前坂俊之オフィシャルウェブサイト

地球の中の日本、世界史の中の日本人を考える

*

日本リーダーパワー史(397)肝胆相照らした明治の巨人、福沢諭吉と山本権兵衛ー福沢は「あれは軍人ではなくて学者だ。

      2015/01/01

  

 日本リーダーパワー史(397

 

「肝胆相照らした明治の巨人、福沢諭吉と山本権兵衛

福沢は「薩摩の奴は、全体に数学が分らぬが、奴は軍人では
なく学者だ」と
評した。

 

前坂 俊之(ジャーナリスト)

 

人物論を書く場合に私が座右において最も重宝いるのは森銑三の「近世、明治、大正人物逸話」である。コピー機がない時代に、森銑三の長年、図書館通いをしながら古典を書き写してきた膨大な人物研究のデータを駆使しての精緻な人物百科エピソード集こそ、研究者のお手本のような仕事であり、人物エピソードの決定版であろう。

40年以上愛読しているが、これも若い時に感心したエピソードと、年寄って読み直して感心するエピソードは当然違ってくる。古希となった筆者にとって、自分の体験と照らし合わせて、困難な時代に遭遇した中でその重責を一身に担い、泣き言も言わず、逃げ出しもせず、必死に生き、責任を果たし、亡くなった人物の生きざまが若い時以上によくわかってくる。同じ年を超えて自分なら果たしてうまくできるかどうか、とてもできないと思う。

そんな感じで、いまの日本の政治家、リーダー、インテリゲンチャーを斜めにみていて、「明治の人物のすごさ」をひしひしと痛感するこの頃、この齢である。森銑三の年取ってなるほどと思った人物エピードと引きながら「日本リーダーパワー」の福沢諭吉、山本権兵衛のエピソードと胆力、人間通を紹介したい。

 

森銑三の「明治人物逸話辞典」(1965年、東京堂書店)から引用した。

 

 福沢諭吉にとってはすべてのものが平等であった。慶応義塾の門をくぐると、爵位も、階級も、貧富もなくなる。先生のお宅へ塾長がまいられても、社会における地位の高い人がきても、打ち混じて一緒になっていた。当時の先生のお宅には、床の間がなかった。床の間があるから、座に高下の階級がつく。だからかようなものは入らないというのでありました。

(犬養毅「三田学風の変遷」「三田評論」大正四年七月号所載)

 

この話に関連して、筆者は1963(昭和38)年に福沢精神の「独立自尊」を尊敬して慶応大に入学し、担任の教授の第一声が「先生ではなく、すべてさんずけで呼ぶように」という注意であった。このころまでは福沢平等精神が生きていたのである。

 

昔のことであるが、慶応義塾の壁際などで、小便をする者があって、なかなか止まない。そうしたら福沢先生が、「犬の外、小便無用」として貼り出された。さすがの乱暴書生も、これには恥じて、立小便の悪風正も止んだ。すなわち学生の自尊心を喚起したのである。

 

海軍中佐木村清音らの計らいで、海軍大臣の山本権兵衛伯と会った。山本伯の方から、先生を訪問したのである。伯は大臣の制服で、朝の九時に来た。話には花に花が咲いて、正午にいたった。その時西洋料理のごちそうが出され奥さんも出て来てあいさつせられ、また話が統いて、午後四時にいたった。

 

伯はついにその日は、海軍省へ出られずにしまった。後になって伯から、福沢先生のどのようなところに感服なされたかを聞いて見たら、伯はいった。

 

「自分は多くのえらい人に会っているが、えらい人というものは、自分の手柄話をしようとする。だから私は、それをまた聞かされるものと思っていた。ところが先生は不息読な人で、少しもそれをせられないばかりか、自分の見込み違い、食い違いから、失敗した話ばかりをせられた。

 

こういう計画をしたが、時勢はこう変転した。こういう方針を立てたら、時代

はこう推移したと、そんな話ばかりをせられる。これは実にえらい人だと、頭が下った。」伯は荘重な口調で、かようにいった。

 

 福沢先生の方でも、山本伯には推服して、「あれは軍人ではなくて学者だ。薩摩の奴は、全体に数学が分らぬが」山本は徹頭徹尾マセマチカルに出来でいる」といって褒められた。

 

先生はその後、脳溢血になり、幸いにして回復したけれども、記憶力が衰えて、一時は奥さんの名まで忘れられていた。そうした先生が、しきりに、「薩摩の奴を連れて来い」といわれる。

 

「誰だろうか」と、三田に関係のある薩摩の人々の名を挙げて行ったが、先生は手を振って、「そうでない」といわれる。「ひょっとしたら」と、「山本権兵衛」の名をいったら、先生はやっとその名を思い出して、「それだ」といわれたそぅである。先生の方でも、山本伯を重んじたのせある。(山名次郎「偉人秘話」)

 

 

 - 人物研究 , , , , , , , ,

Message

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

  関連記事

no image
日本リーダーパワー史(732) 再録記事★『世界が尊敬した日本人』 自動車修理工からー代で〝世界のHONDA〃を築いた本田宗一郎

  日本リーダーパワー史(732)     再録記 …

『オンライン/ベンチャービジネス講座』★『日本一の戦略的経営者・出光佐三(95歳)の長寿逆転突破力、独創突破力はスゴイよ②』★『眼が悪かった佐三は大学時代にも、読書はあまりしなかった。「その代わり、おれは思索するんだ」「本はよく買ってきては<積読(つんどく)>そして<放っ読(ほっとく)」だよと大笑いしていた』

  出光佐三は1885年(明治18)8月、福岡県宗像郡赤間町(現・宗像 …

『 2025年は日露戦争120年、日ソ戦争80年とウクライナ戦争の比較研究④』★『長岡・児玉の「有坂砲」の移設、砲撃で二〇三高地占領、旅順陥落を実現した』★『レーニンは「ヨーロッパの全新聞が難攻不落の折り紙をつけた旅順港要塞を、ちっぽけな、今まで誰からも 馬鹿にされていた日本がわずか8ヵ月で攻略した。いざ、学ばんかな、日本人に!」と絶賛した』

2016/01/17  日本リーダーパワー史(643)、日本国難史にみ …

no image
よくわかる日中韓150年戦争史ー「約120年前の日清戦争の原因の1つとなった東学党の乱についての現地レポート』(イザベラ・バード著「朝鮮紀行」より)

まとめ「東学党の乱について」各新聞の報道 イザベラ・バード著、時岡敬子訳「朝鮮紀 …

 日本リーダーパワー史(793)ー 「日清、日露戦争に勝利」 した明治人のリーダーパワー、 リスク管理 、 インテリジェンス』⑪『ロシアのクロパトキン陸相が敵前視察に来日』『ク大将は陸軍士官学校視察で障害物突破競争の優勝者に自分の時計を褒美であげた』●『パーティーでは黒鳩金大将と日本の将軍の視線がぶつかり火花が散り、日本の将軍はさらに恐ろしい目つきでにらみ返して一触速発に』

   日本リーダーパワー史(793)ー 「日清、日露戦争に勝利」 した明治人のリ …

知的巨人たちの百歳学(174)記事再録/日本最長寿の徳川家三代指南役・南光坊天海(108歳)の養生訓ー上野公園内の「墓碑」で長寿健康を祈る―『 養生法・長命には粗食、正直、湯、陀羅尼(だらに)、御下風(ごかふう)あそばさるべし。』★『養生訓「気は長く 勤めは固く 色うすく 食細うして 心ひろかれ」

2015/02/05/百歳学入門(102)・   日本最長寿の徳川家三 …

no image
★『明治裏面史』/ 『日清、日露戦争に勝利した明治人のリーダーパワー, リスク管理 ,インテリジェンス(53)『宇都宮太郎の大アジア主義思想④』★『朝鮮軍司令官時代に、三・一独立運動での強硬弾圧を拒否、大衆運動に対する実弾の発砲を禁止した』

 ★『明治裏面史』/ 『日清、日露戦争に勝利した 明治人のリーダーパワー,  リ …

no image
名リーダーの名言・金言・格言・苦言・千言集(16) 『“ダム経営”を行え』(松下幸之助)『朝令朝改をせよ』(盛田昭夫)

<名リーダーの名言・金言・格言・苦言 ・千言集(16)            前 …

『オンライン講座/ウクライナ戦争と日露戦争を比較する⓶』★『1904年(明治37)/2/4日、日露戦争を決定する御前会議が開催』★『明治天皇は苦悩のあまり、10日ほど前から食事の量が三分の一に減り、眠れぬ日が続いた』★『万一わが軍に利あらざれば、畏れながら陛下におかれましても、重大なるご覚悟が必要のときです。このままロシアの侵圧を許せば、わが国の存立も重大な危機に陥る(伊藤博文奏上)』

  2021/09/01 『オンライン講座/日本興 …

no image
明治150年歴史の再検証『世界史を変えた北清事変①』-『ドイツ、ロシア、フランス、イギリスらの中国侵略に民衆が立ち上がった義和団事件が勃発』★『連合軍の要請で出兵した日本軍が大活躍、北清事変勝利の原動力となった』

明治150年歴史の再検証 『世界史を変えた北清事変①』  義和団事件の発生 18 …