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日本風狂人列伝(30) 日本奇人100選①南方熊楠、田中正造、淡島寒月、野沢如洋、富岡鉄斎、田尻稲次郎・・・・

   

日本風狂人列伝(30)
日本奇人100選①南方熊楠、田中正造、淡島寒月、
野沢如洋、富岡鉄斎、田尻稲次郎・・・・

前坂 俊之(ジャーナリスト)
 
南方 熊楠(みなかた・くまぐす)
 
七歳で訓蒙図彙を写し、九歳まで乳母の乳を飲み、隠花植物に凝って予備門(東大)を退学、渡米、サーカスでゾウの基盤を運びながら採集を続け、大英博物館に迎えられて顧問、スペンサー、ダーウィンと並んで論文発表したと伝えられる伝説の巨人。
 
帰国後熊野の奥に隠れて研究を続けた間には、採集林を他人に払下げの問題が起って営林署にねじ込み、「規則だから」と断られて怒り「天則を知らんか」と署長を蹴倒して入牢、出てきて「勉強には監獄が好い、もう一度入りたい」とうそぶいたとか。年中裸で暮し、冬には足袋だけはいて山野を験歩。外国雑誌に専門外の論文三百を寄稿、十余国語を駆使し、四十日分の日記を一度に書いて誤らず等々。一九四一年穀、七十五歳。
 
 
「本を読んだり書きものをしているときは、八畳の離れにいるのですが、そこから一切出てきません。『めしも言うてくるな』 と、食事を自分にさせるなと言うのです。こちらも行かずにそのとおりにしておりました。
いつ出てくるかわからないから用意だけしておきますと、そのうち出てきて 『お前たち、わし今朝からめし食ったかし、自分が食べたか、皆覚えているかと言うのです。『いや、まだ何にも』と言いますと『それは大変だ』 と言いまして……。それぐらい没頭しておりました。夏はここへ蚊帳を吊ってちゃんとしておくのですが、入って寝ていたことがございませんでした。
いつも蚊帳は空のまま残っているのです。はなれの部屋でうたた寝するていどで、夏はたいてい起きていましたね。三日くらいは大丈夫でした。そうなると、こちらへ来てご飯を食べながら、机の下に足を投げて寝るのです、食べながら子供みたいに。書き出したら決して反古にできないのです。破ったりそんなことは一切ないのです。サーッと一気に書くんです、手紙でも原稿でもぶっつけで。書き出したら、こちらへちょっと休みに来ましても二時間ですね、眠るのは。
 
パッと起き出して、それは夜中でも何時でもかまわないのです、寒かろうとなんであろうと。手紙を書くときですと、座布団を除けまして、畳の上へ巻き紙を置きまして、ペタンとなって書くのです。
机の上ではちっとも書かないで畳の上に何にも敷かないで書くのです。若いうちは机にしたり、テーブルにしたりしていましたが、晩年は足の具合が悪いので畳でした、畳に肘をつきましてね。原稿も同じでした。アンパンが好きで、子供にアンパンを配ったりしました。徹夜のときはアンパン六つと決まっておりました」
(岡本文枝「父・南方熊楠を語る/聞き手・谷川健二『展望』一九七八年七月号)。
 
「先生はほとんど私に口を挟む余裕のないほど、立て続けにしゃべる。感心してきいていると先生の鼻の下から青っぱなが二本垂れ下り出した。夏ではあってももう、近くなって、冷えびえとしてきていた。注意するわけにもゆかず閉口していると、どこで見ていたのか後ろの座敷から奥さんが入って来た。

『エラそうな話ばかりしているくせに、サア鼻水が出ましたよ。こっちへお向きなさい』 と云うと驚いたことに先生は、まるで幼稚園の生徒が先生に叱られた時のようにおとなしくなって、口の所まで垂れ下った二本棒のハナを、すなおに奥さんの方へ向けるのだった。奥さんはフトコロから出したハナ紙で、チンと先生の鼻をかんで、そのまま向うへ行ってしまった。先生はまた元気でしゃべり出した」

(下田将美「天才と狂気の間」文芸春秋一九五五年七月号)

昭和十六年八月、熊楠は身体をこわして病床についた。十二月にはトイレで倒れて筆記も不自由になった。
12月8日の真珠湾攻撃に感激し、山本五十六大将に紀州ミカンを送るように頼んだ。28日、「天井に美しい棟(オウチ)の花が咲いている。縁の下に白い小鳥が死んでいるから、朝になったら葬ってやってくれ」と、家人に妙なことをいい、「私はこれからぐっすり眠るから、羽織を頭からかけてくれ。ではお前たちも休んでおくれ」と言い残した言葉が最期となり、翌29日午前六時三十分に萎縮腎亡くなった。大阪医大で解剖されたが、熊楠の脳は平均より百グラム多い千五百グラムであった。
 
田中 正造(たなか・しようぞう)
 
1901年に天下を瞠目させた足尾鉱毒直訴事件の義人。もっぱら鉱害地を蓑笠姿で歴遊、栃木県に生れながら、日光大社を見たことがなかった。
上京には夏なら古浴衣で現われ、身ぐるみ洗濯して主人の衣服を借受けてから面会し、大頭には十五年も同じ麦ワラ帽をかぶっていたという。議員歳費値上げに反対して、ただ一人歳費を辞したことよりは、第一帝国議会以来「馬鹿野郎」「泥棒」「うじ虫」「国賊」と連発した野次で有名だったが元来は美声
の方で、一夜、近所に火事があり駈けつけた時、半鐘の打ち方が手ぬるいと怒って、ハシゴに登ろうとして落ち、下から大口開けて「早く叩け叩け!この馬鹿野郎」と怒鳴り続けて、ノドを痛めて、粥(かゆ)も通らぬ目に会ってから野太い声になった、といわれる。一九二二年没、七十三歳。
 
「小学生の幼い私がわが家のからたちの垣の門に立っていた。季節は梅雨空のころの夕暮れだった。その時、門に入って来る人を私は見た一瞬ぎょっとした。その人は蓑を着て菅笠をかぶっていた。蓑をまとうとはそのころでももう古風な農村の雨具だったが、その蓑に驚いたのではない。その客の顔立ちから強い印象を受けたからだった。たくましい老顔のあごに一束のひげが白くはつすのようにさがって、ぎょろっとした目のこわいおじいさんだった。
 
私があわてて逃げ出そうとすると、いきなりおかっぱの頭をなでられた。コワガランデイイ』という態度らしかったが、節くれだった太い指の手でなでるというより、つかまれた感触だった。母はこの蓑笠姿のこわいおじいさんを平伏して迎えた。役所から帰っていた父も奥から現れた。わが家の夕暮れはにわかにあわただしくなった。母はお酒の支度をした。客の好物の青トウガラシをあぶるために女中は八百屋へ走らせられた。こうして大騒動でもてなす客は田中正造という今も伝わる足尾銅山の鉱毒事件で天下の義人と称されたその人だった」(吉屋信子「野の義人」朝日新聞1963年2月5日)
 
淡島 寒月(あわしま・かんげっ、明治の作家画家、18591926
 
髪を赤く染め、ローマ字の表札を掲げたのは二十歳まで。転じて西鶴を紅葉、露伴に紹介し世之介気取りで全国行脚の後、禅、古美術、考古学、キリスト教進化論、埴輪、泥人形、エジプト趣味などに順次、”5分間趣味″を注いできた人。

風呂帰りの手拭を下げたまま大阪へ行ってしまったり、一円札で六十銭の買物をした釣銭が勘定できぬくせに、好事家に五銭のカスガイを五円で売りつけて儲けたことを得意で吹聴したり、ひたすら好むところに従って生きた泰平の逸民。息子の服装が違うのできいてみたら、三月も前に高等学校に入っていたとか、その息子はまた手紙の上書に「淡島寒月先生侍史」と書いたという達人ぶり。晩年特に玩具を愛して一九二六年没、六十八歳。

 
「〔寒月翁の残した〕ノートのような帳面には様々珍らしい漢字やら、請負師の符ちょうやら、色々あるが、中で私の目についたのは次の通りのものだ。
一三五七九奇数 二四六八十偶数″『一体これは何のためでしょろ』冨の老年になるまで大方奇数偶数ということを知らないでいて、人から聞いたかまたは何かで見たかして、新知識だと思って書き留めておいたのでしょう』ここで皆が笑った。
 
ところで翁の勘定に関する逸話がたくさん出た。翁は子供の時から数字を習う時分にその機会を逸したので(それも翁の我健から算盤はつまらないというので学ばなかったのだ)差引勘定というものをするのが嫌いで、自分の家庭の人々とでも、一円遣って六十銭の玩具を買ってきてもらっても、また一円返させて六十銭別に渡すというようなことをした。

晩年浅草雷門前で五銭の玩具を八つ買ったが、財布を見ると生憎五十銭銀貨が一枚なので、翁は大いに狼狽し『またこの次持って来るから』と言っていく度か詑びた、その玩具屋は常花客なのであるから、足りないとて悪い顔をするのではないが、お神さんはまごついた様子で『いえどういたしまして、ただ今おつりを差上げます』とて十銭翁に返した。

翁にはその訳がどうしても解らなかった。傍についていた経子さんにもまたどうして翁がそんなに狼狽するのか分らなかった。『お父さん、あの玩具は一つ五銭でしょう、五銭なら四十銭じゃありませんか』と言うと翁は初めて気がついたように『ああそうだったな、私はまた五八の六十だと思った』と言って大笑いになった」(生方敏郎「梵雲庵淡島寒月翁を憶ふ」中央公論1926年6月号)

 
野沢 如洋(のざわ・じよよう)
 
弘前名物のネブタ喧嘩の羅卒(巡査のこと)。警部を撲って収監され、同室の死刑囚と組打ちして禁錮二カ月などの武勇伝を残して京都に出、たちまち栖鳳と並称された独学の画家。
三条大橋で出会した婦人の裾さばきに眼をつけて十丁も跡をつけ出歯亀だと巡査に怒られたあげくに一九〇四年中国へ。和服のままロバに乗り孔子廟の階段を駈下りて〝曲垣平九郎″の名をとり、南京では一日千枚の画を描き、大連では四十間の砂上に七頭の大馬を描くなどの腕を見せ、十年後帰国。
文展審査員に推されて受けず、貫災直後洋行、アフリカで黒人に包囲されたり、二八年台湾生者部落を単身訪れて無事帰ったり、冒険と暴力に富んだ一生を送った山水画の大家。料亭で卒倒して1938年没、七十二歳。
 
「〔さる金持の家へ行ったときのこと、その家の主人の〕金を蓄えてあることを鼻にかけての挨拶もはなはだ面白くない。如洋氏モウ不愉快でたまりません。
議論でも吹きかけて一つ制裁をしてその陣なる心術を匡正してやろうかと考えたのですが、そういう機会も生じません。

そのうち主人は座を外して奥の方へ行きました。如洋氏小便が詰まってたまらんので、便所も知れず、『面倒臭い、そんなに金があるなら、床の間の一ツや二ツは叩き壊わしたって困らんだろう。いわんや、ちょっと漏らすくらいはなんともなかろう』と、たちまち股間を開いて、床の間からかけて、畳へたっぷりと急場の用を便じて蘇生の思いでした。そこへ主人再び入り来り、床の間の水を見て、『これは変だ。さっきまでなんともなかったのに、この水は』と血相変えて如洋氏を視詰めたのです。
 

その時如洋氏、『おれが、小便をした。便所がわからんし面倒臭くなったから失敬した』と、疾風のごとき語調です。勇敢なるユダヤ的主人も、この気合に圧されてとみに言葉も出でず、苦がりきっていたのです。この話が伝わって、大連の人士連、痛快を叫び、『彼れ守銭奴、面憎くくは思うておったが、今回如洋君の制裁で、我々も溜飲が下がった』と言って、改めて祝杯を挙げたとやら」(薄田斬雲編「豪快画人野沢如洋」野沢如洋後援会、1930年)
 
 
日本最後の文人・富岡鉄斎(とみおか・てっさい、1837-1924、86才)
 
玄関2畳奥2畳の小屋に古毛氈(ふるもうせん)を敷いて、禿筆をかみかみ大作をものにし、隣家の娘が死んで、主治医が『私のさじジ加減からあの娘もとうとう殺してしまった」と洩らしたのを聞き、押取り刀で駈けつけて威嚇、ついに廃業させたとか、
弟子になるつもりで訪れた娘と意気投合、入門の挨拶を見合の場と変えて結婚したとかのエピソードには事欠かない。
 
20世紀初頭、有名になりかくかくたる画名がとどろいたころ、改まった席に出るには必ず烏帽子をつけ、呼び値千円の半切を使い走りの駄賃にくれてやり、一九二二年には同日に生れたというのでかねて崇拝する蘇東波(そとうば、1036-1101、北宋時代の大詩人)に倣って宇治川に赤壁の雅会を開き支那酒を取寄せ船頭に支那服を着せご満悦だった。二四年の間、常食の粥(かゆ)に茶をかけて掻きこみ、そのまま横になって亡くなった。
 
「ある日、蝋引きの紙を四つ折にして閉じた手帳をもって〔画室へ〕遊びに行くと、祖父はドレドレと手に取って、私の画いたあね様の絵などを見ていたが「俺もかいてやろう」と傍にあった絵本を取って空いている所に、」

ベ夕べタと真黒な人の姿を画いた。「人が電話をかけているところじゃ」と得意そうに笑って返してくれたが、せっかくあね様や花ばかりで椅麗な画帳をつくる心意でいた私は、内心すくなからず不服であった。遊びに行っていて帰ろうとすると、祖父はいつも『いや、何のお愛想もなしに、大きに失礼した』と、まるで大人に云うように慇懃に挨拶するのであった」(富岡ふゆの「祖父・富岡鉄斎」文芸春秋一九四〇年七月号)

 
田尻稲次郎(たじり・いなじろう、1850-1923、専修大学創始者)
 
鹿児島県人、エール大学卒。法博帝大教授、男爵貴族院議員、大蔵次官、会計検査院長、学士院会員、専修大学学監等々の栄職を歴任した幸運児、

実力もこれに伴ったが、風采はきわめて上らず、卒業した子供の制服、夏なら縞のズボン下が三寸も見える兵隊の古服的カーキズボンに渋紙色の麦ワラ帽に手拭を巻き、冬は黒セル詰襟に黒山高帽、竹の皮包握飯を腰に下げ、主義として一里の道を徒歩通勤する姿は、戊申詔書(ぼしんしょうしょ)(明治41年10月13日)当時、明治天皇が日露戦争の勝利で人心が戦勝気分に酔い、次第に浮華に流れるのを戒め、国民、青年の胆を寒からしめたのとまるで同じ。号して北雷(着たなりと訓す)、斗酒も辞せず、牛肉を好み、一日大隈重信を訪うて長靴の中に牛肉包みをしまって上ったら犬が靴ごとくわえ去って大騒ぎしたという。
東京市長をやめてのち一九二三年没、72歳。

 
「田尻さんは十八歳の時、目賀田種太郎男等と一緒に渡米し八年間、ハーバード大学に学んだ。ポストグラジエートコースを卒えたのである。機嫌のいい時にはいつでも出る気焔であるが、わが輩がハーバードにいた時は前大統領タフトと同級であった。

そしてアルバベット順でタジリ、タフトと隣り合って席を与えられたものだ。タフトはさすがに大統領になるほどあって偉い男であったよ、我輩とはすこぶる親密な間柄であった。卒業式当日は我輩がクラスの総代で卒業証書はタフトにも我輩が渡してやったものさ、彼が後年大統領の候補に起った時、我輩に相談の手紙をよこした、我輩も彼の友情の厚きに感心して、すぐ返事をやった。

お前は米国の大統領などよりは、もっと偉い人間だ、馬鹿々々しいからやめにした方がいいだろうとね、ところが彼は我輩の忠告を容れず遂に大統領なんかになってしまったから、後には置場に困るようになってしまったアハハハハ』とすこぶる悦に入ったもの」

(東海漁郎「学者か行政官か田尻子爵の天分」武侠世界一九一九年三月号)
 
  
中江 兆民(なかえ・ちょうみん)
 
坂本龍馬に愛された美少年。岩崎弥太郎に遊学旅費を乞うて断られたのに発憤、大久保利通に蓬頭垢面で面会してフランス留学に成功した。帰国後、東京外語(大)の校長時には蜂須賀文部大臣が、威儀、端然とまるで芝居の花道にかかった殿様よろしく通るので「蜂須賀卿のお成りイッ」と声をかけ即日罷免。

東洋自由新聞では園公(西園寺公望)を居酒屋へ連れこんで下情を伝え、東雲新聞(しののめしんぶん)主筆としては紅いトルコ帽に印絆纏、火の用心と書いた革のタバコ入れを提げドテラを着て議会に入り、盛夏に某遊廓で浴衣のまま天水桶に飛込み巡査が来て叱りつけたら「裸体なら文句もあろう、着物を着てる以上答められるはずがない」と逆ねじを食わせたとか。キンタマ酒の奇談も残して1900世紀第一年に没、53歳。

 
斎藤 緑雨(さいとう・りょくう)
 
士族の生れで町人に親しみ、伊勢に育って江戸を愛した文人。仮名垣魯文に戯作の伝統を享けて天ピンの毒舌を磨き『小説八宗』などの批評集で、明治中期の文壇を騒然たらしめた。

紅葉を「江戸ッ子の生れ損い蔵を建て」と評したのなど名高い。外出には斜子の紋付に一楽の小袖というゾロリとした服装で一日中、車屋を待たせ鳥は浜町の筑紫に限るとか、テンプラは横山町の丸新でなけりやとか、贅を並べて通人を気取っていたがやがて出費に苦しみ、毒舌は内攻して閃かず、警句は冴えを失って愚痴となり最後に「僕本月本日を以て目出度死去致候間此段謹告仕候也四月一日 緑雨斎藤賢」と新聞広告して一九〇三年、我親愛なる正直正太夫はヒョツクリ鶴と化した、三十八歳。

 
 
 
 
 
 

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