明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変②』-『ドイツ、ロシア、フランス、イギリスらの中国侵略に民衆が立ち上がった義和団事件が勃発』★『連合軍の要請で出兵した日本軍が大活躍、北清事変勝利の原動力となった②』
2017/08/21
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変②』
以下は鹿島守之助『日本外交史5巻―支那における列強の角遂』鹿島研究所出版会1970年176-―179P)よりの転載である。
北清事変の概要
義和団は明時代に起こった一種の宗教的迷信を持った暴民の集団であるが、列国の植民地競争に憤慨し、一八九九1899年(明治(32)来、山東、河南省境において、「扶清滅洋」https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1344720863
の旗をひるがえしてキリスト教徒と衝突し、12月31日、イギリス人宣教師一名を虐殺した。
当時、光緒帝の改革方針に反対であった西太后
は守旧派の頭目であった端郡王
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E6%96%B0%E8%A6%9A%E7%BE%85%E8%BC%89%E3%82%A4
を立てて帝の世継ぎとし、国内勢力の発展を企図しっつあったが、義和団を義民とし、これを利用して国権の回復を図ろうとした。
1900年4月5日、義和団が京津地方に入ったので、イギリス、アメリカ、ドイツ、フランスの四公使は軍艦を大沽に派遣し、暴徒の鎮圧を清国政府に要求したが要領を得ず、この際、日本からも軍艦が派遣された。
6月4日の外交団会議において、「支那海に艦隊を派遣している列国の公使は、もし北京が電報や鉄道の断絶のため封鎖され、義和団の暴民が優勢になった場合には、列国政府が連合艦隊司令官に事変に応ずる一切の必要手段をとり、北京を救う任務を委任するよう要求する」という決議を行なった。
このころになって義和団の暴行はますますはなはだしくなり、外交団会議は清国に対し数回にわたって鎮圧要求を行なったが効果がなく、西太后一派の保守派をはじめ清国当局の要人中には、むしろ義和団を援助する者があり、このため各国は派遣兵員数を増加した。
清国においては6月10日、守旧家・端郡王が総理衛門大臣となり、政府の大半は彼に従ったために鎮圧の効果はなかったので、ついに各国軍は行動を開始した。
ところが、列国の増遣陸戦隊は天津、北京間で阻止された。このころから北京は全く戦時状態となり、義和団の暴民は市中を横行し、教会及び外国人に関係のある建築物に放火し、キリスト教徒の殺害事件も相次いで起こった。
このため、外交団の決議により公使館区域である交民巷の警備を厳重にし、また居留民で義勇隊を編成した。
その間、6月11日、在北京日本公使館書記生杉山彬
https://kotobank.jp/word/%E6%9D%89%E5%B1%B1%E5%BD%AC-1083797
が、列国分遣隊出迎えのため停車場に赴く途中、永定門外で董福祥部下の騎兵のため殺害された。
18日にはドイツ公使フォン・ケッテレルが、総理衛門へ赴く途中これも蕫福祥
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%91%A3%E7%A6%8F%E7%A5%A5
の兵に殺されるという事件が起こった。
http://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/1358173fc6b7d03a1ba2de573e444d21
翌19日総理衛門は外交団に対し、二十四時間以内に北京から引揚げることを要求したが、その交渉中の二十日午後、清国正規兵の発砲によって戦端が開かれた。
列国公使館側では、イギリス公使グロード・マクドナルド
が予備役陸軍歩兵少佐で実戦の経験があったので、彼を総指揮官に推してその統制に服し、日本公使館付武官であった陸軍砲兵中佐柴五郎
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9F%B4%E4%BA%94%E9%83%8E
がマグドナルドを助けて主として防禦対策を立案した。
公使館攻囲は六月二十日から七月十六日にわたる約一カ月間が最も猛烈であって、護衛兵及び義勇兵の死傷は多数にのぼった。
七月十八日ごろから半休戦状態となり、八月六日から再び猛烈な攻撃が再開されたが、同月十四日、日本、ロシア、イギリス、アメリカ、フランスの連合軍が到着し、清国正規兵は北京を撤退した。
ロシアは講和談判に先だち、北浦からの各国兵の引揚げを主張したが、実現するに至らず、そのまま談判が開かれた。
九月上旬から李鴻章が全権委員となり、各国から種々提議が行なわれ、数回にわたる公使会議ののち、十二月二十二日、各国代表は連名で要求書を提出し、清国はついにその要求を受講した。その要求書には、謝罪、賠償金、砲台の破壊、責任者の処罰等の事項が規定されていた。
以上が義和団の乱の概要である。
―――――――――――――――――――
日本側は三国干渉国(ロシア、ドイツ、フランス)の清国への恫喝外交、植民地強奪ぶりに反発、増兵に慎重だった。
イギリスの対日増兵要求のエスカレーㇳ、
北京の列国公使館が清国兵、義和団によってて危機に瀕するや、イギリス政府は熱心に日本に対し強力な増兵を請求してきた。
- 六月二十三日、青木外相は外務省に駐日英、露、仏、ア米、墺、伊の各代表の来訪を求め「日本政府は清国形勢の危険が切迫し、大沽及び天津における連合兵の地位が危機に陥ったのを見、その処決を列国の処決と一致させることを希望している。」旨を提議した。
同日、ソールスベリー侯
から訓令を受けた。日本が地理的に好位置にあるために、この難件についてこの際日本の意向がきわめて重大である」旨の覚書を提出した。
日本の救援軍は六月三日、軍艦愛宕の陸戦隊が北京に到着して防禦の主力となり、十二日、佐世保海兵団から将校以下300余名を軍艦豊橋で派遣し、笠置、須磨、鎮遠、鎮中の諸艦と水雷駆逐艦を大沽に派遣した。また十五日の閣議で陸軍派遣隊を送ることに決し、福島安正少将を司令官に任命し、二個大隊を基幹とする騎、砲、工、尊重を加えた混成部隊を編成して派遣した。
大沽の列国艦隊は、シーモア英東洋艦隊司令官を、先任のゆえをもって総指揮官とする連合陸戦隊を組織したが、十七日、岡陸戦隊は日本兵を先頭として大沽砲台を占領し、天津に到達した。
福島少将の混成部隊は二十四日、大沽北砲台に上陸し、逐次天津に集合した。日本政府はさらに一個師団の兵力を派遣することに決し、二十九日第五師団に動員令を下した。
- 六月二十七日、イギリス政府は前後の出兵総数は一万人となるが、日本がさらに七、八千の兵を送ることを希望した。
- 七月三日になって、ホワイトヘッド代理公使は、「北京においてはドイツ公使が殺害され、事態は危急である。外国人はすべて困難をきわめ、刻々救援の到着するのを望んでいるが、連合軍の総数は二万人にすぎない。イギリス政府は日本政府がこの上さらに何らかの措置をとられるか否か承知したい」旨の覚書を手交した。
- 七月五日ホワイトヘッド代理公使は書面で「ソールスベリー侯からの電報に接したが、『北清の事態は重大であって、今日、日本を除いて他に天津に援兵を送ることができる国はなく、日本の増兵は各国の要求である」「イギリスはボーア戦争
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%A2%E6%88%A6%E4%BA%89
に忙殺させられているので、清国に日下派遣中である2万の兵以外に軍隊を増発することについてまだ議決していない。ドイツ、フランス、ロシア等から増派されるはずの軍隊の到着を待つときは、時機既に遅く、且つロシアは日本が大軍を派遣することを歓迎している。日本がこの任に当ることを望む旨、イギリス外相から申出があった」。
⑤七月八日ホワイトヘッド代理公使から、『北京公使館救援のため、日本軍を増遣する場合、イギリスは必要に応じ財政上の補助を与えることを辞さない」旨の申出があった。
他の列国の態度と日本の増兵決定
ところでソールスベリー英外相は、前述のように六月二十三日、日本政府に増兵を要請した始末を、その後ロシア、フランス及びドイツ各政府に通牒してその意見を求めた。
これに対しフランス外相アノトーは、六月二十七日の回答中にはその意見を明示しなかったが、七月三日になり、後日各国間の猫疑のために、指揮の統一と行動の一致を欠くことのないようにするのが肝要だと考えるとの希望を述べるとともに、とにかく日本政府が既に動員した軍隊を早速出兵するようにしたいと答えた。
またドイツ外相ビューローは六月二十八日の回答で、日本の関与によって列国の利害にいかなる影響があるか判断に苦しむが、ドイツ政府がこれに対し責任を負うべきものかどうかもまた判断に苦しむと述べた。
- 七月二日、ドイツのケッテレル駐清公使遭難の悲報が同国に伝わるや、同日、独皇帝ウィルヘルム二世は激烈な演説を行なって直ちに7千の兵に動員を命じ、この旨をロシアに通知した。さらにロシア外相ラムスドルフは六月二十八日英外相に答えて、日本の自由を制肘する意思はないと述べ、七月三日になって、かかる危局にあたり一国に絶対指揮権を与えることには反対であるが、この際、日本またはその他の国が二、三万の兵を送って、共同目的のために協力することは歓迎すると声明、一万のロシア兵は既に支那に上陸したと告げた。
- 七月五日、ソールスベリー英外相は各国の回答に満足し、『この重大なる危機を救うために、速やかに天津に出兵し得るのは日本一国のみであって、何国もこれに反対するものはない』と日本側に通告した。
- この間の日本政府の判断は五年前に三国干渉の苦い経験を嘗め、その植民地帝国3国は依然として一年前まで支那侵略のために堅く提携していたから、うかつにこれと付き合って、またヒドイ目にあいはしないかと慎重な態度をとってきたが、翌六日、次のような閣議決定を行ない、六月二十九日動員令の下っていた第五師団の出動させることを決定したのである。
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