本人は同じ過ちを繰り返すか』

 

<原町空襲と原発(下)「震災」を写真に残したい>

片野勧(ジャーナリスト)

 

 

遺族が供えたのだろうか。テーブルの上の花束が冷たい浜風で揺れていた。福島県南相馬市原町区上渋佐の介護老人保健施設「ヨッシーランド」。入所者136人のうち、津波で36人が亡くなり、1人が行方不明になった。

津波から一夜明けた3月12日早朝、カメラを持った一人の男性が施設の中へ入った。半世紀以上、街並みの風景や人々の生活を撮り続けてきた地元のアマチュアカメラマン、大槻明生さん(79)である。

3月11日夜、地震の揺れで散らかった茶碗や家具を片付けていたとき、妹の岡村秀子さん(74)から電話が入った。

「大変です。うちのお父さんが津波に呑まれました」

義弟・岡村(ひろし)さん(当時、76歳)がなぜ、津波に呑まれたのか。どのようにして死んだのか。それを知りたくて翌朝早く、施設を訪れたのだ。海岸まで約2キロ。防風林と住宅は跡形もなく、施設周辺は静まり返っていた。

朝日が昇ってきた。手を合わせて撮影を始めた。施設の壁には流木や瓦礫が突き刺さっていた。軽自動車や介護ベッド、車椅子、入所者の名が書かれたおわん、運動靴などが散乱していた。大槻さんにとって、こんな写真を撮るのは初めてだった。

「大さん、辛かっただろうね」

一瞬にして生命が奪い去られた悔しさと悲しさ。大槻さんは1枚1枚に思いを込めた。街は津波で流され、一望千里。これまで見えなかった海が、がれきの向こうに見えた。がれきと化した家屋や陸上に打ち上げられた船舶など生々しい現場を見た。

“記録を残さなければ……”

大槻さんはシャッターを切り続けた。しかし、東京電力福島第1原発から20キロ圏内に住んでいる大槻さんは、避難を余儀なくされ、福島市内へ避難した。それから栃木県小山市の親類宅で約1年間、生活した。その間、月に2、3度、南相馬市の自宅に戻り、被災地を写真に収めた。その数は3000枚以上にもなった。

最も印象に残っている写真は、南相馬市原町区で撮影した「こいのぼり」。がれきが一面に広がる中、風にたなびく様子を切り取った写真だ。孫息子を亡くした遺族が立てたらしい。

「被害を繰り返さないため、復興のために是非、見てほしい」

2012年6月1日。南相馬市原町区の「銘醸館」で第1回の写真展を開いた。多くの来場者が写真に見入っていた。これを皮切りに、東京や山口、千葉、栃木の各県で計20回の写真展を開催した。震災で変わり果てた風景や自衛隊の活動、復興に立ち上がる市民の姿を伝えた。

 

原紡の挺身隊員4人が爆死

 

大槻さんは原町空襲・戦跡の語り部でもある。昭和9年(1934)2月生まれの大槻さんは、原町にあった飛行場の近くで育った。私は大槻さんに案内されて、原町飛行場跡を見て回った。2012年11月25日――。

ここが原町飛行場の正門、あそこがグラマン機の銃弾跡が残る石柱、ここが第3格納庫の基礎コンクリート……。なるほど、戦跡の語り部である。

大槻さんは終戦時、小学生だった。授業と奉仕作業は半々で、あとはイナゴ取り、桑の木の皮むき、茅萱取りなどを行った。6年生の頃、原町飛行場に行き、その一角に縄を張り、草地のところを掘り返し、土を出して畑に見せかけた。木の枝を切って、飛行機の上に乗せたこともあった。すべては米軍に飛行場と見られないための、一種のカモフラージュの作業だった。

「空襲に備えたのですが、今考えると、本当にバカバカしい。幼稚なことでしたね」

原町空襲――。原町に米軍の艦載機が現れたのは昭和20年(1945)2月16日。午前8時過ぎ、グラマン戦闘機とアベンジャー爆撃機からなる16機の編隊が原町飛行場と原町紡織工場(原紡)を繰り返し攻撃した。この爆撃で原紡の挺身隊員4名が犠牲になった。

なぜ、こんな片田舎の原町が狙われたのか。南相馬市に住む俳人・八牧美喜子さんは書いている。

「それは米軍の硫黄島作戦の一環として行われたもので、目的は本土の東北南部、関東、東海などにある航空基地をたたき、日本機が硫黄島へ飛来できないようにすることだった」(『いのち戦時下の一少女の日記』白帝社)

この時、原町飛行場には田教導飛行師団の今西六郎中将がいた。第6飛行師団の飛行第65戦隊が待機していた。しかし、飛び立たなかった。東京の軍司令部から「飛行第65戦隊は飛行機を分散配置し、偽装を適切にし、空襲による被害を極減すべし」という命令がきていたからである(同)。

飛行65戦隊長・吉田穰少佐の回想録『玉砕の島』から。

「敵機の来襲、第一波は突然だった。しかし第二波がきたら敢然と迎撃し、敵機を血まつりにあげたいと考えた。しかし戦隊の任務を考え、軍司令部の命令を思い直し、飛行機の温存をはかった。迎撃したい心を抑え、泣きたいような心情だった」

 

線路は折り曲がっていた

 

終戦直前の8月9日。「ドシーン」。2度目の原町空襲である。原ノ町機関区の鉄道の線路は折り曲っていた。原町紡織工場も壊滅した。石川製糸工場のトロッコ線路に30キロ爆弾が投下された。大槻さんの回想。

「私は家の庭の防空壕に逃げました。ボーンと浮いたようになり、もう、その時はダメか、と思いました。原町紡織は1週間ぐらい燃え続けていました」

翌10日。3回目の空襲。グラマン6機が急降下しながら機銃掃射した。16歳の少年兵が戦死した。この日の波状攻撃で相馬農蚕学校の畜舎と教室が直撃弾を受けて家畜が殺され、教室が焼失した。この空襲で原町紡織、帝国金属、相馬農産学校などはすべて焼失し、6人が爆死した。

原町空襲と3・11――。カメラマンの大槻さんの目から見た空襲による焼け跡と、原発による無残な風景が重なって見えた。しかし、原町空襲と3・11ではまったく違う。原町空襲は壊滅状態だったが、人がおり、山々は繁り、水は清く流れていた。しかし、3・11の場合、人がいなく、何よりも放射能による汚染が山にも川にも海にも広がっていた。

 

九死に一生を得た

 

「いつ、地震が来ても逃げられるように準備していました」

一人暮らしの、その老婦人は地震が発生した11日午後2時46分、南相馬市原町区の自宅にいた。星千枝さん(90)。揺れを感じて、すぐに玄関前の門の戸を開けて外へ出た。テレビはつけっぱなし。

揺れがおさまったと思ったら、また大きな揺れが来た。瓦の屋根の心臓部のぐしが崩れ落ちた。鈴の飾りも落ちた。食器はめちゃくちゃに散らかった。

「こんな地震は初めてですよ」

と星さんは語る。彼女は元高校教師。昭和20年(1945)4月から昭和44年(1969)まで原町高等女学校(通称、原女)と原町高等学校(国語科)に勤務していた。

私は68年前の原町空襲と今回の震災のどちらが怖かったですかと、尋ねた。

「それは空襲の方が怖かったですよ。私は爆風で吹っ飛んでしまいました。防空頭巾も腰掛けも飛ばされました。私は瞬間、これでダメかと思いました。防空壕の一方は完全に崩れました。しかし、一方に明るさが覗いていました」

星さんは九死に一生を得たと言いながら、原町空襲のことを語り始めた。(星さんは原町空襲のことを「はらまち九条の会」ニュース(No.17)に書いているので、それを参考にさせていただく)

――星さんは昭和20年(1945)4月、福島県の中通りの小さな女学校から原女へ転任してきたばかりだった。当時、原女では4年生は郡山の日東紡績富久山工場、3年生は地元の原町紡織工場へ学徒動員され、遠距離の生徒は学校の西2階に宿泊していた。星さんは1、2年生に国語を教えていた。

「でも、皆、農繁期になると田植えや稲刈りに駆り出され、勉強どころではありませんでしたよ」

1945年4月12日の郡山空襲で原女の生徒も数名、生き埋めになった。しかし、幸いにも死者は出なかった。

原町陸軍飛行場は特攻隊員を養成する錬成場だった。20歳前後の有能な若者が厳しい訓練を受けていた1944年の、とある日――。原町役場から原女に電話がかかってきた。「特攻隊が出発するので、見送るように」という伝達だった。

星さんは授業を即刻やめて、生徒たちとともに野馬追城のあった御本陣山に駆け登り、原町陸軍飛行場から飛び立つ特攻機に手を振った。

「飛行機は私たちの上を数回、旋回して2度と戻ることなく、南の空へ消えていきました」

特攻隊についてはすでに「戦災と震災―特攻とフクシマ」の項で紹介しているので、ここでは割愛する。

 

つづく

 

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