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『国難の研究』日露戦争開戦の外交交渉の経過と政府の対応②日露切迫 と田村卒去と児玉源太郎の参謀本部次長補職

   

国難の研究
日露戦争開戦の外交交渉の経過と政府の対応
 
 
<『明治軍事史』(下)より>
 
1903年(明治36)10月(日露戦争開戦3ヵ月前)
 
日露問題の切迫と児玉中将参謀本部次長補職
 
十月十二日、是より先、七月下旬、帝国政府は御前会議決定の趣旨を体して満韓問題に対する対露交渉を開始し、極東の危機漸く切迫す。
 
十月一日、偶々参謀本部次長陸軍中将田村恰興造卒去するや、同月九日大山参謀総長参内拝謁、其後任に就て上奏す。其結果勅裁を仰て異常の虞置に出て是日、13日、廟堂柱石の一たりし内務大臣台湾総督陸軍中将男爵児玉源太郎の内相を免し、台湾総督専任となし参謀本部次長に補せらる。
 
〔公爵桂太郎伝より〕
 
   対露交渉問題
 
   一対露交渉と公の決心
 
 対露交渉の大方針

対露商議の大方針は、御前会議に於て決定し、小村外相首として折衝の任に当れりと錐も、公は結局、この交渉の或は破裂に終らさるなき乎を予期し、終始戦争の準備を怠らざりき。
 
 当時、世人は、対露交渉の開始を推測して、其結果如何に注目し、其の或は露国の勢力を満洲より駆逐し、極東問題を根本より解決せんとするものなる乎の如く思惟せしも、
 
其実、商議の内容は極めて、謙抑的にして御前会議の決議に見ゆるか如く、満洲問題に乗して、韓国問題を解決するを大主眼とし、言はば一種の満韓交換なりき。然りといえども、
 
当時、我か政府に在ては、これすらも既に非常の覚悟を要せざる可からざる問題なりし也。
 
 随て、所謂る無隣庵会議の内談的商議に於ても、御前合議の正式会議に於ても、この目的を貫徹せんかため、いわゆる、万難を排して、進行するの決議を見しと雖も。
 
愈々談判に着手し、事の至難なるに及びては、中途、或は露国の提案に折合はんとし、更に最後の断案を下さるる可からさる刹那に於てすら、動もすれは躊躇俊巡の状態なきに非さりし也。
 
 
談判開始と開戦の覚悟
 
公は初めより対露交渉の結果、終に戦争を開始せさるを得さるに至らんことを覚悟せり。随て、此の交渉に於ける苦心は、尋常に非す。
 
公は極めて和平の態度を持し、其の耐ふへきは耐へ、其の忍ふへきたけは忍ひたりしも、我か主張の眼目に至りては、一歩も之を護らさるに在りき。
 
但た、其の如何なる時期を捉へて、之を破裂せしむるを利とすへき乎は、治は和局破裂の後、如何なる時機、如何なる順序を以て、収局すへきに留意せしか如し。公は自伝に於て之を叙していわく
 
 
朝鮮問題に対する日露の利害
 
 元来談判の目的たる、朝鮮問題を以て首眼となし居れは、露国の首眼とする所と、其の根本に於て、其の必要の点に於て、既に相衝突し居れは、唯々辞令上、平和を主とするのみにて、結局し得るものに非す。
 
我、露に譲ること能はす、露、亦た我に譲ること不可能なれは、此の談判を開かんとすれは、到底最後の決心は免れさることなりし。
 
然るに、維新以来、急激の速度を以て、帝国国是の遂行をなし来りしか故に、屡々事を外に醸すは好ましからす。露国の大に対し、
 
一度兵戦を交ふるときは、国家の存亡実に測り難きものあるため、可能なだけ譲歩をなしても、事を平和に解決せんとする念慮は、国事難に遭遇せし経験あるものには、免れさる所なり。
 
故に和戦の事を最初に決するは兎角、露国と談判を開くことさへも困難なり。
 
依て、平和的談判を開き若し露国にして朝鮮を全部我に護らされは、如何なるものを犠牲にしても、我は譲歩せざるを條件としたる故なり。
 
余は最初より露国と戦はさるを得さるを決心し居れり。其故は抑も露国の極東政策たる、従来の極東政策に一歩を進め、東清鉄道を旅順港に延長し、一方、清海を制せんかため要塞を増築し、
 
又一方日本海を彼か有とせんかため、朝鮮東海岸より南海岸に手を伸し、現に馬山浦をして彼か軍港になさんとするの政策は、早く明白のみならす、彼れ一度東清鉄道を南満洲に通し、旅順港に延長せは、必すや朝鮮は自衛上、略収せさるへからさるは、当然の要求なり。
 
如何となれは、彼れ朝鮮を取って我に臨めは、我は日本海を失ひ、対馬海峡を把担し能はさるは勿論、南北に延長せる島帝国の領土は、
 
腹背敵を受け、自ら防禦は勿論、国家の生存上、独立を保ち得さるー完、論者を待たずして明なり。
 
又、露国にして朝鮮を失はんか、彼はハルピン、旗順間の連絡を保つは不可能なり。
 
其の故は、我鴨緑江を越え、彼の側面を攻撃せは、南北の連絡は一朝にして失ひ、彼れの目的を達し得さるのみならす、極東政策の根本も、翻さゝる可からさるに至らん。
 
右の如く諭し来れは、彼れには是非、朝鮮を略取するの必要あり、我に於ても亦、彼れに朝鮮を譲る能はさるの理由あり。到底談判を開始せんとせは、

戦争の決心と軍部の準備

 
 戦は最初に於て決心し置かさるへからす。余と外相とは、最初より戦争の決心を以て、談判に取掛りし。
 
又陸軍大臣、海軍大臣即ち寺内陸相、山本海相等も職として当初より準備に取掛りたり。
 
……両国全権の談判は、漸次進行するに従ひ、倍々困難を極め、殊更、彼か利害に大開係あるものなれは(仮令、露本国政府と雖も、極東大守の同意なくては、実行困難の実況なりし)。如何にして平和的談判を纏め得へき、其の一例をあくれは、東京に於ては彼我全権はしきりに談判をなし居る間にも、
 
北朝鮮に於ては龍巌浦に於て、露国は朝鮮政府と共同事業と云ふ名の下に、林木公司の如きものを設立し、現に土地を占領せんとす。
 
其挙動の穏やかならさること、何を以て平和的に談判を纏め得可きや。
 
日を追て困難を増し来れり。余か当初より露国か忍ひ能はさらんと予想せしか如く、露国は平壌以北を彼か勢力範囲とし、其の以南を以て日本の夫れとなさんと提議せり。
 
是れ元我れの忍ひ能ふところに非されは、之れに不同意をなしたれは、彼れは又、鴨緑江を中心とし、相互に中立地帯を設定せんと提議せり。之も亦、我か同意し能ふものにあらされは、
 
予期の如く彼我各々其必要にして、譲歩し能はさるの結果は、最後の手段即ち戦争は止むを得さるの場合に達せり。……

 談判の表裏
 
元来戦争は、当初談判を開始せんと廟議一決せしときより、予期せしと雖も、一国の安危は、容易に論定するものにあらす。
 
又平和的解決は、国家の全体に於て可成的為政者の責任上、勉めさる可からさるものなるは論を待たす。
 
又一方には露国の大に対し、戦を開く杯の議は、口外をも憚からさる国内に於ける雄大なる論者もありし事なれは、最初より開戦の決心ありしにも拘らす、平和を主として、いわゆる戦争はしないの諭を以て進行したり。
 
併し、余は陸海軍当局者とは、当初より意を決して、万一に備ふるの準備は、著々として、整頓したり。

   二 対露交渉の開始


対露交渉開始 

公は、廟議を纏めて、愈々露国に交渉して、満韓問題を解決するに決したり。
 
是に於て、七月二十八日、我か政府は、駐露全権公使粟野慎一郎に訓令するに、露国政府と交渉し、漸韓地方に於ける、一切の問題を解決し、由て以て南国の交誼を完うし、極東の平和を永久に保持するの意を以てしたり。


  修正案の提出と開戦準備

田村参謀本部次長の卒去と後任問題 

 
……この歳十月初旬、十月一日、参謀次長、陸軍中将田村怡与造(たむら いよぞう)の卒去は、公の痛惜する所なりしと錐も、児玉中将の内相を罷めて、代て参謀次長に挙けられたるは、後任其人を得、世人をして政府の決意の存る所を知らしめたり。
 
而して此の任命は、主として公と山県との協議に成りしなりと云ふ。
 
当時、公の山県に贈りし書によれは、公か苦心の跡を想見するに足るものあり。其の書にいわく。

 
児玉中将任用の事情

 
拝呈仕候。陳者長途の御旅行、御著京早々、種々困難なる御相談中上、実に恐縮千萬に御座候。其後、児玉男と程々胸襟を開き、陸軍目下の情勢、殊に国家現今の場合に際し、虞すへき良法無之我、懇談仕候処、実は御親書最後の分一見いたし、

既に決心いたし居、此際に処する閣下の御考案としても、本人を一時任用するの御決心なる事は本人も拝察し、決心致居候次第に而、心より引受可申旨を申出候。然処今朝も縷々拝陳仕候通、内閣前途の事も不堪掛念、今日迄児玉男を基礎とし組織仕居申候。
 
小生の将来の責任如何可仕哉と、苦辛仕居中候。兎に角一夜熟考の上明朝(10月6日)午前の拝光を得、篤と御相談仕度覚悟に御座候。明日は十時より閣議相開侯筈に候間、八時頃迄に伺候可仕心組に御座候間、御含置被下度候。先は御宅後の御様子伺勇、児玉男と示談の慨略申上度。勿々頓着(明治36年10月5日付)
 

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