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片野勧の衝撃レポート(46)太平洋戦争とフクシマ⑲ 『なぜ悲劇は繰り返されるのかー原発と闘った男たち(下)

      2015/01/01

  

片野勧の衝撃レポート(46

太平洋戦争とフクシマ⑲
『なぜ悲劇は繰り返されるのかー原発と闘った男たち(下)

 

片野勧(ジャーナリスト)

原発の敷地は陸軍飛行場跡だった

 

 「ところで……」と言葉を継いだ。
 「そのころから双葉郡の楢葉、富岡、大熊、双葉が原発の最前線になっていた。もともと原発の敷地は1942年から43年にできた陸軍の飛行場で、農民から強制収容して使っていたのだ」
 それを敗戦で衆院議長などを歴任した西武の(つつみ)(やす)次郎(じろう)3万円で買い取って塩田事業を始めたが、行き詰まって撤退する。その塩田跡地を3億円で買い取って原発を建設したのが県知事の木村守江(当時)と福島県出身の東電社長・()川田(かわだ)(かず)(たか)(故人)のコンビである。当時、大和田さんの教師としての給料は3千円から5千円。大和田さんは続ける。


 「第1原発が建設され、運転が始まったときは、もう手遅れだった。反対しようがなかった。しかし、第2原発の建設が持ち上がった。おれが反原発運動にのめり込むのは、それからだ。新聞記事を見せようか」
 目の前に出されたのが、昭和43年(1968)1月1日付「福島民報」の木村県知事と木川田東電社長、平井寛一郎東北電力社長の「新春座談会」。タイトルは「日本一の“原子力基地”へ」。その座談会からの抜粋――。

木村知事 双葉地区は原野や田んぼが多く浜通りのチベット地帯といわれた。産業開発はおぼつかない地域だったが、幸いなことに木川田社長に目をつけてもらい、日本では最初で最大の原子力発電所が建設されることになった。
木川田社長 僕は生まれが福島県だし、そうした郷愁も多分にあったが、大体、福島県を歴史的にみると工業開発の中心となる電力に対する県の構えは非常に進歩的だ。(中略)…今度は最も文明の先端を行く原子力発電所が建設される。50万ボルトの送電線2回線で東京とつなぐわけだが、この電圧は世界一ですよ。また歴史をつくることになる。

多い自動・手動停止回数


 新時代の先端を行く原子力は日本一のエネルギー源として脚光を浴びる――。浜通りには原発が次々と建った。当時、双葉では水田、養蚕、タバコが農家の現金収入だった。農閑期には出稼ぎに行った。だが、原発が来て、地元の人たちを労働者として使う。
 「東電のやり方は現金収入を与えて、原発から離れられなくしてしまったことだ。また親父が年取って働けなくなると、子どもを使う。まるで人質だよ」


 そればかりではない。原発マネーで競うように立派な公共施設ができた。地域は豊かになった。誰もがそう思った。しかし、段々と分かってきたことは、原発の事故だ。必ず1年に2、3回、どれかが停止するという。
 「事故は隠しようがない。どんな労働者だって原発が止まれば、事故と気づく。非常停止には二つある。自動的に止まることと、運転員が問題を見つけて手動で緊急停止させることだ」


 こう言って、大和田さんは1つの資料を見せてくれた。自ら作成した「東京電力福島第1原発・第2原発の自動・手動停止回数」表――。 それによると、たとえば、第1原発1号機が稼働した1971年から2009年までの停止回数は自動停止20回、手動停止8回。2号機は自動停止8回、手動停止12回となっている。1年間の停止回数は自動・手動停止合わせて88回。第2原発の1年間の停止回数は自動・手動合わせて30回となっている。


 「原発はいつ止まるか分からない。1回、止まると手に負えない。だから我々は反対運動の会員を増やそうと呼びかけたけど、入ってくれない。家族や親戚、隣家も原発で働いているからだ」大和田さんは原発が問題を起こしたたびに、自治体や議会に請願をした。議会で議決し、県知事に出してくれと。しかし、県知事と国は一体だ。
 「前の知事(佐藤雄平氏)も住民側みたいな顔しているけど、国側だ。当時、90市町村あったが、浜通りの町村は絶対受けつけない。補助金をもらっているから、ものが言えないんだ」穏やかな表情だが、発する言葉は厳しい。

東北電力の浪江・小高原発計画は断念


 ところで、東電とは別に、東北電力が1968年、浪江町と小高町(現南相馬市小高区)の境に浪江・小高原発計画をつくると発表した。場所は99%山林で、一番端に人家が5、6軒あった。それで、ここの農民が地主だけでなく集落全体で反対しよう、となって「棚塩原発反対同盟」を結成した。大和田さんは呼ばれて、こう言った。
 「土地を売りさえしなければ原発はできない」
 しかし、人間は弱いもの。病人がいて金がいることを電力会社がキャッチすると、現金を持ってきて使ってくれという。ある反対派の町会議員が交通事故を起こし、有力者に頭を下げた。有力者は電力会社、県、警察と話して、うやむやにしてあげるから原発反対はやめろという。
 高校を卒業しても就職口がない。反対同盟を抜ければ、口を聞いてあげるという。こうしてあらゆるところから手が回って切り崩されるのだ。結局、浪江・小高の「計画」を断念させた。
 国は東電に第2原発1号炉の立地許可を与えたが、これを取り消してくれと国に対して訴訟を起こした。大和田さんは「非常用ディーゼル発電機を地下から2階に上げなくては危ない」と指摘したが、「2階にはスペースがありません」。金のかかる対策は後回しにされ、それが事故を招いたと大和田さんは思う。この裁判は最高裁まで行ったが、棄却された。
 
 大和田さんをここまで反原発に駆り立てたものは何か。
 福島県は明治期、高知県と並ぶ自由民権運動の発祥の地だった。かつて憲法も国会もない時代に自由民権運動に身を投じた人々がいた。その一人が浪江町の(かり)宿(やど)(なか)()(1854~1907)。大和田さんはその末裔である。
 明治元年(1868)、戊辰戦争。薩摩と長州を中心とする新政府軍と会津藩を中心とする東北の諸藩が激突し、会津若松城に立てこもって敗北。維新後、東北では薩長の藩閥政府への不満が高まっていた。そんな中で苅宿は130年前、戊辰戦争の敗北から立ち上がり新たな時代を夢見ていた。新しい国のあり方を熱く議論していたのである。

「自由や自由や 我 汝と死せん」


 苅宿とはどんな人物なのか。簡単に記す。(松本美笙『志士苅宿仲衛の生涯―自由民権運動の軌跡』から)
 ――1854年、苅宿村(現在の浪江町苅宿)の代々神官を務める家柄に生まれた。宮城師範学校卒業後、県内の師範学校教員や小学校の巡回指導員を務めた。1880年、教育の世界から政治の世界へ。自由党に参加。民主主義や民権の思想を説いた。福島喜多方事件や加波事件、大阪事件で逮捕され、激しい拷問を受けた。しかし、いずれも無罪放免。
 とりわけ1882年、道路建設の労役を課せられた農民と、それを支援した自由党員が蜂起した福島喜多方事件で逮捕直前、苅宿は警官を待たせて書を残した。
 「自由や自由や 我 汝と死せん」
 苅宿は釈放後、拘留中の同志への差し入れや家族救援のために奔走した。その後、自由党の県会議員として自由と人権、地域の発展に尽くした。
 ――苅宿仲衛は民権思想を誰から学んだのですか。
 「みな独学で、ほとんど本で勉強していたと思う。ミルンやルソーの本はたくさん残っている。しかし、戦時中は3、4人集まって民権の話をしただけで国賊と言われたから、一切、口に出さないで隠していた。民権運動が復活したのは戦後だ」

おれの民権運動は反原発


 ――民権運動にかかわった先祖がいることにどんな感慨をお持ちですか。系図と大和田家一族の名前が書かれたA4のコピー1枚を見せながら、
 「不正に対して筋を通した先祖がいるということは心強い。おれも負けずに反原発をやろうと思ったね。おれにとっての民権運動は反原発だった」と語った。
 事故から3年数カ月が過ぎても、13万人以上が故郷を離れ、避難生活を送っている。毎週のように原発反対を訴えるデモや集会が開かれている。大和田さんが種をまいた“平成の自由民権運動”の芽は花を咲かせるのだろうか。
私は大和田さんに戦争体験を聞いた。

 大和田さんは戦局が激しくなった昭和20年4月、旧制双葉中学に入学。6月、4年生をキャップに班が編成された。学徒動員で大和田さんは学校近くの山で防空壕を掘ったり、陸軍飛行場に回されたりした。陸軍飛行場での主な仕事は赤トンボと呼ばれた2枚羽根の練習機を米軍機から見えないように隠すことだった。

米軍の艦載機グラマンとB29


 「米軍の艦載機グラマンとB29が近づいてくると、赤トンボの車軸に縄を結び、10人以上で滑走路近くの松林の中に引き込み、松葉などを被せて隠すわけだ。何とも情けない仕事だった。本来、飛行機は敵が来たら戦うことなのに、軍人たちは飛行機を守ることだけ考えて威張っているのだから、どうしようもない」
 7月中ごろの、ある日。大和田さんは沖合を100トンぐらいの貨物船が北上していくのを眺めていた。すると、突然水平線の方からグラマン機が1機、船上を旋回しながら機銃掃射。船は沈められ、グラマンはそのまま水平線に消えていった。
 「皆、びっくりして地上に伏せ、恐る恐る頭をあげてみると、発射音と曳光(えいこう)(だん)が目に飛び込んできたときの恐ろしさは今でもはっきり目に浮かんでくる
 ――艦載機グラマンやB29の爆撃にも遭ったのですか。
 「艦載機が郡山市や福島市へ行くのは安全なのだが、帰り阿武隈山地を越えて海に出るまでの間が怖い。帰り道、余った爆弾を人家めがけて急降下し、落としていく。これが非常に危険だった」
 大和田さんは終戦の時、12歳。国民学校で学んだ国語の文章は「サイタ サイタ サクラガ サイタ」「アカイ アカイ アサヒ アサヒ」。朝日を仰ぎ見る子供たちの挿絵は日の丸を強く連想させる。

「戦前も今も変わらないね」


 大和田さんは戦争に行って死ぬことを叩き込まれた。しかし、その価値観が終戦でひっくり返った。
 「不思議なのは終戦後、軍事教育をした教師が誰一人、責任を取らなかったこと。原発事故でいまだに土壌や地下水、海水が限りなく汚染しているのに、誰も責任を取らないのと同じだ。戦前も今も変わらないね」
 さらに、こう続けた。
 「軍国教育を受けた我々にとって、戦争放棄をうたった憲法は希望の太陽だ」
 しかし、大和田さんはその憲法を変えようとする勢力が増えたことに危機感を抱く。
 ――青年に何かメッセージを!
 「60年安保の時は、我々は闘ったね。しかし、今の若い人たちは集団的自衛権が、これほど騒がれているのに、立ち上がらないのは不思議でしようがない。集団的自衛権が行使されたら、自衛隊員は1万人は辞めるだろうね。最低でも……」
 この国は滅びていくのか。それとも復興に向かうのか。いったい、この国はどこへ向かおうとしているのだろうか?                (かたの・すすむ)

 

 

 

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